架け橋
@yuichi_takano
架け橋
大量のカメラに取材陣。それらが壇上を見つめて、私がそこに上がるのを待ち構えている。ある程度、このような状況には慣れているつもりだったが、どうしてもゲンナリしてしまう。それに今日は、秘書のかよ子もいない。よって会見までの間に、スケジュールの確認や社員への指示をする必要があるのだが、『なぜ私が謝罪しなければならないのか』という考えが邪魔をする。
彼女がいればなぁ、などと考えていると、自然にため息が出てしまう。これで今日、何回目だろうか。
だが、嘆いていても仕方がない。左手首についた腕時計を見ると、会見の三分前。最後に一つ大きなため息をついて、私は壇上へと向かった。
———恥ずかしい話だが、ここから先のことをあまり覚えていない。それほどまでに重圧を感じ、緊張してしまっていたのだろう。しかし、一つだけ覚えていることがある。それは私が、謝罪の代わりに発した言葉。そして、このような立場になってからずっと、人類に伝えたかった言葉。
「確かに私はレズビアンではありません。ですが、異性愛者やバイセクシャルだという訳でもないのです。もっと、こう、そのような括りを超えたものだと考えています」
数日後に謝罪会見を開くことなんて微塵も想像していない私は、普段通り本社オフィスへと出社する。「
「社長、おはようございます」
するとそこに、かよ子が待ち受けていた。今は朝の八時。彼女のことだから、三十分前には出社していたことだろう。
「おはよう。相変わらず早いのね、かよ子。でもあなた、ちゃんと休んだ方が良いんじゃないかしら?チーク、忘れてるわよ。後で私の貸してあげるから、つけておきなさい」
「あ、ありがとうございます、申し訳ありません。そ、それでは本日のスケジュールを———」
そう言って彼女は、今日の予定を確認していく。聞き取りやすい速度に、要点を的確に捉えた説明。これだけで彼女の優秀さが、ひしひしと感じられる。
だが、それ故に、綺麗な花の「トゲ」の部分が際立って見えてしまう。だってそうだろう、普段から化粧をしている人間が、チークだけ忘れるなんて状況、あり得るはずがない。几帳面な彼女なら特に。これは明らかに故意だ。自分のことを見てくれているかを確認する、試し行動だとしか考えられない。しかも、「私に見られているのか」を確かめるための。
あぁ、重い。
初めて見知った大学の頃から、十数年間も続くこの癖は、私の心を腐り落とさせ続けた。その結果、彼女に辟易としている自分自身を、客観視できるまでになってしまった。もしかすると、これが行き過ぎることで、離人症になるのかもしれない。
そういえば、出会いたての頃、付き合おうと言われたこともあったが、あの時、上手い具合にはぐらかせて本当に良かった。私と彼女の関係は、今くらいが丁度良いのだろう。彼女が私に重荷を背負わせる代わりに、私は彼女を利用する、そんな形が。
「———と、以上が本日のスケジュールとなります。もう一度お聞きしたい部分はございますか?」
社長室の目の前に着くのと同時に、彼女の説明が終わる。
「いえ、大丈夫よ、いつもありがとう。あなたのおかげで今日も仕事が上手く行きそうよ、かよ子」
化粧ポーチと、彼女の好みそうな言葉を渡し、さっさと彼女をこの場から去らせることにした。一刻も早く、普段の私に戻りたかったのだ。
「ありがとうございます、そう言って頂けて光栄です。それでは、本日も陰ながら応援しております」
最後の最後まで重いな、そう感じてしまうのは、私の性根も腐り落ちてしまったからだろうか。中に入り、戸を閉めると、ため息が漏れてしまう。なかなか気分の切り替えが効かない。歳は取るものじゃないな。
そのまま目をつむり、数十秒の瞑想する。「他の経営者がやっていたから」という理由で始めたこれも、今では不可欠なものになってしまった。しかも、次第に必要な時間が長くなっている気もする。そろそろ、かよ子とも潮時かもしれないな、そう思いながらデスクに向かう。ノートPCを起動して、私は今日の日記、もとい広報用ブログを書き始めた。
この習慣も、他社のトップを真似たものだ。二十八の頃に事故で父を亡くした私は、父の後を継ぐ形で今の地位に就いた。ノウハウなんてなかった当時は、ただ生き残るのに必死で、ひたすら他人の真似をすることしかできなかったのを今でも覚えている。
あれから四年経ち、会社もある程度の落ち着きを取り戻してきた。その中で、「真似事」の取捨選択をせまられたりもしてきたが、日記は未だに続けられている。
だけど———。
ピピッというアラーム音が鳴り、十分が経過したことを知らせる。いつの間にかスクリーンセーバが起動してしまっていたPCを起こすと、モニタには「架け橋通信」というタイトルだけ。
そう、一文字たりとも進んでいないのだ。以前なら三十八度の熱があろうと書き上げられていたのだが、最近になって急に熱が冷め始めてしまった。どうしてだろう、いつからだろう。いや、そんなこと分かっている。一ヶ月前に彼と出会った時から、「架け橋」という言葉に疑問を感じ始めたのが原因だ。
私が知りたいのはそんなのじゃなくて、どうすれば良いのか、ということ。だけどもちろん、誰も答えなんか教えてはくれない。
私はエディタの変更内容を破棄した。今日もまだまだ、やらなければならないことが山ほどある。日記のことは一旦忘れて、別のタスクに取り掛かろう。
更新が滞っていることに焦りを感じながら、パタン、とPCを閉じた。
———ピピッ。
静まり切った部屋に、アラームが鳴り響く。もうそんな時間か。机にへばり付きっぱなしだった身体を起こし、一つ、伸びをする。そろそろ退社しないと、行きつけのスーパーに間に合わない。でももう少しで、資料の確認の方も終わりそうなのだ。
どうしよう。暫くの間、逡巡する。こういう時に私は、大抵仕事をしていくことを選んでしまう。その方が帰り道で、次の日のタスクについて考え込まなくて済むからだ。そして今日も、それを選ぶことにした。最悪、少し歩いて、別のスーパーに行けば良い。
再び机上の資料を手に取る。なぜか未だに紙媒体で送られてくるそれは、正直とても読み辛い。だが、社員にペーパーレスを提案しても、「こっちの方が慣れてるから」とか「前社長の頃からの」とか言われて全く進まないでいる。
慣習やルール、暗黙の了解。世界はそんなもので溢れている。全てが全てくだらないとは言わないが、大体そういうものはくだらない。どうして、知らない誰かが決めたものに、自分が縛られなければならないのだ。
読みにくい紙の資料と、無関係なことを考えてしまう自分とにイライラして、思った様に作業が進まない。
外に出ると、ひんやりとした風が肌を撫でる。そして、それに乗ってどこからか、微かに
………どうしても仕事のことを考えてしまうな。まぁ、それでも良いか。
そういえば、今日も結局、ブログを更新できなかった。
———「架け橋通信」。
今となってはダサいと思うが、当時はその名前しかない、と思えていた。ここに書かれる文字の羅列が、新人の私と、社員たちとの隔たりを埋める「架け橋」になる、そう心の底から思えていたからだ。
だがそれも、今となっては変わってしまった。なんの気無しに書いた、「私はレズビアンである」という言葉から。
ちょうどその頃に、セクシャルマイノリティの運動が表面化し始めていたこともあって、とある雑誌に「レズビアンの若手社長」として取り上げられたのだ。それから「LGBT」という言葉が広まり、運動が活発になるにつれて、私も世間の目にさらされることとなった。その時ちゃんと先を見据えて発言すべきだったのだが、調子に乗ってしまっていた私は、「架け橋通信」の中で、運動を後押しする発言をしてしまった。この日記は、社員と私との「架け橋」なのに。
そのせいで、次第にそこは、世間にセクシャルマイノリティ運動を広めるもの、つまり、オーバーグラウンドとアンダーグラウンドを繋ぐ「架け橋」になっていってしまった。もちろん、それが元になって開拓できた取引先もあったし、会社自体も有名になったし、メリットもたくさんあった。あった、けれど、その分、私自身のことについて日記に書くことは、ほとんどなくなった。
世間が望むような言葉を、人々が喜ぶように並べる。そんなことを続けていたある日、とあることに気がついてしまったのだ。
それは、セクシャルマイノリティの界隈でも、「暗黙のルール」みたいなものがあるということ。それが故に、ルールに反したことをすれば、そこの住人たちから批判される。「その言動はレズビアンではない」、「LGBTのことを馬鹿にしている」、といったように。
そう、アンダーグラウンド・カルチャーも、オーバーグラウンド・カルチャーも、結局は同じなのだ。「世間一般の『ルール』が間違っている」と主張している人間も、似たような「ルール」を持っていて。そして社会の一部として認められた暁には、それを作る側になっていく。そしてまた、誰かがそれに異を唱えて。ただ、そんなことの繰り返し。
くだらない。私にはそう思えてしまった。
それが大体、一ヶ月前のこと。あの時も確か、この公園に来たんだっけ。
ベンチ一つしかない、公園と呼べるかも怪しい、小さな広場。何もかもに嫌気がさして、そのベンチを占領しながら缶ビールをあおっていた気がする。
そうか、そうだった。私は吸い込まれるように、一ヶ月前と同じ場所に座り、過去に思いを馳せていた。
「お姉さん、大丈夫?」
仕事終わりの一人晩酌。アルミ缶の中身も、あと二割ほどといったところか。
「おねーさーん、だいじょーぶー?」
名前も知らない街路樹の葉が落ちる中、夜中に一人で飲むビール。そんな風情たっぷりの状況を邪魔するのは誰だ。
キッ、と目の前に立つ人間を睨みつけると、そこには男が立っていた。
———ナンパか。
若い頃は何度かされてきたが、まさかこの歳でもしてくる輩がいるとはな。オバさんだったら簡単に釣れるだろうって?反吐が出る。そもそも、こっちはレズビアンだっつってんだろうが!
自分を安く見られた怒りと、アンダーグラウンドの住人たちへの苛立ちと、色んなことへの八つ当たりを込めて、立ち上がると同時にその男の頬を思いっきりビンタした。
パァン、という乾いた音が、夜の街に鳴り響く。それと同時に、男は弱々しく倒れてしまった。 あまりのことに拍子抜けして、酔いがすっかり覚めた私は、彼のその姿を、舐め回すように見つめてしまう。
厚底のサンダルに、七分丈のジーンズ。そこから覗く白い細足。少し長めのカーディガンに、ショートボブという呼び方が相応しい、艶のある茶髪。
「あ、れ………?」
全くもって状況が飲み込めず、謝罪することも忘れて立ち尽くしてしまった。
「ひ、ひどい…。ここら辺、夜、変な男の人、いるから、『気をつけて』って、言おうとした、だけなのに…。わたし、わたし…」
彼の声が震え始めた。
「ご、ごめんなさい。私、あなたがその『怪しい男』だと勘違いしちゃって」
その娘に寄り添うようにしゃがみ込むと、なおさら訳が分からなくなる。喋り口調は「彼女」なのだが、声からすると「彼」な訳で、しかし見た目は完全に「彼女」…。
『そうか!』と思い、股間部を見るが、いわゆる「女の子座り」をしているせいで、ツいているか分からない。いやいやいや、私は一体、何をやっているんだ…。
「と、とにかく、気をつけてください!わたし、帰りますから!失礼します!」
私がテンパっていると、彼は急に立ち上がり、その場を去ろうとした。
———このまま帰してしまって良いのか?
そう思った私は、反射的にその手を掴み、「待って!」と叫んでしまっていた。
それに驚いたのか、彼女は立ちすくみ、うるうるとした瞳でこちらを見つめてくる。
か、かわいい………。いやいや、いかんいかん、だって、彼女は、男だぞ!?あ、いや、そうじゃなくて………。
ええい、あとは野となれ山となれだ。私はポーチに入ったハンカチを取り出し、彼女の目元を拭った。
「あ、汚れちゃいます!」
顔を離そうとする彼女を優しく押さえ、マスカラで汚れるのも気にせずに、それを続けた。
「いいのよ、原因は私なんだから。本当にごめんなさいね」
こういうタイプの子は、少し強引なくらいがちょうど良い、はず。
「ね、ねぇ、お詫びに何か奢るわ。この後、どうかしら?」
これほどまでに性別不詳の人物を口説く、という今までにない経験に緊張して、セリフを間違えてしまった。だがそれでも、彼女は了承してくれた。永い逡巡を挟まれた時は、どうなるものかと思ったが、無事にナンパできて良かった。
その後、二人でコンビニに行き、私はビールを、彼はジャスミンティーを買って、公園のベンチに戻る。その間、あまり言葉を交わさなかったし、座ってからも暫く無言だった。完全に緊張してしまっている…。
このままではダメだと思い、缶の蓋を勢いよく開けた。カシュ、という音が住宅街に響き渡る。喉を鳴らしながら、半分を飲み干し、そのままの流れと、酔いに任せて、その子を質問責めにした。
なぜこんな時間に出歩いているのか。どうして公園なんかにいたのか。そして、一体、何者なのか。
最後の質問に関しては、かなり慎重に聞いたのだが、その子は全く気にもせず、全て快く答えてくれた。
「わたしの家、ちょっと複雑で…。お父さんは仕事で夜遅いし、お母さんはその間に浮気してて。だから夜中、家に誰もいないんです。それで、家に居ても暇だから、外で時間を潰してるんです、眠くなるまで。去年までは、それでも部屋でじっとしてたんですけどね。この春大学生になって、色々な人に出会って。それで、吹っ切れました。それが、今わたしがここにいる理由です」
どことなく寂しそうな微笑みを見て、「私と似ているな」、そう思った。私の家庭も父親が忙しく、母親が夜の孤独を紛らわせるためにホストクラブに入り浸っていた。そんな状況から逃れるために、飲み会に明け暮れたのは、私も大学生の頃だった。
「公園にいるのは、ここが唯一の思い出の場所だからです。わたし、小さい時からずっとここら辺に住んでて。その頃はお父さんもお休みの日は家に居て、お母さんもいつも笑ってたんです。それで、人見知りが激しくて学校に馴染めてなかったわたしを、この公園に連れてきてくれてたんです、近所の友達を作るために。まぁ、それは失敗しちゃったんですけどね。それでも、お父さんお母さんが、わたしのためにやってくれたって事実だけで、嬉しかった。だから、こうやって毎日ここに来て、思い出してるんです、二人の愛を、忘れてしまわないように。………わたしったら、何言ってるですかね、恥ずかしい。お姉さんのお酒で、わたしも酔っ払っちゃったのかも」
そう言って笑うその子に、思わず鼓動が早まってしまった。それが、哀れに思ったからなのか、自分と重ね合わせたからなのか、それとも単純に可愛かったからなのかは分からないが、なんにせよ、この子の幸せを守りたい、そう思った。
「性別、ですか?えーと、男、ですけど?それがどうかしましたか?お化粧?はい、してますよ。だってその方がキレイに見えるでしょ?.........まぁ、でも、確かに、よく不思議がられます。『男なのに、どうして化粧なんてしてるのか』って。でも、別に良いじゃないですか。男だからしちゃダメな訳じゃないし、女だからしなきゃいけない訳でもない。やりたいからやってるだけですもん。わたしからしたら逆に、どうしてそんな枠組みを決めるのかが分からないですけどね。みんな、自分が好きなことを好きなようにすれば良いのにな」
自身のペディキュアを見つめながら話すその姿は、私なんかよりも、よっぽど大人びて見えた。
「誰が決めたかも分からない暗黙の了解」、それが心底嫌いだと自分では思っていたつもりなのに、いつの間にか「男女のあるべき姿」などというものに囚われて、それをこの子に押し付けてしまっていた。
反省した。そして、反省したのと同時に、心が高鳴っていた。それは、その子のことを更に好きになったからと、私の求めていた考え方に出会えたから。
———あぁ、やばい。
酔っているせいもあって、「この子を手放したくない」、そんな気持ちで溢れそうになっていた。私もかよ子のことは言えないな。
「そろそろ、家に戻りますね。お父さん、帰ってきちゃうので」
腕時計をちら、と見てそういう表情には、どこか帰りたくなさそうな様子が見て取れた。
「あーあ、楽しかったなぁ。それじゃあ、お姉さん、くれぐれも変な人には気をつけてくださいね」
そんな顔、そんな顔されたら、私、私、もう———。
「ねぇ、嫌じゃなかったら、私の家、来ない?」
「———えさん、お姉さん、お姉さん、起きて、起きてください」
顔を上げると、そこには見慣れた顔が。
「あ、あなた、どうしてここに?」
「私は買い物から帰ってたところです。お姉さん、まだお仕事中かと思って。お姉さんは?」
「あ、あぁ、私?私は、あなたに頼まれた買い物をしようとして、それで、それで、寝ちゃってたみたい。ごめんなさい」
ベンチに座って、一ヶ月前のことを顧みていたら、いつの間にか寝てしまっていたらしい。気恥ずかしさと、突然目があってしまったドキドキとで、赤面してしまった。
「そうだったんですね。最近、忙しい日が続いてましたもんね。それじゃ、帰りましょうか。お夕飯、すぐに作りますから」
私はその子が持つ買い物袋を片方もらって、同じ帰路についた。
そう、あの日から、私たちは二人で生活している。私の家で。家と言っても、一人暮らし用の貸マンションだが。
朝起きて、二人で軽い朝食を作って食べる。その後、私は仕事で家を空けるが、その間この子は、大学に行ったり、家事をしてくれていたりする。そして私が買い物をして帰り、夜はこの子が料理を振る舞ってくれる。シャワーの使い方が分からなかったことがきっかけで二人で入るようになったお風呂に、一つしかないことが原因で一緒に寝るようになったベッド。そんな日常を送っている。
だが、これだけ密接な関係性ではあるが、不思議とカラダの関係になったりはしていない。恐らくこの子は、そんなこと望んでいないし、私もそれで満足している。というかむしろ、このような間柄をずっと欲していたのかもしれない。男だとか女だとか、年上だとか年下だとか、好きだとか嫌いだとか、付き合ってるだとか付き合ってないだとか、そんなものを超越した、ただひたすらに曖昧な関係。存在するのは、お互いに話し合って決めたルールだけ。
もちろん、法で認められた二人、という訳ではないのだから、いつでもこの関係性は崩れ得る。でも、この子となら、いつまでも、いつまでも、この生活を続けられるのではないか、そう思えてしまうのだ。何故、どうして、そう信じられるのかは、私にも分からないが。
きっと、これが、私にとっての、幸せ、なんだろう。
「さっき、あの公園で寝てたでしょう?そしたら、あなたと出会った時のこと、夢に出てきたの」
そんな他愛のない話をしながら、二人だけの帰り道を歩いていった。
翌朝、いつもと同じ時刻に出社すると、いつもと同じように、かよ子が待っていた。
「おはようございます、社長。早速ではありますが、本日のスケジュールをお伝え致します」
ただ、いつもと違うのは、彼女の表情が緩んでいるところ。嫌な予感がする…。こういう時は大抵———。
「続いてなのですが、まず、『LGBTと社会』という特集番組への出演オファーがありました。そのため、十六時からその打ち合わせとなります」
やっぱりそうか…。彼女は、私が社会とセクシャルマイノリティとの「架け橋」としての仕事をする時、一段と幸せそうな顔をする。それは、大学の頃に付き合おうと言われた際、「レズビアンというものが、社会に認められたら、その時は交際を考える」というように誤魔化したからなのだが、今の私には鬱陶しく思えてしまう。私のことが好きならば、その役割に疲れ切っていることくらい、気がついてほしいものなのだが。
彼女はそのままスケジュール確認を続け、社長室の前まで到着する。今日はかよ子を遠ざける手立てがない。仕方がないので、私からトイレに行くことにした。
個室に入り、パンツスーツも脱がずに、便蓋の上に座る。目を閉じて、そのまま瞑想。今日のそれは、いつもと違って、一際長くなってしまった。
十六時、五分前。社長室のドアがノックされ、かよ子が入ってくる。時間か…。必要なものを持って、応接室へと赴く。そこには一人の女性が。名刺交換を済ませると、彼女による演説が始まった。
「今回、番組の企画・担当をしている者です。藤本様のブログ、いつも拝見しております。実は、私自身もレズビアンでして、藤本様のご活躍で、LGBTと社会との間の『ギャップ』が埋まっていくのを見て、とても喜ばしく思っていまして。それで、今回の『LGBTと社会』と銘打った本番組で、各界の著名なL・G・B・Tの方々をお呼びして、会談を行おうということで、ぜひ『レズビアン』の枠として藤本様にはご出演して頂きたくて———」
また、「枠組み」か…。予想はしていたことだが、どうしても気が沈んでしまう。
どうして、レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーで分ける必要があるんだ?人間、そんなに簡単に、はっきりと分割できるものではないだろう。誰しもが色んな属性を持っていて、それが強かったり、弱かったりする、それだけじゃないのか。
それに、何故、社会と対立させる形で表現をするんだ?社会は敵ではないはずなのに。アンダーグランド・カルチャーと、オーバーグラウンド・カルチャーの関係は、「どちらが勝るか」とかではなくて、「どちらも良いところがある」というのが正しい在り方なのではないのか。対話をして、争って、その末にどちらかが勝つ、そんなものに何の意味がある?皆が求めているのは、両者のアウフヘーベンなんじゃないのか?
分からない、分からない、分からない。このような報道を受け入れても良いのだろうか。私の頭の中で、そんな疑問がぐるぐると回り続ける。そして、その回転が終わらぬ内に、目の前の彼女によるスピーチが終わった。
資料とともに「如何でしょう」と尋ねてきた彼女に私は、明日まで考えさせてほしい、という旨を伝えた。よほどの自信があったのだろう、彼女は一瞬、驚きの表情を隠せずにいたが、それでも私の我儘を了承してくれた。
「良いお返事をお待ちしております」と言って去っていった彼女の後ろ姿を見つめながら、私は心の底で、ある決断を下した。
『〜架け橋通信〜
皆様、お久しぶりです。前回の更新から一ヶ月ほど空いてしまいましたが、今回は読者の方々にお伝えしなければならないことがあります。それは、私自信のことについてです。
以前から私は、「自分はレズビアンである」ということを前面に出して、活動をして参りました。ですが、一ヶ月前、ある人物に出会って、その考えが変わりました。変わった、と言っても、自分のことを
そして、そのことに気がせてくれたその人とは、現在、同棲生活を送っています。お互いに名前も知りませんが、それでも「この子とずっと生きていきたい」、そう感じています。それが、世間に認められようと、認められまいと。
今後は、上記のような理由で、レズビアンとしての活動は控えることと致します。しかしこれからも陰ながら、セクシャルマイノリティの運動は応援していこうと考えています。いつか、そのような運動をする必要のない日が訪れることを、心より祈っております。
最後に、今までの言葉に嘘偽りはなかったということだけは申し上げておきます。それでは皆様、明日からも、良い日々を過ごしましょう』
久しぶりに書いた日記は、自分の考えがまとまっていないこともあって、非常に拙いものとなってしまった。それでも、伝えたかったことを打ち明けることができて、私としては、とても満足している。
さて、こんなことを公表して、明日からどうなるのだろうか。
確実に特集番組の出演はキャンセルになるだろう。かよ子も怒って、辞表を叩きつけてくるかもしれない。彼女のことだから、もしかしたら、置き土産として謝罪会見のアポイントメントだけ取って、なんてこともあり得る。
まぁ、それでも良いか。私は、自分のやりたいことを、やりたいようにやる、それだけだ。
架け橋 @yuichi_takano
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