第3話 終わり


 ちゅんちゅんと雀の鳴く声が聞こえる。


「お姉さん。もうちょっと部屋、片づけた方がいいよ」


 私の自室にあがりこんだ少年は私の部屋を見て苦言を呈す。これでも片づけたのだ、という言葉は呑み込んだ。

 平時なら、私も顔を真っ赤にして自分のだらしなさを恥じただろう。

 しかし、今は平時とは言い難い。恥じている余裕など、私にはない。


「これ、どうぞ」

「ありがとう! で、お姉さんはなんのお話がしたいの? 僕が殺したとかどうとか……」


 椅子に行儀よく座る少年に、オレンジジュースを差し出す。彼は嬉しそうに礼を言ったものの、コップに手をつける様子はなかった。


「……だって、おかしいもの。私が君に渡辺を殺したいって言った次の日、あいつはもう職場に来なくなった。こんなタイミング、偶然なんて思えない」

「でも僕、お姉さんの名前も教えてもらってないよ」


 白々しい少年の態度を見て、私はきゅっと唇を横に結ぶ。


「鞄」

「うん?」

「私がキャリーケースの中に入るとき、鞄は地面に放りだしたままだった。……鞄の中には社員証も入っている。我ながら不用心だと思うけど、携帯のパスワードだって自分の誕生日。探ろうと思えば簡単だよね」


 そうあの時、たった三十分にも満たない時間。短いながら、確かに少年は私の個人情報を得るための時間があったのだ。


「友達にたくさん渡辺の悪口書いて、メッセージ送ってた。……中には、あいつの個人情報に繋がるようなものも、あったと思う」

「…………」

「私の鞄の中、あのとき見たんだよね?」

「いや? 別に見てないよ」


 私の追求に対し、少年は飄々ひょうひょうとした態度を崩さない。手に力が入り、私は膝の上で握り拳を作った。


「嘘つかないで。ならどうして私の家知ってるの?」

「だって来たことあるし」

「来たことって……」


 私と少年はあの時が初対面だったはずだ。当然、少年を家にあげたのも今日が初めてだというのに。だというのに、彼はいつ、私の家に来たというのだろうか。


「僕はちょっと前にお姉さんのこと知ってから、かわいそうだなって思ってたんだよね。だからお姉さんの願い、叶えてあげようと思ってさ」

「私の願いって……?」

「クソ上司に死んでほしくて、でも血を見るのは怖くて。路頭に迷うのも怖くて。我儘だけど、かわいそうなお願いをするお姉さん。僕はお姉さんのために、お姉さんの願いが叶うように、この世界に連れてきてあげたんだ。キャリーケースでね。僕っていい奴だから」


 少年の言葉から私は推察をたてる。

 少年はやはり、渡辺を殺したのだ。


 理由はきっと、私のため。そして自分がであるため。

 それだけのために、彼は私がキャリーケースに入っている間にある程度の情報を探った。そして渡辺を殺しに行った。


 そんなことが起きているとは露知らず、私は渡辺のいない世界で朝を迎えたのだ。


「狂ってる」

「え?」

「そんなのおかしいよ! そんなの、全然じゃない! 人殺しなんて、そんな……。私は君にそんなことしてほしいなんて欠片を思ってなかった!」


 私の叫び声は壁で跳ね返り、また自分の耳へと還ってくる。その音を不快に思いながら、私は下を向き、呼吸を激しく繰り返した。


 呼吸が落ち着くと同時に顔をあげる。少年はきょとんとした顔をしていた。


(だぶん、この少年は、人を殺すというがわかっていない)


 私は覚悟を決めた。


「……自首しよう。お姉さんもついて行くから」

「え?」

「それと親御さんにもちゃんと連絡しよう。説明は私もする。だから――」

「ねえ、お姉さん」


 これからの方針を決め、私は少年を導こうとする。しかし少年がそれを遮った。


「お姉さん、勘違いしてるよ」

「え?」

「僕は渡辺を殺してない」


 この期に及んで、少年は自分の犯した罪を認めない。


「……じゃあ、誰が殺したって言うの?」

「その質問に答える前に、お姉さんの勘違いを修正してあげる」

「勘違い?」

「まず一つ。渡辺が死んだのは、お姉さんが僕と会った日の何日も前のことだよ」

「そんなはずない!」


 私は大きく目を見開く。そして声を張り上げ、少年の言葉を否定した。


「あの日、私は確かに渡辺から残業をするように言われたんだ! あの日まで、確かに渡辺は生きてた!」

「お姉さんの勘違いその二。僕がお姉さんをキャリーケースに入れた理由。別に僕は、お姉さんを鞄から離すためにお姉さんをキャリーケースに入れたわけじゃない」


 私の主張など無視し、少年は自分の主張を続ける。

 私は自分の言葉が無視されたことに苛立ちを覚え、少年を睨みつける。しかし少年は笑顔で話し続けた。


「僕がお姉さんをキャリーケースに入れた理由はただ一つ。お姉さんをこの並行世界パラレル・ワールドに運ぶため。ただそれだけだよ。当然だよね? 、なんだから」

「まだ、並行世界なんて言って……」

「で、お姉さんの勘違いそのさーん。渡辺を殺したのは僕じゃない」



 少年はニヤリと口角をあげる。その笑みは、今まで見た少年の笑顔の中で最も怪しく輝いていた。



「渡辺を殺したのはお姉さんだよ」

「……え?」



 少年の言っていることがわからない。

 私が渡辺を殺した? 確かに私は彼を殺したと願っていた。

 しかし私はその一線を越えなかった。越えなかったのだ。



 なのに少年はなにを言っているのか。



「お姉さん、ようこそ! お姉さんがクソ上司を殺し、自殺した世界へ!」

「…………え」

「僕は最初から言ってたよ。。この世界のお姉さんは上司を殺して、その数日後、人を殺した事実に耐え切れなくなって自殺した。ここはそんな世界。僕がやったことは、自殺したこの世界のお姉さんと、今僕の目の前にいるお姉さんを運んで交換した。ただそれだけ」



 キリキリと、胃が痛む。視界がぐらついて、なにも考えられない。


 なにもわからない。


「あ、お姉さん。これあげるよ。こっちの世界のお姉さんの鞄から落ちたんだよね。預かってたんだけど、返すの忘れちゃってた」


 事態の把握ができない私に、少年はあるものを私の手に握らせた。

 呆然としながら手を開き、視線を落とす。するとそこにあったのは鍵だ。



 行方不明だった、タンスの鍵。



「信じられないなら、見てみれば?」



 少年に促され、私は空っぽになった頭で立ち上がる。そしてよたよたとタンスの前まで進んだ。激しい心臓の鼓動がやけにうるさい。



 鍵穴にそっと鍵を挿し込み、横へと回す。それが九十度回転すれば、タンスはカタリと音を立てて、私を歓迎した。


 私は恐る恐るタンスの引手を掴んで引き、そして中身を見た。


「ひっ……!」


 次の瞬間には、私は尻餅をついていた。声が喉にひりつき、悲鳴を出すことも叶わない。



「証拠隠滅する度胸もなかったね。こっちの世界のお姉さんは」


 揶揄するような少年の声が背後から聞こえる。




 タンスの中に入っていたのは、血にまみれた包丁だった。




「じゃあ、そろそろ僕はお暇するね!」

「ま、まって……!」


 少年は笑顔で椅子から立つと、そのまま玄関に向かう。私は膝が笑っていて、ろくに少年を追いかけることもできない。


「あ、そうだ。お姉さん」


 少年は玄関で靴を履き終えると、一度だけ私の方へ振り返る。


「もう一つだけ、お姉さんの勘違い」


 彼はまたにんまりと笑って、私の思い違いを指摘した。


「僕、自分のこと一言も『いい』だなんて言ってないよ」

「ど、ういう……」

「じゃあ、お姉さん! いい人生を! ここは、お姉さんが望んだ世界なんだから」


 私の途切れ途切れの問いなど意味をなさず。少年は玄関から出て行ってしまった。ドアがバタリと音を立てたと同時に、ようやく私の手足は多少の自由が利くようになった。


「ま、まって、おねが――」


 私は少年を追いかけようと今度こそ立ち上がり、裸足のまま玄関の外へと飛び出す。

 アパートの外廊下に出た私はまず右を見て誰もいないことを確認した。

 そして次は左だ。そう思って首を左に向けると――、


「吉川さん、ですよね?」


 そこにいたのは見知らぬ男性二人。


「そう、ですけど……」


 私は悪寒覚えながら、なんとか返事をする。男たちはそんな私を見下ろしながら、懐からひとつの手帳を取り出した。


「警察です。あなたの元上司である渡辺さんの件についてお聞きしたことがありますので、署までご同行願えますか?」


 私の心なんて無視して、現実が襲ってくる。それに耐え切れず、私は掠れた声で怒鳴るように声をあげた。


「違う……、違う。違う! 違うの! 違う!」

「あ、こら! 暴れるな!」


 無実を叫ぶ。なにかが違うと主張する。しかし私の言葉は誰にも本当の意味で伝わることなく、無意味に消えただけだった。



 この日以降、少年が私を尋ねることはない。





『――女は吉川さんが勤めていた会社で部下として働いていました。警察は詳しい経緯を調べると共に、女に錯乱した様子が見られることから、覚せい剤を使用していた可能性も視野にいれて捜査しています。続いてのニュースです。昨日――』

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キャリーケースで行く並行世界 葎屋敷 @Muguraya

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