第3話

 結局、あれから彼とは別れて、タクシーで家まで帰った。なんとなく人目に晒されたくないと思って、電車を使いたくなかった。

 今さら、罪悪感なんて覚えているのだろうか。卑しい人間だ。

 帰りたくないなら一緒に行ってあげようか、と言われたが、さすがに断った。まだ家を教えたくない。


 カギを取り出してドアを開ける。誰に見られているわけでもないのに、なるべく無を装った。平常心を意識して、いつもより慎重な息づかいをするわたしは、さながらドロボウのようだ──ドロボウネコは、誰なんだか。

 いつもの私の家の景色が視界に入りこむ。

 少しだけ家賃は高いが、新築1Kで9畳、広いお風呂に独立洗面台、ウォシュレット付きトイレにウォークインクローゼットと、駅から徒歩5分で最強の条件だった。

 白と黒のシックなデザインも気に入っていたし、社会人になって一人暮らしを始めてからというもの、ここが私の城だった。


 手を洗って、うがいをして、一息ついてから鏡を見た。


「……すっぴん、ヒドイ顔」


 何を思って彼はかわいいなんて言ったのか。

 特別ブサイクとは思わないし、それなりにメイクやオシャレも楽しんできたが、だからといって、美人や可愛いの象徴として周囲に扱われるほどでもない。

 スキンケアに力を入れ始めても、未だにニキビはできる。前髪の生え際にできたニキビに苦い顔をして、ため息を一つこぼした。


 駿の浮気相手、色気もすごかったし、何より可愛い顔してたな。

 ふわふわの髪の毛におっきな胸、スラリと伸びる脚はとてもキレイで、少ししか見てないのに、だと分かった。

 別に私だって可愛くなることを諦めたわけではないけど、なんだろうな、ああいうは自分とは別次元に思えて仕方がない。


 でもほら、わたし、仕事は頑張ってるし──言い訳にもならないか。


 ふと、ベッドが目に映る。

 ぐ、と足の先からかけ巡る、言葉にできない嫌悪感が、私の心臓をぶん殴るように暴れまわった。

 鼻の奥がツンとして、手に力が入り、唇が震えた。

 シーツも、枕も、その日のうちにゴミ袋に入れて出した。消毒液までふりかけて、塩までまいた。それでも、汚い。汚い、嫌だ。


「……っ」


 この歳になって、泣き喚くなんてしたくない。でも、体中をかけ巡る嫌悪感と苛立ちが、どうしようもなく私の心を傷つける。

 唇に力を入れた瞬間──通話の着信を告げる音が鳴った。

 誰だろう、と思い表示を見ると、「一条 玲衣 -Rei Ichijo-」の文字。おもわず「えっ」と声を出して、スマホを乱暴に掴んだ。


 バーで意気投合したときに確かに連絡先を交換したが、まさか彼の方からこんなにもすぐに連絡が来るとは思わなかった。

 嬉しく思っている自分に気付いて、少しだけ表情を厳しくする。

 それにしても、この通話に出るかどうか──鳴り続ける着信音に、ぐるぐると思考を回したものの、結局すぐに出ることにした。

 

「……はい」

『出てくれないかと思った。お疲れさま。玲衣です』

「……知ってます。こちらこそ、昨日今日とありがとうございました。あの、ホテル代も朝食代も、ほんとに、その」

『次会ってくれたらそれはもう良いから、……ただ、大丈夫かなって思って電話しただけ』


 ひゅっ、と息が詰まった。

 この人には、バーで散々元カレの愚痴を言った。どんな恋愛に夢を見ていて、どんな人が好きで、本当は私がどう在りたいのかまで、すべて話してしまっている。

 だからきっと、私が強いことも、そして弱いことも、わかっている──わかっていて、通話をかけてきてくれたのだろう。


「ありがとう。大丈夫です」

『聞き方が悪かった。大丈夫って言うしかないよな』


 いちいち人の心を掴んでくる。


『通話出てくれたとき、ちょっと声、震えてたから』

「そ、そういうのは指摘しなくて良いの」

『本当は、美桜さんに整理する時間をきちんとあげたいと思ったんだけど、ごめん、なんか俺のほうがそわそわしちゃって』


 どうして玲衣くんがソワソワするのだろう?


『連絡取らなかったら美桜さんは駿とやらの整理をして、ついでに俺のこともサクッと整理をつけて終わらせるだろ』

「それ、は」


 幼馴染並みに私のことを理解している。ビックリだ。


『ひどい女だね』

「まだしてないです!」


 笑いながら言う彼の声が、心地良い。


「実はタクシーで、irisの歌を聞いてたよ」

『なにそれ、めちゃくちゃ嬉しい報告。俺のこと遠ざけるかと思ってた』

「……そうだね」


 私もなんだかんだ有名人とのワンナイトラブに浮かれていたのかもしれない。


『いや、本当に嬉しい。どれ聞いたの』

XXXキス、でしたっけ?」

『おー、俺のデビュー曲』

「結構激しいロックで曲調好きだったな」

『へぇ、美桜さんロック好きなんだ』

「うん、好き」

『俺のことは?』

「……もー!」

『あ、いま絶対かわいい顔してる。見たかったなー』


 むずむずする心を抑えるように、「なに言うんだか」ととりあえず気にしていない風を装った。たぶん、全部バレてるんだろうけど。


「でもほんとに良い歌だったよ。WeTubeで聞いたんだけどさ。PVも初めて見た。自分に自信のなかった女の子が、リップで魔法がかかったように可愛くなっていくストーリーだよね」

『そう。失恋した子が初めてリップを手にして唇に塗るんだよ。ぱっと華やぐ顔に驚いて、メイクを覚えていくってやつ』

「話題になってたし、当時も好きで聞いてたけど、そういえばPV見たことなかったなーって思って。ストーリーと連動してるって分かってたのに、見なかったあの時の自分は損してたってわけね」


 と、そこまで話して、ずいぶんと時間が経っていることに気が付いた。

 ……やっぱり、この人と話してるとあっという間に時間が過ぎていく。なにより、会話のテンポというか波長? みたいなものが合っているようにさえ感じられて、もっともっと一緒にいたくなる。

 それだけ魅力的な人なのだろう。なんだか悔しいし、少し切ない。


「ご、ごめん。心配してかけてくれたのに、私ばっかり話してて」

『いや、他愛もない会話がしたくて──あなたの声が聞きたくてかけたから、むしろ出てくれてありがとう』


 あ、待って、なんかキュンと来た。

 だめだめ、持ってかれちゃ!


「こちらこ──」


 ガチャリ、ドアが開く音がした。


「え……」

『美桜さん?』


 特に宅配便の届く予定もないし、そもそもチャイムも鳴らさずドアが開くなんて、スッと自分の体温が下がるのがわかった。

 ──駿だ。

 思い至ったものの、身体が固まったように動かない。追い出さなきゃ。この通話も切らなきゃ。そう思うのに、全然足が動かない。

 自分でもビックリするくらい、恐れているようだった。


「美桜、話がしたい」

「……なんで勝手に入ってきたの」


 泣きそうな声は出なかった。その代わり、想像以上に冷たい声だった。


 身長はそれほど高くはないが、切れ長の目が眼鏡の奥から覗くのを見るに、駿も決して悪くない顔立ちだと思う。

 社会人になった今でも大好きなバスケを続けていて、月に数回、バスケをしに遊びに出る彼を尊敬していた。

 実は同じ大学出身かつ同い年だということもあって初めから気兼ねなく話せたし、部署は違えど同じ職場ということもあって、同期でこそなかったが仲良くなるのに時間はかからなかった。


「あんなことがあったんだから、静かにカギをポストに入れてもう会わない、これが礼儀でしょ。そもそも、話すことなんて何もない」

「あれが初めてだった! 決してあの女と毎日毎週会ってたわけじゃない」

「初めてだから見逃せって? 恋愛なんて信頼で成り立つものだよ。この状態で愛せるわけないでしょ」

「俺は美桜が好きだ!」

「……私だって、駿が好きだよ。好きだった」


 好きだった。確かに、愛してた。

 だけど、この先も同じようには愛せない。私は残念ながら、そんなに物分りの良い女ではない。


「お前だって子供がほしいって言ってたろ」

「……え?」

「29だし、俺を逃したら──」


 カッと頭に血が上ったのが分かった。

 本気で言ってんのか、この男は。私はこんな男を好きだったのだろうか。


 恋愛的にはたった一年の付き合いではあったが、それなりにデートもしたし、話もしてきたつもりだった。明るくて、頭の回転も速くて、ちょっと大雑把でだらしないところはあったけど、それをカバーするくらいユーモアがあって、悪くない相手だと思っていた。

 人を見る目はあると思ってたけど、まさかこんな、こんなクズに、結婚まで考えていたなんて、恥ずかしくて恥ずかしくて、たまらなく悔しい。


「……出て行って」

「美桜」

「もうあんたなんか好きじゃない。今本当に一気に愛情が氷点下まで下がったわ」

「美桜、頼むから」

「駿こそ、私みたいなアラサー女にしがみつかなくて良いわけなんだから、そんなに必死にならなくたっていいじゃん」


 自分で言って、自分で酷く傷付いた。


「あの子、可愛かったね」

「み、美桜」

「私とは正反対。守ってあげたいのに色気もあってさ。同じ女から見ても、魅力的だと思う」


 本当に、私とは正反対。


「……まぁお前は課長代理で仕事も上手くいってるし、一人で生きていけるだろうけどさ」

「……そう、ね、そうね」


 私だって、誰かに甘えたいのに。

 私だって誰かにすがってみたいのに。

 私だって──そう思ったとき、ピリリリと私のスマホが通話の着信音を響かせた。

 ハッとしてスマホを見ると、「一条玲衣」の文字。うわ、忘れてた! てか、さっきの通話も切らなかった、どこまで聞かれていたんだろうか。


 ……ああ、でも、これは幸いだ。


「ごめん、友達から電話。カギ返して、帰ってくれる?」


 まだ何か言いたそうだったが、鳴り続ける着信音に微妙な顔をして、ようやく駿が部屋を出ていった。

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わるい子だって、叱ってね 一之瀬ゆん @6mqn

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