わるい子だって、叱ってね
一之瀬ゆん
お月様がそっぽを向く朝に
第1話
「おはよう、
覚醒し切っていない脳が聴覚で捉えた声は、聞き慣れたもののように思えた。
瞼が重力に
──ほどよく鍛えられているとわかる、男の裸だ。
「わた、し……」
あんなことがあったのに、
微かなざわつきを覚えた心臓に、駿とはもう別れたのだと冷静な脳が告げた。
そうだ、半同棲中の家(しかも私の家! 私のベッド!)で他の女と騎乗位セックスするバカとは、完全にオサラバしたのだ。
きったないコンドームを我が家のゴミ箱に投げ入れたアイツを、一生許すことはないだろう。
……では、この裸体は何だ。
「ふ、寝ぼけてる?」
「ねぼけてなんか……」
肌に直接あたる空気の感覚にドキリとして、一気に体温が下がる。
わたしも、裸──!
びっくりして飛び起きようとしたら、その行動を事前に感じ取ったのか。「だーめ」と引き止めるやさしい声が頭から降ってきた──ヒトの体温とともに。
「やっ、なに……!」
「なにって、美桜さんが逃げようとするからだろ」
おっしゃる通り、まず真っ先にベッドから降りて
「えっ」
私の動きを制止するように覆いかぶさってきたその男の顔を見て、今度こそ目を見張った。
少しあどけなさの残る、端正な顔立ちの男。切れ長の大きな瞳。左目の端には色気をまとう小さなホクロ。歯並びの良い口元は弧を描いてこの状況を楽しんでいるようだが、微笑む顔は芸能人と言っても差し支えないほど綺麗で──そう、芸能人と言って……。
「っ、んぐっ!?」
ぐっ、と喉の奥が詰まった。
「げほっげほっ! ぐっ、げほっ」
「大丈夫?」
やさしく背中をなでる手の心地よさにどきりとしながら、脳にも落ち着くよう指令を出す。
どうしてこんなことに……?
29歳独身、
ちょうど一昨日、金曜日。
振休の日だったが、やむを得ず休日出勤となり、朝から気分が下がりまくりだったのは記憶に新しい。
が、想像以上に早く仕事が終わり、ウキウキで帰宅したところ、甲高い女の喘ぎ声とともに彼氏のベッド上の浮気現場を目撃。あまりの衝撃に、地獄の底から
どうも、よろしく。
29歳ともあって多少なりとも結婚を意識していたし、それなりに信じて愛していた。
だからこそ、追い出したはいいものの現実を受け入れられず、放心状態で涙を流すまさに悲劇のヒロインであった。
そうして勢いで数駅先のバーに駆け込み、かつてないほど飲みまくったというわけだ。
「ライ……」
そうだ、そこでこの人に出会ったのだ。
化粧品会社 Lumie のイメージバンド「
メンバーそれぞれがリップ、アイシャドウ、チーク、スキンケアの企画・開発を担当しており、ストーリー性あるイメージソングで新作コスメの世界観を表現する、ちょっと変わったグループ。
美容系バンドということもあってか美形揃いだが、歌の実力・技術も確かなもので、バンドとしての評価も高い。
そして当然、コスメは爆売れだ。
曲、歌詞、ミュージックビデオの世界観だけでなく、メンバーの衣装や歌い方・弾き方にいたるまで、あらゆる表現が化粧品のコンセプトと連動して作り込まれており、女性からの評価はもちろんのこと、男性からの人気も着実に集めている実力派である。
「
「そ、そうね、魔法が解けたんだと思う」
「昨日はあんなに可愛く、れい、れい、って、名前呼んでねだってたのに」
「なっ、にっ」
「お。顔真っ赤」
ボーカル
メンバーの中では最年少で弟キャラ的なところがあり、仕事に情熱を注ぐやんちゃ坊主と称されている。やんちゃ坊主の語源は、女遊びが激しいと話題になっていたことからだろう。
とはいえ、この見た目、この声、この身長の高さとあらば、女遊びの1つや2つ、楽しんでも十分許される。むしろ互いにWin-Winなのでは、とも思う。
おまけに一流海外大学を卒業した高学歴。スペックがハイ過ぎる。
え、詳しいって?
そりゃそうでしょう。これだけの有名人、知らないはずがない。
私を見下ろして囲う、彼の目を見返す。
やんちゃ坊主らしい意地悪さがあることは認めるが、私を見つめる眼差しはもっとずっと男の目をしていて、彼が決して男の子ではないのだと思い知らされる。
ああ、でも、だからこそ。
自分が許せない、と、自己嫌悪がじわじわ顔を出す。
自暴自棄になって、ワンナイトラブ。
あんなに好きだった彼と別れた翌日に、すぐに他の男と寝るなんて──似たもの同士と言っても過言でない。
もう良い歳だから? 大人だから? そんな言葉で、私は私の貞操観念を裏切るつもりはなかった。
こんなことができるなんて、浮気されて当然だ。
きっと、こんな私の愚かさに気づいたアイツが賢いのだ。
「……昨日は慰めてくれてありがとう」
そっと目を見て、口元に笑みを作った。
真意を隠す表情だと、客観的な自分が評価した。
「ライくんのおかげで良い夜を過ごせたよ。ありがとね」
貞操観念を裏切るつもりはないとは言ったが、騒ぎ立てるほど子どもでもない。
今は切り替えて、家に帰るしかない。
まだ日曜日。明日は幸いにも振休を取得したので、気持ちを整えるにはちょうど良いタイミングでもある。
まずは家に帰って、掃除と片付けかな。
そう思考を飛ばしたが、私に覆いかぶさっている男は全く退く気配がない。
「あ、あの……ライくん……?」
「玲衣って呼べよ」
「……そうだよね。芸名のまま呼ぶのはどちらにせよ失礼だった。ごめん」
「それどういう意味で言ってる?」
苛立ちを含んだ声に、しまった、と思った。何か地雷を踏んだのだ。
「俺はプライベートのつもりで美桜さんと接してるけど」
「わかってる。あなたとライを結び付けて騒ぎ立てたりしないつもり」
「ライは俺の一部だから結びつけておいて」
「そ、そっか。わかった」
「わかってねぇだろ」
あまり聞かない強い口調に、びくりと心臓が音を立てた。その様子を感じ取ったのだろう、「悪い」と小さく漏らされた謝罪に、少し目を丸くしてしまう。
なるほど、大人の男らしい機転だ。相手の機微を感じ取って即座に謝罪できる切り替えの良さ。良い男だなぁ、と改めておもう。
駿は、こういったことはできなかったかもしれない──元彼を思い出す。
「
「いいの、私が失礼なことを言ったんだと思うし」
「何が失礼だと思う?」
「えっ」
やだ、詰められてる気がする。
上司に怒られたときを思い出して、無意識のうちに苦い顔になる──焦りだす心臓の裏で、非日常に空回りする確かな熱を感じながら。
「と、とにかく、このことはちゃんと私の胸にしまっておくし」
「それは助かる」
「うん、だから安心して今回のことは忘れて欲しい」
「喧嘩売ってんの?」
勘弁してください。
どういうつもりで言っているのか理解できなくて、少し泣きそうになる。
この歳にして情けない話だ。
「腹減ったわ。ここのビュッフェ美味しいけど、ルームサービスでもいいよ。どうする? 何食べる?」
少しゴツゴツした長い指が、私の頭を優しく撫でて離れていった。
スラックスだけ身に着けた彼が立ち上がり、高級感のある白いソファの近くに向かっていくのを眺める。
背が、高い。
どきりと高鳴る鼓動を隠すように表情を作って、不自然じゃないよう間を隠すタイミングで「そうね」と声を出した。
すこし掠れていた。のども痛い。
ふと、ぐるりと室内を見回す。
……ラブホではなさそうだった。ビュッフェ、とも言ってたしな。
部屋に大きめのソファがあるだけでなく、おそらくルームサービスに対応できるよう、丸テーブルに椅子も二脚設置されている。テレビもこの上なく大きい。
カーテンが閉まっていて外の様子は完全にはわからないが、隙間から見える景色を見るに、かなりの上層階だとわかる。
「もしかしてラブホのほうが良かった?」
「そういうわけじゃ……」
「美桜さん相手にちゃっちぃ演出をしてやるつもりはなかったから、ラブホはあえて避けちゃった。興味があるなら次回ね」
「も、もう行かないけど!?」
「俺は行きたいけど?」
セフレを求めてるなら、私じゃなくて良いでしょ!?
「俺はセフレからでも良いよ。美桜さんが俺のこと好きになってくれるなら、どんな入り方でも構わない」
「会ったばかりの人にそんなこと言うと胡散臭く感じちゃうから、口説き文句ならやめたほうがいいんじゃない?」
「なりふり構わず愛されたいって言ってたから」
「……そういう見え見えの
「嫌いじゃないくせに」
渡されたものは、ホテルの案内本だった。ルームサービスのページが開かれている。
美味しそうな文字列の横に、値段の数字が見えた。うっわ。朝食セットが5000円もすることに気づく。
え、ここどこなの──気になって表紙に戻ろうとしたが、それもそれでなんだか卑しい気がして、なんとか留まった。
動揺を悟られないようにして、悩むフリをする。
「スモークサーモンとサワークリームのブレッドセット……フレッシュフルーツの盛り合わせ……ワッフルとフレンチトーストの贅沢朝食セット……なにこれ、全部食べたい」
これは本音。
「全部たのむ?」
「食べられないでしょ!」
「今ならいける気がしてくる」
「絶対お腹に詐欺られてるやつだよ、それ。騙されないでね」
「それはそう。俺もわかってはいる」
「ふふ、それでも騙されてやるのが男気かな」
「そういうこと」
会話のテンポが合うな、と感じて、複雑な気持ちになった。空気感も嫌いじゃない。むしろ心地良い。
でも、彼はコミュ力の高い人だから、「この人と合うな」ってこちらが思わされるのは仕方ないとも思う。勘違いで傷つきたくは無い。
ぐ、と唇に力が入った。
彼の視線が私の顔に注がれているのを感じながら、なんともないような声色で「フレッシュフルーツ盛り合わせがいいな」と続けた。確かに、いつもの私の声だった。
「頼んどく。シャワー浴びておいで」
あっちだよ、と指が示す方に目を向ける。ありがとう、と会釈をして、とりあえずパウダールームらしい方向に足を進めることにした。
頭はよく、回っていなかった。
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