午後六時の蝉時雨

朝生紬

序 


 妹の結婚式前夜、妹が死んだ。服毒による自殺だった。

 そしてその翌日、私は妹の婚約者と婚礼を挙げた。 



 私の生まれた久世くぜ家は子爵位を持つ所謂名家だった。

 けれどそれも先代までの話で、事業に失敗した久世家はあっという間に没落寸前。私と妹である華子かこが生まれた頃にはすでに、爵位にしがみついているだけの中流家庭に過ぎなかった。

 それでも古き家の血筋というものは利用価値がまだあるもので、とある財閥の次男との縁談が出たのは私たち姉妹が十五の時。桜も散り、春も終わりかという頃だ。

 相手は爵位こそないものの国外貿易をいち早く成功させ、国内外に多くの船を持つ雪待ゆきまち財閥だった。

 父は迷うことなく妹の華子かこを雪待の御子息に嫁がせることを決めた。それを聞いた時、私は別に驚くこともなかった。そもそも話を持ってきた雪待財閥の方だって、姉妹のどちらかをとは言いながらも、その実、妹の方しか見ていなかった。

 妹は姉の私から見ても完璧な御令嬢だった。

 気立が良く、大人しく、決してでしゃばらない。和歌に琴、お花に舞踊を嗜み、春の陽気に誘われた蝶が彼女を花と勘違いして指先に留まった、なんて噂も立つほどだ。

 対して姉の私といえば頭でっかちの落ちこぼれ。比べるのも失礼な話である。

 相手の男も優秀な人で、数回顔合わせや華子を送りついでにすれ違っただけだが、いつも穏やかに笑う好青年だった。歳はあちらが四つほど上だったけれど、十も二十も上の男に嫁がされてきた学校の同級生に比べたら、華子の縁談は恵まれ過ぎていると行っても過言ではなかった。

 二人の婚約はトントン拍子で進んでいった。この婚約は金が欲しい子爵家と、血筋が欲しい豪商一族との、まごうことなき政略結婚である。

 それでも華子は幸せそうだった。

 今日はあの人がこんなところへ連れて行ってくれた、今日は帰り道に猫を見た、一緒に行った歌劇がとても面白かった。そんなことを、出かけるたびに聞かせてくれた。その華子の顔を見るのが、私がこの家で唯一安らげる時間だった。

 お見合いだろうが政略結婚だろうが関係なく、華子は彼を心から愛していた。

 

 だから相手の男も、そうだと信じて疑わなかった。

 

柊二しゅうじさん、別にお慕いしている方がおられるみたい」

「は?」

 学校の帰り道、並んで歩いていたら、ぽつりと華子がそう言った。

「は、いやいや何それ? マジで言ってる?」

「もう、またそんな言葉遣いして。お父様に叱られるわよ」

「いいじゃん、別にここには華子しかいないもん。それよかさっきの話よ。冗談よね?」

「ううん、確かだと思う。証拠とかが、あるわけじゃないんだけど」

 公共の場でなかったら「ふざけるな」と大声で叫びたい衝動に駆られた。華子ほどの女を差し置いて、一体どこの女にうつつを抜かしているというのか。

「今からでも婚約取りやめてもらう? そんな男に、華子は勿体無いよ」

「ダメよ。お父様もお母様もお許しにならないわ。柊二さんのおかげで、久世の家は随分立ち直ったもの。私たちがこうやって女学校へ行けているのも柊二さんのおかげなのよ」

「そりゃ、そうだけどさ」

 納得がいかない。私は唇を尖らせて足元の小石をブーツの爪先で蹴っ飛ばす。ぴかぴかの下ろしたての華子のそれとは違って、随分と草臥れている自分のブーツが視界に入って、私はすぐに視線をあげた。

「でも華子はそれでいいの。アンタ、あいつが好きなんじゃないの?」

「好きよ。心からお慕いしているわ」

 はにかむ横顔は恋する少女のそれだ。眩しくて、息が詰まりそうになる。

「だから、いいの。あの方にどれ程恋慕う方がおられても、あの方に嫁ぐのは私だもの」

 カナカナと茅蜩が鳴く晩夏の夕暮れ時。秋と呼ぶにはまだ息苦しさが残り、柘榴の実を潰したような空と世界の境界線が溶けていく。

 丁寧に梳られた、同じ亜麻色の髪を靡かせて、華子はにっこりと微笑んだ。

 その笑顔があまりにも、美しくて、儚くて。

 それでいて、どこかぞっとするほど恐ろしかった。

 


「────華子! 華子、しっかりして!」

 華子を抱き起こしてみてもその体は冷たく、だけど少しだけまだ温かかった。真冬の空に吐く息のようだと思った。

 なんで、どうして。頭の中を疑問符だけが駆け巡る。だって明日なれば彼女は世界一幸せな花嫁になるはずだったのに。なんで、なんで? 

 私の叫び声を聞きつけてきた両親は私以上に半狂乱だった。とくに華子を可愛がっていた母は目の前の惨状を理解出来ないようで、わけのわからない言葉を捲し立てた。

「ちがう」

 不意に母が強い力で私の肩を掴んだ。弾みで抱き抱えていた妹の手が、床に落ちた。

「ちがう、ちがうわ、この子は華子じゃない。華子は死んでない。ねえ、そうなんでしょう? アンタが、ううん、あなたが華子なのよね? ねえ、そうよね?」

 息ができない。何を言われているのか全然わからない。母は私の頰を両手で包んで、うっそりとした笑みを浮かべた。それは安堵の笑みだった。ほんの一欠片の、狂気を孕んで。

 それはどこか、晩夏に見せたあの顔と似ていて。

 ずっと頭の中であの蝉時雨が警報のように、鳴り響いていた。

 

 

 あの日のことを思い出しながら、布団の上で私は静かに瞼を開いた。

 ちょうどその時、衣擦れの音ともにからりと襖が開き、一つだけ灯された蝋燭の火に男の顔がぼんやりと浮かぶ。

 柊二は私の隣に腰を下ろすと何の感情も読み取れない声で「僕が怖いですか」と言った。

 それに、私は俯いたままふるふると首を振って見せた。少しだけ震えた肩も伏せられた睫毛もどれもこれも、ならこうするだろうといった仕草だった。

 両親以外誰も知らない。いや、両親ですら、本当に死んだのは華子じゃなくて姉の方だと思っている。思い込んでいる。そうでないと困るからだ。

 だって華子はここにいるのだから。

「……わかりました」

 するりと帯に指がかかった。湯殿で温められた肌はとっくに冷え切っていたはずなのに、彼の指が這うたびに発火するほど熱かった。好きだと耳元で囁かれる度に嘘吐きと詰りたかった。

 これが羞恥なのか怒りなのか罪悪なのか、それとも別の何かなのかはわからない。

(……華子)

 心の中でずっと一緒にいた妹を思う。はにかむように照れた顔、少しだけ怒ったように唇を尖らせる顔、あの夏に見せた壮絶なまでの美しい────真っ白な死に顔。

 ずっと一緒だった妹。同じ日に生まれた時から、同じ顔で生きてきた私たち。

 生まれた時も一緒だったから、死ぬ時も一緒なんだとぼんやりと思った。


(華子、今、どこにいるの? ねえ……)

 

 これは政略結婚であり、そして同時に私たちの、世界に向けての復讐だ。

 

(私はここにいるよ、早く見つけて、華子)

 


 未だ夏の熱を孕んだ雨が降り頻る中、私はその日、雪待華子になった。 

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