ふらつきながらまた記憶の中を歩いていく。そこは薄暗く広いフィールドで、短い芝が生え、どこまでもなだらかな起伏が続いている。その上を、零花の記憶たちが、記憶された通りの行動を繰り返していた。彼女は大人を強く嫌っているようで、ここにいる大人たちは大抵、嫌味たっぷりな口ぶりで何やら吐き捨てていたり、ひどく醜悪な見た目をしていたり、とにかく気味が悪い。

「ずっといると頭がおかしくなりそうだな……みんなこうなのか?記憶の中ってのは」

「いや、人によるわね。ここまで排他的な性格の子も少ないかも……でもあんたは受け入れられたわけでしょ?凄いじゃないの」

「 “何もしない”ってのがミソだ」

「どういうこと、何の話?……あー、そういうことね。ああいうことはしてない、と」

 マイの指差した先で、二人の若い男が零花を囲んで……楽しげな様子でいる。その足元には2,3本の注射器が転がっていて、その横で零花が、意味のあるようなないような、めちゃくちゃな言葉をめちゃくちゃな呂律(ろれつ)で口走りながらのたうちまわっていた。

「ちょっと打ちすぎたっぽいね……かわいそうに、わざとああやって他人のODを楽しむ人とか、いるのよ……人間がよく死ぬわね、これで」

 やってる人はいたずらのつもりなのよ、と彼女は付け加えた。

「やけに詳しいな。……マイ、あんたもこのタチの出身なのか」

「そうねえ……小ぎれいなスラム、ていうか。工業地帯の倉庫で寝泊まりしてた。一緒にいた中にはそんな奴もいて……みんな中毒とか、売人の上にまで楯突いて死んでいったわ」

 いわゆる“真っ当な”生き方をしてきた久にとってそれは、新鮮みもあり、またできるだけ関わりたくない話であった。そしてそんな中でも人は育つことができるのか、逞(たくま)しい子だなと感心、尊敬すらした。青臭いなんて言えないなとも思った。

「文字通り阿鼻叫喚だな、ここは」

 そこかしこで怒号、悲鳴、時に嬌声が強く主張しあい、頭が痛くなるような地獄を作り出していた。そろそろ久は本当に吐きそうである。

「行くあては……?どこに向かっているんだ」

「ここは広いけど、一方向に長く延びた構造をしてるの。前か後ろ、どっちかに進めば記憶の前か後に進めるはず。きっとこっちね、授業の内容が進んでる。あの子、結構憶えてるのね」

 何もない野原にたくさんの机が並び、喧(かまびす)しいその空間で若くない女性教諭が熱弁を振るい、黒板に、チョークをガツガツ砕きながら丁寧に手順を踏みながら一次関数の点を導いている。零花の齢から考えるに、だいぶ後の方の記憶であろう。

「時間が後になればなるほどたくさんのことを憶えてるから、最近の記憶があるところは少し長いよ」

 年もバラバラの子どもたちと同じ部屋で雑魚寝していたり、腰に手を当ててグラスに入った血(不味い)を一気飲みしていたり、ここに集まった記憶はそれぞれバラバラに、基本的には他の記憶と混じらないように存在していた。

「ん、待って。あれ」

 記憶の末端の方へ辿り着いたのであろう、暗い空を模していた天井にできた亀裂から、陽の光とともにあの赤い蔦が入り込んでいる。そしてその下の記憶たちは皆めちゃくちゃに壊れ混ざり合っていた。

「あの裂け目から出ればいいんだな?」

「えーっと、わかんない。普通は上じゃなくて、このまま前に出口があるんだけどな……それと、ああやって外の世界と記憶とが繋がることはないのよ。私達みたいなのが無理やり入ることはあってもね」

「つまり、零花に合うには前に進めってことか」

 進む。あたりの記憶はちょうどあの男に捕まっていた頃のもので、さらにそれらが互いに混ざり合ったことでまさに混沌と化していた。

「大丈夫、彼らには干渉できないから」

 緊張で脂汗をかく久の肩に手をまわし一緒に歩く。彼の背中のなんと頼りないこと、成人した男のものとは思えない。

 蔦にかき乱された記憶を過ぎ、正しい記憶を認識できる所まで来た。そこでひとつ、気になるものがある。

 あの男が死んでいた。咽(むせ)るほど強烈な悪臭のする彼の部屋で左のこめかみに大穴を開けてぴくりとも動かない。投げ出された右手のすぐ横には、一つだけ薬莢の入った無骨なシングル・アクション・アーミーが転がっていた。

 零花が尻をぺたんと床につけ、半ば上の空でそれらを見つめている。そこから彼の方へ擦り寄り、その下がる一方である体温を間近に感じつつ首に牙を立てた。

 彼のポケットを探り鍵を取り出すと、キーリングに小さな紙が結ばれていた。開くとただ「ごめん」の三文字。

 彼女にはその言葉の真意がわからなかった。今まで散々やりたい放題したこと?それとも、やりたい放題したうえにその命すら自分に奪わせてくれなかったこと?

 本音を言えばどうでもよかった。彼はもう死んでいて、自分は自由の身。それで十分で、更には腹いっぱいの血が手に入ったのだから、これ以上彼に求めることはしなかった。


「……あいつ、自殺だったんだ。あの子が殺したんだとばかり」

「あんな生業してたら、遅かれ早かれ死んでたわね。外で死んでたらこの子が出られなくなってた。運がいいんじゃない?」

 そこからしばらくの浮浪、久との出会いを経て、ついに記憶の最先端へとやってきた。形あるものは存在せず、暗いもやのような感情、とりとめのない五感などが宙を舞い、同時刻のものであろう他の存在と互いに照合しあっている。

「さっえれぁ!?」

 二人の存在、感覚も思考から乖離し、世界を認識することはできるがそれが何なのかわからなくなる。そして記憶から現在への門を突き抜けた後、それぞれがまた一つとなり身体も意識も統合され、もとの姿へ戻った。




「あと何時間かわからないけど、ずっと座って見てるつもりなの?」

 気が狂いそうになるエンジンの爆音は、どうやったのか、男によって“ミュート”されていた。電光板の数字はランダムに7セグメントを発光させ、もはや数字など数えていない。

「望むなら今降ろしてやってもいいぞ」

 電光板が十を示し芝刈り機がひとりでに零花の眼前に移動する。そしてすぐに遠のき、電光板も“狂い直し”た。

「時間なんてわからなくても問題ない。あいつが助けに来られないのは変わらないだろ?」

「はっ、変なこと言わないでよ。死人のたわごとなんて今更聞くわけないでしょ、それとも、死人の口のあらざるは口生けるゆえって?」

「こんな時でも冗談が飛ばせるくらいには、お前の強がりも板についてきたんだな。だがその性格はお前の記憶にあるこの俺のイメージまで捻じ曲げることはできなかった。お前はまだ俺を克服できないでいる」

彼女の認識次第で、この男など簡単に消してしまう、あるいは無力化できるのだ。あくまで男は零花の記憶の一部に過ぎず、大したことはないと一度思い込めばそれに応じて力を失う。そして今、零花はこの男の記憶に囚えられ、現実での絶対的な彼へのイメージから彼には勝てないと思いこんでしまっていた。

「……、そんなこと言われても」

 当然だ。だから今ここで刃を待たされているのだ。

「あんたがこんなところに私を呼びさえしなければ今ごろ越生さんに思いっきり泣きついて忘れてしまえた!そうすりゃあんたはずっと死んだままでいられたのに!」

「うるさいな、泣き足りないなら今ここでお前をめちゃくちゃに犯して涙を枯らしてやってもいいんだぞ」

“生気のない”真っ白な細い右腕に血管を浮かせ、骨ばった十の指を零花の首の側に立て気味に食い込ませる。締めつけてはいなかったが、大の大人が気に食わない子供を威圧するにはそれで十分だった。

「っ……、できもしないくせに」

「はっ、適当なこと言うんじゃねえ、たった二週間も前まで俺に好き勝手されてたのを忘れたか?」

 威勢よくまくしたてるが指に力が入っていない。顔に悲壮感すら浮かべ、ついに首から手を話してしまった。

「ほんとはわかってるんでしょ?あんたは私のイメージに依存する」

 零花は男の生前、彼の乱心を目の当たりにしていた。事後自らの行いに苛まれ続けるさまを。独りよがりの、心からの謝意を。その印象は零花の記憶に深く刻まれていた。

「この趣味悪い装置だって、自分で手を下せないから作ったんでしょ?そんなの見て楽しいの?」

「うるさい、いい加減にしろ!どこまで俺を馬鹿にする気だ!泣いて頼まれたって逃してやらないからな!」

 言い捨て、男は部屋から出ていってしまった。もう戻ってこないつもりだろう。彼がずっとここにいると、彼自身がこの拘束を解きかねない。



「ここが零花の居所か?」

「そう、だと思うけど」

 一面、蔦。木で言えばウロにあたる部分に見える。赤い蔦でできた空洞の中に二人はいた。

「うわっ、これ……生きてる」

 この空間を構成する細い蔦の一本一本が脈打ち、息づいていた。もっと大きなまとまりで見ると、この空間そのものが外気と内気を常に入れ替えているせいで、生暖かい風が吹いている。

 今まで目にしてきた蔦は、外側にある、謂わば皮膚で、ここのように内側ではしきりに活動しているのだ。

 そのさらに奥、人がちょうど歩いて入ることができる大きさの小穴から、なんとも喩(たと)えがたい、強いて言うなら巨大な獣の唸るような音が漏れている。

「ここに私たちが投げ出されたのにも意味があるはず。入るしかないようね……安心して、夢の中じゃ死なないから。お先にどうぞ?」

「変なとこでびびんじゃねえよ……レディファーストって言うだろ?」

 二人ともわざとらしく嫌な顔をする。しかし結局動き出したのはマイだった。

「この人でなし!」

「比喩ですらない人でなしに言われたくうあ痛ってえ!」

 腕を思い切り捻られた。当人の感覚では四百度くらいいった気がしている……

 この人間だらけ、圧倒的多数の中で一人二人、忌み嫌われる天敵として、しかし実際は共生せざるを得ないことから、ある種の強いコンプレックスがあるのだろう。強者ですら多数の前では弱者たりうるのだ。

 しばらく狭い道を進むにつれ唸り声のような音は大きくはっきり聞こえるようになってくる。

「この音、唸り声なんかじゃない。……誰か叫んでる」

「ファラリスの雄牛みたいな?」

 例えが最悪だがまさにそれであった。男の声だ。苦痛からくるもののようで、そして途切れることはない。

 いよいよ発声源に近づいた頃、狭い道は少し開け、二畳程度の小さな部屋で行き止まりとなった。

 声の主は、零花だけでなく久やマイまでも苦しめたあの男だった。彼の身体を蛸の触手のように蔦が締め上げ壁面に拘束していて、まるで意思あるもののように動き彼の腹を突き破り、かき回していた。

「助ける気にもなれんな、畜生め。因果応報だ」

 彼自身は助けを乞う素振りも見せずむしろだらしなく緩んだ口を横に広げ、笑ってみせた。

「べ、別に俺は、自分がどうなろうと一向に構わねえ。あの子はもう手遅れだ。間に合わないんだよ!お前が慌てて助けようとしてるのが最高に滑稽でなぁ!」

「おいてめえどういうこった、言ってみろ!下手に出りゃ腹の風穴から心臓引っこ抜くぞ」

 しかしそれは叶わなかった。久が腹に腕を入れ心臓を掴む前に、彼の腹、いや腹から胸辺りまでの正中線で蔦が身体を縦に引き裂いてしまった。そしてその大きく開かれた胸の中から、芝刈り機の刃、鎌、ペンチなど、彼が生前愛用していた工具、いや凶器が無尽蔵に溢れ出てくる。当の男は既に息を断っていた。

「大変、逃げよう!記憶が独り歩きし始めた!」

 マイに腕を引かれるままあの狭い道を戻る。ウロのようなところで後ろを振り向いた。あの小さな穴から、それを形作る蔦をまでも切り裂きながら凶器たちが噴出し次第に山を作っていく。

 山に蔦が絡みつく。凶器一つ一つを掴んで山ごと持ち上がり、非定形だった外観も整って人型の上半身となった。蔦の赤みも相まって筋肉隆々の巨人にも見える。腕で体を持ち上げたときの頭までの高さはだいたい十メートルほどだろうか。

「はっはあ、こいつは素晴らしい!身体のどこを使ってもお前を八つ裂きにできるぞ!」

 どうやっているのか、蔦と凶器でできた巨人が地割れのような声を出す。

 ウロの外へ飛び出て、蔦の幹を一心不乱に逃げ走る。そんな二人をいたぶるように、腹を引きずりながら腕で前進し後をつけてきた。ひょいと手を伸ばせばかんたんに二人を捕まえられてしまうだろう。

「喰らえ、ケダモノ!」

 マイが巨人に向けて白燐手榴弾を投げた。それは巨人の前頭部で炸裂し首から上を業火が舐めあげる。凶器を結ぶ蔦を焼き尽くし一時的に分解したが、首の根元から伸びてくる蔦によっていとも簡単に修復されてしまった。

「なんと小賢しい真似を!しかし効かないのはわかってるだろ?“脳”なし吸血鬼さんよお!」

「てめ、人をバカにすんのもいい加減にしろ!死人に口なしって言葉知ってるか?!」

 安っぽい挑発に乗せられたマイが文字通り口から火を吹いた。現実で見るような火吹き芸の何倍、何十倍も大きく勢いのある、バックドラフトにも似た爆発的な炎で巨人の胴に大穴を開けた。有効な反撃は予想していなかったようで、残された頭部が驚嘆の表情一瞬固まる。

 それもすぐ憤怒に変わり。千切れた二本の腕をバラバラに動かし二人を追いかける。

「今のもう一発できないか!」

「ごめん疲れた!」

 万事休す、刃光る両手が二人を掌握せんとするその時、今まで蹴ってきた蔦の地面がぐにゃりと歪みだした。いや空間そのものが変形しているのか?腕も二人もまともに動けず、立つこともままならなくなった。

 歪みが消えた頃、世界も大きく変化していた。だだっ広い岩石のフィールド、木一本なくあるのは細く低い草、露出した岩の隙間から硫化物を含む臭気がのぼる。そこかしこで単発的な破裂音、爆音が聞こえもする。

「マイ!どこにいる?!」

 彼女どころかあの男も見当たらない。しかし人はいるのだ。遠くに人の大きな集団が見える。海岸の方だ。そして久のすぐ近くにも別の集団が、いや久がその集団の中にいるという状態である。

 その人たちと同じ格好を自分もしているのに気がついた。汚い緑色の軍服、やたら重い背嚢、さらに曲げた腕の中には九九式短小銃……

「ったく、よりによって硫黄島かよ!」

 百何十年も前の出来事をこんなにも精細に夢に見られるとは、この夢の主の素性が知りたいところではあるが、そんな悠長なことを言ってはいられない。戦火の真っ只中である。はやくここから脱さねば。

 久と同じ隊という設定のものはいないらしく、誰かに声をかけられることもない。当たり前だ、ついさっきこの世界に飛び込んできたのだから。

 鉄帽のすぐ上を何かが掠め飛んだ。場所だけに銃弾以外ありえないだろう。飛んできた方向数十メートルで、米海軍の格好をしたあの男が悔しそうにこちらを見つめていた。

「どこまで追いかけてくんだよ!」

 土嚢(どのう)の影にさっと隠れる。奴一人前線を大きく越えているのにこちらは気づく気配がない。やはりこの夢にとって我々は完全な部外者なのだ。

 一度ボルトを引いた後ほんの少しの間頭を出し隠す。するとすぐ横の土嚢が弾け、直後に銃声が追ってきた。間髪入れずサイトを覗き込み間抜けに草の上から上体を晒す相手の胸に報復の一発を撃ち込んだ。

 その後ろに血しぶきが上がったにもかかわらず彼は明るく笑い、片手にM1ガーランドの銃身を掴みながらこちらへゆっくり歩いてくる。

「ゾンビ!こんなの茶番だろ!?」

 腕をいっぱいに広げ彼は高らかに叫ぶ。

「サバゲーじゃねえんだ、撃たれたら大人しく死ね!」

 久も飛び出て銃剣を向けながら全速力で突進し右脇腹を突き抜く。二人一緒に倒れ込み草原の坂を転がり落ちた。やがてそれは崖になり、宙に投げ出されると同時にそれぞれ元の格好へ戻る。彼の傷もたちまち癒えてしまう。

 今度の舞台は河川敷の市場だった。以前と同じように人気(ひとけ)はなく、手にはM1911、そして久は姿を消した男を探している。

 テントの間を一歩出るとすぐに男が見えた。あのとき撃ち殺してしまった彼ではなく、まさしく今戦っている奴である。そして幻影であろう、おののく零花の胸に散弾銃を、久には狂気混じりの笑みを向け躊躇なく引き金を引いた。

 知覚はそのままに、世界だけ時間の流れが遅くなる。その中で彼は、久に語りかけた。二人は離れているにも関わらず、零花のもとへ駆け寄ろうとする久のすぐ耳元で囁いたようにも聞こえる。


この場面、現実と違うな?このシナリオならこいつを助けられたかもしれない、なんて考えてる。反実仮想ってやつか?


うるさい、黙れ!俺の記憶に入ってくるな!


 怒りに任せ発砲し銃床で頭を殴りつけた。時間の流れは戻る。どれだけ殴りつけてもその憎たらしい笑みは消えず張りついたままでいた。

 病院の個室。二人はその床でもみ合っている。しかし久が殴りつけるその相手はいつの間にか姿を変え、先刻出会った獏になっていた。驚きで身を引くと同時に獏が巨大化し始め、久が病室から飛び出る頃には扉の幅の3倍程度になった。

「どうして逃げるんだい、話を聞かせておくれ!」

 あれはあの獏なんかじゃない。記憶、あるいは夢のいたずらだ。あの男の延長だ。

 突き当りの見えない長い廊下をがむしゃらに走る。それが正しいとは思わない。獏も行ったように物事の位置関係が脈絡を失っている。どこかへ逃げたところでこの正体不明の脅威から逃げられるわけがないのだ。ならば――

 久は立ち止まり、巨体を揺らし迫る獏に正面を向けた。すると久が目線を下げるにつれその体も縮小し、逆に獏が久の体に恐怖するまでとなった。

 手のひらに乗せた獏に向かって久は言う。

「見越し入道、見越したぞ」


 その後の世界はまた一変した。深い霧に包まれた湖畔にただ一人突っ立っている。短いようで嫌になるほど長い喧騒は終わりを告げることなく終わったようだ。今の久にとってここがどこかはさほど重要ではなく、この静寂こそ欲しているものだった。

「……」

 苔むした倒木に寄りかかった。彼にしては珍しいことに特に何を考えるでもなく、ただ倒木に体を預けていた。

 どれだけの間そうしていただろうか、そろそろ出口を探さなくてはと思い立ち湖に沿って歩き始めた。本当に静かな場所で、魚がときどき尾びれを翻(ひるがえ)すほかに音を立てるものはない。そしていつまでも変わらずつまらない景色が続いていた。

「こんなところにいたの。迷ったんじゃないでしょうね」

 足元を見ると、今度こそあの獏が隣をのしのしと歩いていた。見越し入道とは違う、柔らかい目つきと鼻で表情を見せている。それによると、バクはまるで久の保護者のような微笑みを浮かべていた。

「なんだ、見てたんじゃなかったのか」

「バラバラの夢に逃げ込んでしまうんだもの、追いかけるのが大変でね」

「ああ、追いかけられた。でもあれは入道だろ?」

「そうね、あれは入道」

 噛み合っていない。互いに言いたいことは理解している。完全に間違って選ばれた言葉からそれぞれ意思を汲み取っていた。

「ここの主がこの先に」

 獏が鼻で指した先に一軒の小屋が建っていた。廃材のような木の板をそれらしく組んで造られたような、四畳ほどの粗末な小屋である。鍵はかかっていない。それどころか閂(かんぬき)すら見当たらない。

 重く深い息遣いが聞こえる。中でなにか探っているような音もする。こちらに気がついていないようで、音が途切れることはない。

 ギ、と短く鳴いて戸は軽く開かれた。こちら向きにかがんでいた主の顔が上がる。

「「!?」」

 久と主、二人の感嘆であった。痩せた男の子が久の目をじっと睨みつけている。美しく整った顔のその口元は品のない紅に染まっていて、細い腕が抱え込んでいる死体はその男の子と瓜二つ、まるで違(たが)うところがない。

 久がうんざりしたような態度をとると、少年は殺気立つ顔つきをほんの少し緩めた。

「あんたもか。何だって俺はこんなにも血なまぐさい体験ばかりしなきゃなんねえんだ、え?」

「俺も……?他にいるの?」

 変声期真っ只中のなんとも言えぬトーンで少年が返す。

「そりゃ俺が聞きたいよ。今まで会ったのが全員だと思ってた。あー、あんた、この町のやつじゃないな?どうりで俺が知らないわけだ」

「さっきから何言ってるの、全然わかんないよ。……何もかも」

 明らかに町ではない。この町のあたりに湖もないはずだ。見当違いの場所の住人に見当違いの質問を飛ばしてしまった。

「そりゃお互い様だな。ここはどこだ、俺の知ってるところじゃない」

「俺だって知らないよ。気がついたらここにいて……自分がいた。こいつもあなたみたいにわけのわからないことを口走ってた」

 この子が誰かの記憶であれば、あの男のように、自分が記憶の中の、いわばNPCだということに気がついているはずである。状況の説明で嘘をついていなければ、この子は現実に実体を持っている「オリジナル」ということになる。

「えっと、もうひとりの君はなんて言ってた?」

「向こうは俺が偽物だと思いこんでた。ひどく取り乱してて……会話なんてできなかった。それと、彼は人間だったね」

 双方が自分こそオリジナルだと思いこんでいるということだ。自分一人では手に負えない。何がなんだかさっぱりわからない。

「一緒にここを出よう。出口は……わからないけど」

 少年は迷いなく首を横に振った。

「どうでもいいや。一人でどうぞ」

 彼がそうしたいというのなら、そっとしておこう。自分だけでもここから出ることにする。心配せずとも、そもそもここが彼の居場所なのだと思い直した。

「おい獏……獏?」

 小屋の外で待機していた。

「なんだい、その呼び方は。もっと愛嬌のある名前とか、欲しいわね」

「んじゃ獏ちゃんだ。獏ちゃん、ここから出してくれ……獏ちゃん?」

 返事がない。こころなしかむすっとしているように見える。

「仮に私がハドロン衝突型加速器の姿であなたの前に現れたら、あなたは私のことをハドロン衝突型加速器ちゃんって呼ぶの?」

「ああ、出てきたら呼んでやるよ。だけど長くて面倒だからサイクロトロンあたりにしてほしい。サイクロトロンちゃんって、何かかわいらしくないか?字面だけは」

 機嫌は直らない。直るわけがない。人知を超えた存在をこうも簡単にどうこうできるのはなかなか面白いものである。

「零花のところへ送ってくれ。もう場所はわかるだろ?」

 意識が一瞬だけ奪われる。あたりは黒一色で何もない、金属光沢のある床に置き換えられていた。すぐ先は闇で、どんな空間かもよくわからない。獏も姿を消している。

 微かな気配を感じ背後に腕を振る。勘は的中し肘が何かに当たった。見るとあの男が鼻を押さえていた。

「てめ、いい加減にしろ!」

 男の首根っこを掴み押し倒す。右の拳を力任せに振り下ろそうとしたその時だった。

「っ……、」

 倒れた男がおかしな笑みを浮かべたところまでは覚えている。しかしそれからがどうにも理解できない。

 久が左腕で首根っこを掴んでいた相手は、零花だった。

 慌てて手を離し離れる。彼女も何が起こっているかよくわかっていないようだ。目の前に現れた激昂する久に怯えていた。



「もう、なんなの……」

あの異形に襲われてから、マイも見覚えのない場所に飛ばされていた。様々な様式の墓標が無限に列をなす空気の淀んだ薄暗い丘で、骨や蝋など状態は異なるが地中から体がはみ出している遺体もある。その中には目をかっと見開き執念で蠢(うごめ)く者までいて、さながらB級ホラー映画のようだ。

墓標にはそれぞれ違う名前が一つずつ刻まれている。これは……

「こんにちは」

 不意に後ろから声をかけられた。足元で獏がこちらを見上げていた。

「なんだ、あんたね。いや、いてくれると頼もしいわ」

 二人は面識がある。夢の中でしばしば獏のほうから会いに来るのだ。夢の中でこれだけ力を持っている生き物に興味があるそうだ。

「現実でも会いに来ればいいのに。一応できるんでしょ」

「色々面倒なのよ。現す姿は毎回夢の中で考えて構築しなきゃいけないし、現実ではこれといった能力が使えなくなってしまう」

「ところで、ここ夢じゃないでしょ。どこなの」

「今、複雑な事象が起きている……あなたが探している子を中心に、広い範囲にいる生き物の夢、記憶、そして“あの世の書庫”が一つの世界のようにつながっていて、ここは……書庫ね。この墓の下に死人の記憶が収められている」

 いきなり壮大な話になってしまった。事態はそう簡単ではないようだ。

「てことは、あの世?」

「現実の生き物から見れば現実以外の世界なんてみんなあの世でしょう。死んだ者が行く場所という意味なら、間違いね。ここはあくまで情報を保管しておくための場所で、普通は誰も入れない」

 無限に生成されているのではないかと疑うほど広い墓地でひとつ、ひときわ大きな墓が目に止まった。こころなしか周りをうろつく者の存在感が強く数も多い。

「無縁墓地。供養されなかった人についての情報が収められている……縁者でも探す?」

「ん、いや……」

 そうではなかった。手入れもされず地衣類がはびこる墓の下に不自然な穴が空いているのだ。そしてそこへ風が吹いている。

 中の景色は見覚えのあるものだった。いや忘れもしない、あの男の自宅、狂気的に穢れた廊下の壁が見える。

「この墓にある彼の記憶を持ってきてくれたようね。でも、覗くのはおすすめしない。墓泥棒ってことになるんじゃない?」

 マイは聞いていない。頭はほぼ興味に占有されていた。獏は後を追ってこなかった。

 汚い居間に置かれた浅いベッドに男が腰掛けている。どこを見つめるでもなく、俯いて思案していたが、こちらに気づき顔を上げた。いぶかしげにマイの顔を伺ったあと興味なさそうにまた目線を下げた。

「お前が誰であれ、もてなす気はない。帰ってくれ」

 これは彼自身の記憶から構成された彼だ。マイとの面識はない。

「苦痛と辱(はずかし)めがあんたの言うもてなしなら願い下げよ。どうしたの、人を殺し足りなくなって自分まで殺しちゃったとか?」

「ふざけたこと言うな、逆だ。これ以上殺せなくなっちまった」

「馬鹿ね。爆薬やトラックもなしに吸血鬼なんか殺せるわけないでしょう?それにあんた自身、あの子の不死性を喜んでた」

 彼は明らかな苛立ちを露呈させたがなんとか堪えてみせた。言い分はそうでないらしい。

「ああ、俺だってはじめはそう思ってた。だがあいつを泣かすたび……」

「それに強く抵抗を感じるようになった、でしょ」

 言葉に詰まった彼に代わって言うと、彼は小さく首を縦に振った。

「略奪は、物心つく前から家族ぐるみで続けてきた仕事だった。いわば俺たちの……家業だったんだ。俺はこの道しか行き方を知らないし、変えるつもりもなかった。なのにいきなり……あいつを連れ帰ってからだ」

 魅了。彼は零花と目を合わせるたび、その特性から彼女を蹂躙する自分の姿をひたすら責め続けた。それは無意識であったが、ふとした時に顕現しそれまでの生き様と魅了された自分のジレンマが精神を蝕んでいったのだ。

 ケンカの相手が怯むようなことはあっても、事後に効力を発揮するような事例を見るのはマイも初めてだった。

 彼は、先刻出会ったような狂人ではなかった。この件で零花に見せた行動がそう見えただけに過ぎなかったのだ。いや、これで本当に気を病み狂ってしまったのかもしれない。生前の彼に聞いてみなければわからないが。


「違うんだ、お前を殴ろうとしてたわけじゃない。そう見えたのは謝るからさ」

 むすっとして答えない。それでも久の右手をぎゅっと握りしめているところとか、いかにも彼女らしい。

 またシャッターの並ぶ商店街をあてもなくさまよっていた。ここから出る方法は結局わからずじまいで、マイを頼ろうにも居所がわからない。

見知らぬ男がこちらへ向かって歩いてくる。水色がかった白の短髪、削ったような頬、久より少し高いくらいの身長……

「やあ探したよ。やっと見つけた」

「待て、近づくな。俺はあんたなんか知らないぞ」

 男は笑う。足は止めない。

「俺もあんたのことは知らないよ。あーっと、当ててやろう。俺が誰か……俺は……その子の父親だな?髪と目元がよく似てる」

 何も悪びれず言い放った。零花を腕で自分の後ろに隠す。

「……来るな、あんたは親なんかじゃない。ただの肉親だ。正直それも認めたくない」

「大丈夫、危害は加えない。その様子だと俺のことは知ってるみたいだねぇ。どうせ川端の野郎がろくでもない話を吹き込んだんだろうが……あ、勘違いしてるようだけど、その子、本物じゃないぞ?そいつはあんたの記憶が勝手に作り出した偶像だ」

「……お前、出会い頭に何言ってやがる」

「今まで散々見てきたろ?人の記憶や願望が実体化するのをさ。それなのにただひとつの偶像も認められないのか?俺みたいに夢ン中にずっといるとさ、わかんだよ、どれが偶像かが」

 零花の方を見やる。ひどく動揺していた。久の腕を掴み固まっている。

「零花、そうなのか」

 言いつつ久はスマホを取り出す。未だ芝刈り機は低く唸り、七セグメント電光板はその数字を着々と減らし続けていた。残り約一時間……

「クソったれ!」

 零花を担ぎ全力で走る。見上げると、この時を待っていたように彼女のいる忌々しいあの建物が姿を見せていた。血相を変えてここを去るさまを、あの父親は引き止めもせずぼんやり眺めているのみであった。

 道中、俵のように担がれた零花がぽつりと呟いた。

「……ごめんなさい」

「何のことだ」

「ほんとのこと言ったら……捨てられると思って」

 走りつつ久は答える。

「お前は間違っちゃいない。誰がその立場でも皆そうするだろうよ。それにお前は俺の記憶なんだ、どうやって記憶なんか捨てる?」

 久の身体能力は高いほうではない。道(蔦?)のりの半分もいかず体力が尽きてしまった。

「ごめん。降りてくれ」

 今日ほど日頃の自堕落を恨む日はないだろう。しかしぶっ倒れていても彼女のもとへは届かない。零花の手を引いて、呼吸を整えながら歩く。

 残り四五分。画面中の零花は泣き疲れ、恐怖に負けて呆然とこちらを見つめている。それでも瞳の奥には微かな光を持ち、久を待ち焦がれていた。

 地、いや蔦が振動する。後ろから、久と川端を襲った、あの死体の山が波となって押し寄せてきていた。

「クソ、嫌でも走れってか!?」

 零花の手を引いていたつもりが、走っているうちに彼女じ引かれていた。いやにすばしっこいのである。

「ん、待って」

 零花が足を止めた。久はその行動が理解できなかったが、すぐにわかった。こちらに合わせて死体たちも追いかけるのをやめたのだ。

「動きをこっちに合わせてる。ついてくるみたいに」

 死屍累々から、一つの死体と目が合った。明らかに生気があるように意思を感じられる。久はとっさに零花の頭を腕で覆った。

 その死体、微かながら久に笑いかけたのは、零花だった。

「零花。行こう」

 死体と生体の両方に伝わったようで、屍々も呼応するように動き出し、手中の零花も久の腕をほどいた。

 ひたすら歩く。残り十分と少しのところで、コンクリート製の半壊した建物に到着した。久が目覚めたあの建物だ。

「!?」

 その内部から、また別の屍々がこちらを覗いている。ついてきたものよりも二回り程度、規模が大きかった。

「おい、どうなってる、なあ」

 誰に問うでもない、純粋な疑問から出た言葉だった。その光景を、久は認められなかった。それを形作る死体のひとつひとつ、それら全て、紛れもなく零花のそれだった。そして彼女らが持つ目のすべてが、大きな怒りに支配されていた。

 明らかな殺意をもち各々がこちらへ猪突猛進する。真横に飛びのき振り向くと、今度は今までついてきていたほうの屍々がそれらに激突し揉み合いになっていた。こちらへ来させまいと必死に止めているように見える、しかし大きさがまるで違う。そう長く止められはしないだろう。

蔦に破られた壁から建物に入る。廊下は変わらず蔦がうねっていて、入ることのできる部屋は限られていた。農地のどこかに零花はいる。

「どこか……目立たない場所に隠れていてくれ。あのクソ野郎もいるはず。絶対迎えに行く」

「私を迎えに行くために私を置いていくことになるね」

 外の茂みに隠れたのを確認し廊下を進む。建物全体があの屍々の血肉にまみれている。

 手前から順に部屋を見ていくが彼女の姿はなく、芝刈り機のエンジンの音すら聞こえない。そして行くことのできる最後の部屋いさしかかった。

「……ここだ。……」

 そこは確かに、画面越しに見てきた、あの部屋だった。しかし零花の姿はない。机の上につるされていたはずの芝刈り機は部屋の隅で沈黙し、七セグ電光板も消灯している、そして――

「……何だよ、この血」

 机を中心に夥しい量の血肉が散乱していた。

 もう何が何だかわからなくなっていた。むしろ理解なんてしたくなかった。これらが意味するものはただ一つ。

 スマホを取り出す。ゼロは秒に迫っていた。零花は取り乱しめちゃくちゃに暴れている。しかし電光板は冷淡にゼロまでを読み終えていた。

 刃は彼女を弄ぶように時間をかけて降下する。そして今まさに、直下の雪のように白い腹を舐め上げんとしている。

 見ていられなかった。電源を切りうなだれる。信じたくない。

夢に出たら、行って助けてやる。そう言ったのに、何の力にもなってやれなかった。それどころか事態は絶えず悪転している。

真っ赤な机に、カメラ付きノートPCが一台。ディスクが入っているようだ。恐る恐る再生してみる。

『よお、おまえが今の里親なんだってなあ?コイツがなにかわかるか?』

「……っ、ふざけんなって……クソッ!」

 録画だった。久が初めて動画を見せられたとき、すでに手遅れだったのだ。何も知らず、この男に踊らされていた。



 薄い金属の扉が安っぽい音を立て開かれる。そこから男は虚勢の代わりに血肉を撒き散らし間抜けに四肢を垂れる零花を一瞥した。

 粗挽きの五臓六腑は早くも繋がりを取り戻しつつあるようで、挽肉から身を分けるように各々脈動している。

 精神が肉体を形作るこの夢の世界、そこで見事に希望を打ち砕かれた零花の身体は脆く、隣の部屋へ運ぶのも一苦労であった。掴まれた腕の肌は何度も肉もろとも脱落し、また生まれる。

 そうして椅子に縛りつけたその傍には、頭を血に濡らし昏々と眠る久の姿があった。


「あいつ、出て行っちまった」

 男は呟き、うなだれる零花を後ろから抱いて密着する。そのまま沈むようにしてその身体に

取り込まれていく。そうして向かう先は彼女の深層、本質の眠る場所。

 母親といたアパートを模している。黴臭い寝室の奥にある押し入れの下段で一人、包むものは何もなく、彼女は一人丸くなり拗ねていた。

 支配欲、好奇心、悲哀、後悔――男から容赦なく向けられる複雑怪奇な感情を、零花は塵ほども漏れず感じていた。悲哀と後悔、奴の隙はそこにある。

 零花の手元に思考の靄が凝集し小さな両刃のナイフを形成した。男はそれを見て、柄を握る彼女の右の拳を手で包み笑う。その刃は零花の胸元を向いていた。

「俺も舐められたもんだ、こんなおもちゃで――」

 男に掴まれたまま、零花はそのナイフを自分のほうへ思いきり引き寄せた。唐突な動作でバランスを崩した男の体重を受け、榛葉は彼女の薄い胸板を軽々と突き破り、心臓を直撃する。

「は、お前、いや俺が?ああクソ!」

 男が慄き腰を抜かす。一方の零花は突き刺さったそれをやけ気味に投げ捨て、だくだくと流れ続ける血もそのままに、場に立ち込める狂気など微塵も見せず、極めて理性的に作られた柔らかい笑みを貼りつけながら、男のほうへ歩み寄る。

「あなたは私を傷つけた。あなた、どうして死んだんだっけ?」

 ここは精神世界、あまりにも強い感情はそのまま具現化する。そして抑えきれない興奮が、どこからともなく零花に絡みついていた。


「うあああああ!やめろ!」

蔦はさながら感情の渦となり、濁流となって深淵を飛び出した。自らの主も、回廊へ逃げ出した男も舐め上げた後、歯止めのないまま無尽蔵の膨張を続けていった。



「……もう……会わせる顔が無え……あいつらも怒るわけだ……」

「馬鹿野郎、一回大怪我したくらいでなんだ」

 耳元で声がする。ほぼ反射で相手の顔があるだろう場所に肘を入れるが、片手で受け止められた。

「……あんたか。どうしてここに」

 零花の父親だった。興味なさそうにしていたが……?

「蔦の根源がここだってんで、ついて来た。あんたの件は……間に合わなかったのか」

「……始まる前から終わってた。出来レースだったんだ」

「どうやら、お前と俺がこれから向かう場所は同じようだぞ。蔦の根源と、零花とやらの居所……ついて来い」

 一度建物の外に出る。そこから建物の裏側にある別の入り口から入るそうだ。

 茂みにいるはずの零花の複製はいなくなっている。見回すと二つの屍々に囲まれていた。しかし三方が敵対する様子はない。

「あいつらは皆同族だ。それぞれの記憶の中の……同一人物だな。そっとしておけ」

 裏側の入り口……そこは久が初めて入った、あの男に殴られた廊下へ続くあの扉だった。

「その奥は閉まってる。錠もない」

「それはあんたがあの子に嫌われたからだろ」

「……どういう意味だ」

 暗い、フローリングの廊下を歩く。扉の隙間から細い蔦が進出し外へ飛び出している。自ら死にに行くような気分であった。

「この先はあの子の……パーソナルスペースってやつだ。お前、マイのあの狭い部屋に行ったことあるんだろ?個人が作る個人のための空間だな。あんたがどうやってマイの部屋に侵入したのかはわからないが、本人がそこを開放してない限り、本人の許可がないと入れない」

 それで、閉め出されているのだ。なんとか彼女を説得し入れてもらうか、出てきてもらうしかない。

「……零花、俺だ、久だ。謝りゃいい問題じゃないのはよくわかってる。……俺の……信用が失墜したことも。……全部あいつの策略だったんだ。俺たちが初めに部屋で会ったとき、俺は何も知らされてなかった。それどころか、今、知った。言い訳にしか聞こえないよな、とにかく、会いたいんだ。開けてくれるか」

ノブは回った。開けて中を覗く。十畳ほどの暗い部屋は、床から天井まで蔦で覆われている。

 一面に敷き詰められた、肉と錆。それらをずたずたに切り裂くように、陶磁器の破片が食い込んでいる。

 中心に降りる温白色のダウンライトが照らすのは、瓦礫の上に凛と立つ、一抱えの陶磁の壺。一点として装飾のない、純白の壺だった。

「……これは」

 誰が、割った?この大量の破片は。

 自明だろう。火を見るより、日を見るより明らかだ。

 このままではまた誰が、何がこの、いや彼女の純潔を踏みにじるかわからない。ならば、

「――いや、やめておこう」

 壺に延ばした手を止めた。この手までも、錆びついていた。



「……、」

 目を開く。あたりは見慣れた自宅の居間だった。夢に迷い込む前と同じように。零花を胡坐の上で抱いている。

「ってえ!」

 鼻っ面に渾身の肘鉄を喰らう。あおむけに倒れたところを押さえ込まれ、首に八重歯を突き刺された。

「ちょ待……ぐぇ」

 黙れと言わんばかりに鳩尾に拳を受けた。零花の目が怒りに燃えている。

「もう、どんだけ待ったと思ってんの」

「だいたい二四時間」

「ああもう!そうじゃなくて!」

「……あいつはもう死んだのか」

 しばらく考えて、零花はにやりと笑う。

「私が殺した。今度こそね。あいつがやったように、はらわた全部掻き出してやったのよ。もう大丈夫」

「……結局何もしてやれなかった」

「今まで何もしない人がいなかったとはいえ、何もしなさすぎだよ」




終わらせ方がわからなくなったのでひとまず終わりってことで

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戴血の娘よ、狂夢の主たれ 雷之電 @rainoden

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