第2話 他殺


 翌朝。私は目覚ましに起こされた。枕元に置いておいた着替えを布団の中へと引きずり込み、そのまま着替える。効率が悪いことは百も承知だが、それでもやめられないのは、恐ろしいほどぼんやりとした私の頭のせいだ。低血圧、ここに極まれり。


 私は歯を磨きながらテレビを付ける。一人暮らしの寂しい部屋に、ニュースキャスターの凛とした声がこだました。



『――ており、警察は遺体の身元の確認を進めています』

「あ、そろそろ時間だ」


 テレビの画面の端を見て、時間がないことに気が付く。私は慌ててテレビを消し、洗面所へと急いだ。





「吉川! おはよう!」


 駅から軽く走って会社まで来ると、後ろから名を呼ばれる。振り返れば、そこにいたのは同僚の女性だ。昨日の夜、クソ上司による私への嫌がらせを案じてくれた同僚である。


「おはよう……」

「なんか元気ないね。大丈夫、吉川?」

「うーん、大丈夫じゃないかなぁ。残業がさ……」


 私は苦笑混じりにそう答える。そして慌てて口を閉じた。「しまった。これでは申し訳なさそうに先に帰った彼女に対して、嫌味っぽくなってしまったか」と思ったからだ。


 しかし彼女は私の予想に反し、ぽかんと顔をしている。


「え? あんた昨日は定時に帰ってなかったっけ?」

「はぁ?」


 私は開いた口が塞がらなかった。同僚は私が残業を命じられている姿を見ていたはずだ。それにも関わらず、なぜそんな言葉が同僚から出てくるのか。


 私は首を傾げたが、すぐにひらめいた。


「ははーん。わかった。あんた、昨日一人で飲んだんでしょ」

「え、そうだけど」

「あんたさぁ、飲み過ぎると記憶飛ばすじゃん! で、記憶がごちゃごちゃになってるときあるでしょ! そのせいで、私が定時あがりしたと勘違いしたんじゃない?」

「え、えぇ……? 昨日はそんな飲んでないと思ってたんだけど……」


 同僚は不服そうに眉を寄せる。


「なに言ってんの。この前もベロベロになってたけど、次の日、さっきと同じこと言ってたよ」

「うーん、そうだったっけ……?」

「そうそう。ほら、もう行こう。遅刻しちゃう」


 私は不思議そうにしている同僚を促し、社内へと入って行った。





 結論から言おう。今日は昨日とは違い、幸せだった。

 なぜなら、あのクソ上司が休みだったのである。彼の席はから


(よかった。今日は定時であがれる! セクハラもない!)


 私の機嫌は自然とうなぎ昇り。気を緩めれば鼻歌が出てしまいそうなほどである。


「あれ、吉川。なんか今日元気だね」


 朝とは違う様子の私に気が付いたのか、同僚が通り際に声をかけてくる。


「いやぁ。だってアイツがいないじゃん!」

「あいつ?」

「アイツだよ、アイツ」


 私は上機嫌でクソ上司の席を指差す。


「え? ああ、まあ……、いないよね。なんか後任決めるかどうかって上で揉めてるらしいよ」


 同僚はどこかぼんやりとした表情をして、誰も座っていない席を見た。

 一方、私は彼女の発言に驚きを隠せない。


 後任? 彼女は今、後任と言ったか?


「え、マジ? 後任ってマジ? もしかして異動?」

「いや、わかんないってそれは……。ねえ、吉川。あんまり嬉しそうにしない方がいいよ。気持ちはわかるけどさ」


 同僚は私にそう忠告すると、足早に自席へと去って行った。


 どういうことだろうか。なにか同僚は知っているのか。なにか彼女は戸惑っているような、どこかはっきりとしない態度だった。


 いや、そんなことよりも大事なことがある。

 彼女の言葉を信じるのであれば、あのクソ上司はもしかして、異動が決まっているのか。



 だとすれば、どれほどの幸せだろうか。





 定時であがり、家に帰る。風呂を浴び、ニュースを見ながら自炊した夕食をとる。


 こんなのんびりとできるアフターファイブはいつぶりだろうか。


 この幸福がいつまでも続けばいい。そう思いながら、ニュースを見ていたその時。男性のニュースキャスターが今日のニュースをまとめて紹介していた。


『男性はうつぶせ状態で死亡していて、顔などを含む上半身には複数の刺し傷があることがわかりました。警察は男性の――』


 私は流れるニュースをBGMに、おかわりの味噌汁をお椀に掬う。


『人気アイドルグループ砂糖の新曲が今日発売され――』


 ずずっと音を立てながら、味噌汁を吸うと、わかめが喉奥へするりと流れ込む。いつもはインスタント味噌汁だった。こんなちゃんと食事を作り、そして食べる余裕がある日は、本当に久しぶりだった。


「今日は時間あるし、ちょっと掃除とかしちゃおうかな」


 部屋を見渡せば、床に散乱する服や小物が目に入る。今まで食事と睡眠をとるためだけの部屋だった。しかしこれからは今までよりも、長くこの部屋で過ごせるかもしれないのだ。片づけておいて損はない。


 そう考えた私は、出来得る限りで掃除を行った。いつ買ったか分からない服や賞味期限切れのお菓子を発掘したり、タンスの引き出しの鍵が行方不明のまま開けられないことが判明するなど、私の頭を悩ませるような問題は山ほどあった。


 しかしそんな問題など些細な事。


 私はそのとき、確かに穏やかな日々を過ごしていた。





 しかしそう幸せな日々は続かなかった。



 数日後、会社であのクソ上司が死んだことが社員へ正式に知らされたのだ。



 正確には、殺された、と。





 朝、インターホンが鳴る。どこか現実感のないまま、私は自宅の扉を開いた。

 するとそこには数日ぶりのキャリーケース。そしてその持ち主である少年だった。


「やあ、お姉さん! どう、この世界は? いい世界でしょ?」


 明るい少年の声。にっこりと、花が咲いたような可愛らしい笑み。



 それらに私は恐怖を覚えた。



「ねえ、ボク……」

「うん? なぁに?」



 聞きたいことならたくさんあった。


 結局、なんで私はキャリーケースに入れられたんだ、とか。

 なんで私の家の場所知ってるんだよ、とか。

 今日は何しにきたのさ、とか。


 聞きたいことならたくさんあったけど。

 

 それでも私は、最初にこれを聞かないといけない。

 唾を呑み込み、私は少年に問う。



「あのさ」

「うん」












「君が私の上司を……、渡辺を殺したの?」

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