キャリーケースで行く並行世界

葎屋敷

第1話 不思議な少年

 

 私が不思議な少年と出会ったのは、職場からの帰りだった。


 私が勤める職場は良い職場だった。ただし、あのクソ上司がいなければ、の話である。

 クソ上司が行う蛮行、すなわちセクハラ、パワハラ。これらが私の心を蝕んでいた。あの日、私の体力も精神力も限界に近かった。


 だから、あの少年の言うことを聞いた。その結果、並行世界パラレル・ワールドなんぞに行く羽目になったのである。





 今日も私の帰りは遅い。クソ上司に押し付けられた余計な仕事が原因だ。その仕事は本来急ぎの仕事ではない。


 同僚と一緒に帰ろうとした定時過ぎのこと。アイツは私の肩と膝に触れながら、「急を要する案件なんだ」と言って、その仕事を私に押し付けた。

 抵抗したかったが、それも叶わない。なぜなら、その上司は勤め先の代表取締役、つまりは社長の息子なのだ。権力を笠にやりたい放題。皆に嫌われていると同時に、皆が逆らえない存在。それが我がクソ上司だ。


 申し訳なさそうにする同僚に苦笑を向けつつ、私は一人残業をした。

 やせ我慢をするにも体力がいると気が付いたのは、誰もいなくなった職場に自分の舌打ちが響いた時だった。





 ふらふらとする足取り。下を向いて歩く私は、傍から見ても奇妙だったのだろう。もう五分ほど歩けば自宅、という所で見知らぬ少年に声をかけられた。


「お姉さん、大丈夫?」


 ゆっくりと顔を動かし、声がした方を向く。そこにいたのは少年だった。見た目からして小学校高学年、といったところか。


「…………」

「顔、真っ青だよ。すごい辛そうだよ」


 私は大人なのだ。だから本来、「こんな真っ暗な時間に出歩いてたら、危ないよ」とか、「お母さんとお父さんは?」とか。そういった、子どもを気遣う台詞を言うべきだ。


 しかし私は崩壊寸前だった。子どもを気遣う余裕も、口を動かす気力もない。


「泣きそうだよ、お姉さん」

「…………」

「お姉さん、美人さんなのにもったいないよ。どうかしたの?」


 心配そうに投げかけられる問いかけ。それを聞いて、決壊直前だった私は本当に崩れた。


 ここが住宅街の路地であることも気にせず、その場に蹲る。そして膝に顔を埋めながら、私はすさんだ言葉を吐いた。


「クソ上司がいるせいで、マジ最悪なんだよ。そりゃ疲れるよぉ……」

「クソ上司?」

「渡辺って言う嫌な上司! あいつ、あいつさえいなければ……。もっと仕事だって楽しくて、こんな生きるのが嫌じゃなかったのに――」


 初めて会った男の子に、自分の内にあるドロドロを吐き出して見せている。

 これ以上ないほどに情けない行為だ。それはわかっている。それなのに止められない。


 吐き出し始めてしまったら、もう止まらない。


「殺したいよ、もう……!」

「なら、殺しちゃダメなの?」

「殺せるもんなら殺したいよ! でも、人を殺すのは怖いし、血を見るのも……。それに職を失って路頭に迷うのも嫌だぁ」


 私は己の葛藤をぶちまけ、そのまま泣き出した。鼻水と涙を自分の膝に垂れ流す。

 少年はずっと黙っていた。


(情けない……。こんな、こんなの)


 自分の情けなさに落ち込み、心が余計に沈む。そんな私の背に、誰かの手が置かれた。


「よしよし」


 少年の声。それに合わせて私の背名を撫でる手。


(ああ……。励まされてる)


 本当に、どうしようもなく。自分には愛想がつきそうだ。


 しかしそれでも、この瞬間。私は少し救われた。





 鞄に入っていたポケットティッシュを探り当て、それで鼻をかむ。汚らしい音を曝した私は、そっと少年の顔を見上げた。相も変わらず私は地面に座り込んでおり、断っている少年は私の顔を見下ろしている。


「お姉さん、落ち着いた?」

「……ありがとう、ごめんね? 変なとこ見せちゃった」

「いいよ。全然気にしてない。だって僕、だから」


 少年は自らをいい奴と称し、誇らしげに胸を張る。その姿が可愛らしくて、私は思わずクスリと笑った。

 少年は私の笑顔を見て、自身も笑みを深める。そして一歩だけ私の方へと進んだ。


「それでお姉さん。明日からどうするの?」

「……え?」

「会社、行くの?」


 少年の問いに、私は言葉を詰まらせた。


「……それは、その」

「行きたくないんでしょ?」


 図星だった。本音を言えば、もう行きたくない。しかし、行かなくては生活ができないのも事実。

 私は少年に返す言葉がなくて、口を閉ざしたまま目を逸らした。すると視界の外にいる少年から言葉が発せられる。


「そっか! 行きたくないんだね! じゃあ、いい方法があるよ!」

「……へ?」


 少年の声は喜色に富んでいて、簡単に言えば、明らかにわくわくした様子だった。

 私は少年の言葉の意味も、そこに含まれた感情の意味もわからない。私はわからないことを理解すべく、少年の方へと視線を戻した。


 するとそこにはキャリーケースがあった。


「え?」


 おかしい。なにがおかしいのかと問われれば、私は迷わず少年の横にある、そのキャリーケースを指差す。

 それは黒一色のシンプルなキャリーケースだ。大容量であることは見るに明らかで、私ひとりくらいならギリギリ入れそうだ。大きいことが特徴の、変哲もないキャリーケース。





 それのなにがおかしいのかと言えば、一体いつ、どこからこんな大きいキャリーケースを持ってきたのか、全然わからないことだ。先程まで少年は手ぶらだったように思うのだが。こんなもの、あれば最初から目に入るはずなのに。



「さ、お姉さん。並行世界に連れてってあげる! ここに入って、ちょっと待ってくれればすぐに着くよ!」

「え? えっとー、え? は?」


 私が首を傾げていることなどお構いなしに、少年はキャリーケースを指差す。


「大丈夫! 僕いい奴だから! ちゃんとお姉さんがその、クソ上司? の血を見なくてもよくて、でもお仕事するときにそのクソ上司がいなくて! それでしばらくはご飯も絶対に食べられる! そんな並行世界にご招待するよ!」

「えぇ……?」


 なんのこっちゃ。そう少年に言ってしまいたかったが、それすら許されないほど、少年の目がきらきらと輝いていた。その眩しさから圧を感じるほどだ。


 これはなにかの遊びだろうか。ならば、付き合った方がいいんだろうか。私がそんなことを考えていると、少年が乱暴な手つきでキャリーケースを地面に寝かす。バンッと大きな音が立って、私の肩が反射的にびくりと震えた。


「さっ! お姉さん。入って入って!」


 少年は座っている私の身体を両手で押す。



 少年の意図がわからない。


 もしかしたら、私が少年に見た優しさはまやかしだったのかもしれない。ここに私が入った瞬間、少年は私を閉じ込め、放置する。そんな悪質いたずら小僧というのが、少年の本性かもしれない。



 しかし、だ。もしそうだったとしても、いいじゃないか。私はそう思ってキャリーケースに手をかける。



 だって、もし閉じ込められて。ずっとここから出られないのなら。


 明日はきっと、会社に行かなくてもいい。



「わかった。励ましてくれたお礼ね。付き合ってあげる」


 満面とはいかないものの、私は今できる精一杯の笑顔を浮かべ、キャリーケースの中に身体を沈めた。ごつごつしたキャリーケースの骨組みが腕に当たって、地味に痛い。思わず顔をしかめる私を、少年はじっと見ている。


「じゃあ、お姉さん。ほんの数秒でつくから!」


 少年はキャリーの蓋を閉じる。視界が真っ暗になる寸前に私が見たのは、少年の笑顔。それはまさに満面の笑み。私が少年に見せようと思っていた表情だった。

 ジッパーが規則的に動く音を聞きながら、私は目を瞑る。


 どうしてだろうか。とても眠たい。どう考えても、今は寝ていい状況ではないはずなのに。



「じゃあね、お姉さん。よい夢を」



 私の神経は意外と図太かったらしい。


 なんとこの状況下で、私はそのまま眠りに落ちたのである。





 目を開けると、相も変わらずキャリーケースの中だった。当然、身体が痛い。


 どれくらい自分が眠っていたのか。なにもわからないまま、数十秒間、私はぼんやりとしていた。そして眠る前のことを思い出すと同時に、自分の状況を思い出した。


 私はそっと、内側からキャリーケースを押す。キャリーケースジッパーは幸いにも開いていたらしい。簡単に私は外にでることに成功した。


「…………」


 外はキャリーケースに入る前と同じ夜の空、夜の住宅街。少年はいない。


 どうやら、私は完全にからかわれたらしい。


「…………ばっかみたいだ」


 私はほんのわずかな時間だけ、自分の顔を手で覆う。そして自分の弱さを恥じた後、ようやく周りに人がいるかどうか確認する余裕ができた。


「……誰も、見てないよね?」


 どうやら、この無様な姿は他人に見られていないらしい。私は外に這い出て、道に放り出されていた自分のバッグを拾う。これと一緒にキャリーケースに入らなかったのは、不用心の極みだ。中をチェックしたが、どうやらなにも盗られていないらしい。

 ありがとう日本。平和が安いこの国にずっといたい。心底そう思った。


 バッグに入っていた携帯で時間を確認する。どうやら少年と会って、三十分も経っていない。これほど遅い時間なら、その間この道を誰も通っていないことも考えられる。というよりも、そうであれと願った。


 私は辺りに警戒しつつ、キャリーケースを道の端に追いやる。これで通る車にぶつかることもあるまい。あとは少年が朝にでも戻ってきて、回収すればいい話だ。このキャリーケースへの気遣いと、いたずらされた件と合わせて、慰めてもらった恩はチャラになったと言えるだろう。



「帰ろう……」



 私は疲労をため息に変換して、口から吐き出す。そしてゆっくりと家に向かって歩き出す。


 泣いた。騙された。でも少しだけすっきりした。そんな夜の日。



 私はまだ、自分になにが起こったかわかっていなかった。

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