第2話
シャワールームを出て戻ってきたら、テーブルの上に豪華な朝食セットが用意されていた。
フレッシュフルーツの盛り合わせという名前にふさわしい貫禄でテーブルに
色とりどりのフルーツは、寝不足と疲労を背負った今のわたしにはとても魅力的に映った。
「こうして見ると、ホットケーキやオムレツも捨てがたかったなぁ」
「また来たらいいだろ」
……返事がしにくい。
口をつぐんでしまった私の様子を察してか、すこし笑った彼の息遣いを感じ取った。
「メイクしてる美桜さんもパキッとしてて素敵だけど、スッピンはちょっと幼いね」
「なに、どういう意味でいってんの!」
「可愛いってことだけど?」
返事が! しにくい!
「irisのリップ使ったことある?」
「iris……」
その名前が出て、ドキリとした。着ていたブラウスを意味もなく掴んでしまう。落ち着かなくて、少し伸びてきた前髪を煩わしく整えるように、触って、伸ばして、そして、おでこの上に丁寧に置いた。
いま話している人は、芸能人なのだ。
喉の奥で唾液が突っかかる感覚がしたが、なんとか呑み込んだ。違和感を置き去りにして、乾いた口を開く。
「まだ手を出したことない、かな」
「多分、“ほしの声はやさしい”シリーズが合うんじゃないかな」
「あ、その曲好きだった。数年前の歌だよね」
「そう、その時のテーマがブルベ冬だったんだけど、多分似合うと思うよ」
ふぅん、と思いながら、スマホを探そうと自分のカバンを漁る。
ブルベ冬──パーソナルカラー診断のイエローベース、ブルーベースにあわせたフォーシーズンのことだと思うが、恥ずかしい話、この歳にしてそんなに詳しくはなかった。
「スマホなら充電中」
「えっ」
「充電しなきゃーって昨日、ホテルついた瞬間に探して、ケーブル見つけてえへえへしてたよ」
「やだ、酔っぱらいの行動を描写するのはマナー違反!」
「ごめん、ごめん。可愛かったんだって」
からかわれていることは十分に理解しているが、あまりにやさしい顔で見つめてくるので、まるで彼が本当に私に恋をしているのではないかと錯覚してしまう。
経験したことのない非日常にあてられているだけなのに。
「早く座って、食べよう」
「そ、そうね」
彼の斜め横に腰掛ける。
そうすると、なんだか彼との距離が近いような気がしていたたまれず、椅子の位置を整えるフリをして少し離れた。
いただきます、と手を合わせて、フルーツを口に運ぶ。
あ、本当は紅茶から先に飲もうと思ってたのに、フルーツしか目に入ってなかった! 密かな後悔を置き去りにして、「んー!」とハッピーな声が漏れ出た。
「おいしー!」
「昨日もフォアグラとポルチーニのリゾットをめちゃくちゃ幸せそうに食べてたよね」
「あれ、おいしかった! その後食べたサーモンのマリネも最高だった〜」
「記憶あるんだ」
「そんなに忘れてな──あっ」
そんなに忘れてないどころか、記憶など飛ばしていない。そう言おうとしたところで、やばい、と思って口を閉ざした。
何を話していても忘れたふりをしたかったのだ。そうするつもりだった。
それなのに、今に至るまでをすべて記憶しているかのような口ぶりは完全に悪手だ。
ふ、と彼の口元が弧を描くのが見えた。すこし意地悪な表情だが、そこにホットケーキのひと欠片が運ばれていく。
あまりの色気に、見てはいけないものを見ているような気がして、すぐに目をそらした。
「『ワンナイトラブなんかしたら相手のこと好きになっちゃうくらい、単純でおもしろくない女だよ』」
あ、聞き覚えが……というか、言い覚えが。
「昨夜、美桜さんがそう言ったから抱いたのに。俺のこと好きになってくれるんじゃなかったの?」
「す、好きだよ。irisのライのことも、昨夜話を聞いて慰めてくれた優しいあなたのことも」
「その割に俺と距離を取ろうとしてるのは、男として見れないから?」
何を言うか。こんなイケメンを男として意識しないほうがおかしい。おまけに、気遣いもできて頭も良い。少女マンガに出てくるタイプの、最強の男主人公だ。
私は逆に、イケメンなんて興味ありません系のカッコイイヒロインとはほど遠く、当然、イケメンに迫られればどきりとする。
傷心中で不安定な今のわたしには、この甘やかされた空間が心地よい。これは、事実だった。
「あの、その、ごめん。どう接したら良いのか分かってない。こういうの初めてで、距離のとり方が分からないの。大人に振る舞えなくてかっこ悪いけど」
でも、私だって馬鹿じゃない。
本気にするほど命知らずでもないし、本気になれるほど、この人のことを知らない。
だから、気を悪くさせない距離感で、ただただ気持ちよくこの場を去れたらそれで良い。割り切るしかないのだ。
そもそも、芸能人の彼と色恋沙汰になるなんて、ありえない。現実を見ないと。また……いや、もしかしたらもっと傷ついてしまうかもしれない。
「でも、ちゃんと別れたら全部良い思い出にでき──」
「美桜さん」
ピシャリ、と止められて思わず素直に言葉を止めてしまった。
「昨夜と同じようにいかないのは分かってる。酔ってる美桜さんにつけ込んだところもある。だから、昨夜見せてくれた美桜さんが全てだとは思わない。でも、あなたに惹かれている俺の心が否定されるのは納得いかない」
真っ直ぐだった。こんなにストレートな言葉で伝えられたのは、初めてだとも思った。
大人になってからというもの、言葉にしない関係性が大人の恋愛なのだと思いこんでいるフシがあった。
結局言葉にしないことで不安な気持ちが煽られて、すれ違いが多くなるわけだけど──思えば、私と駿も、そんなに言葉を交わしていなかったかもしれない。
言葉がなくても信じているのだと、好きなのだと振る舞うことに、なんの意味があったのか。今となってはもうわからない。
「わかった。美桜さんの性格上、何かある度にこの出会いがセックスありきで始まったと思って後悔するだろうから、俺がもう一度口説くなら許してくれる?」
え?
「俺だって、この人だ、と思った人を簡単に手放すようなバカな男になりたくないわけ」
「は、はぁ」
「あんなに可愛くてベタベタに甘えてくれてずっとくっついてくれて寂しがってくれてた美桜さんがしばらく見られないのは残念で残念で仕方がないわけですが」
「やだもう、ほんとやめて!」
「デートやり直そう。来週の土日はどう?」
「ま、まって、私もう29なの。あなたと違って若くない。遊んでる時間は──」
「それは心外だな。男が結婚を意識しない生き物だとでも思ってる?」
「っそういうわけじゃ、ないけど」
そういうわけじゃない。でも、このまま流されても良いのだろうか。
また傷つくかもしれない、遊ばれているのかもしれない──そんな、かもしれない、の不安が押し寄せて、口をつぐんだ。
「強引でごめん。不安だよね。わかってる」
す、と彼の長い指が私の髪の毛を
この胸に飛び込んで遊べたらどれほど良いだろう。きっと、人生でもう二度とない、シンデレラストーリーを味わえることだろう。終わりの分かっている物語。逆に、不安にならなくて良いかもしれない。
でも、むりだ。そんな器用なことができるタイプじゃない。遊びで付き合える性格じゃない。
もちろん、この人に惹かれていないわけじゃない。少し強引なところも、それでいて頭の良さを感じられるところも、私を気遣えるやさしさも、魅力的だ。
でもでも、でも。
「今日はとりあえず帰してあげるから」
「う、うん」
「また俺と会ってほしい」
視線が、ぶつかる。
心が、跳ねる。
戸惑う心臓を
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