キャリーケースで行く並行世界
葎屋敷
第1話 不思議な少年
私が不思議な少年と出会ったのは、職場からの帰りだった。
私が勤める職場は良い職場だった。ただし、あのクソ上司がいなければ、の話である。
クソ上司が行う蛮行、すなわちセクハラ、パワハラ。これらが私の心を蝕んでいた。あの日、私の体力も精神力も限界に近かった。
だから、あの少年の言うことを聞いた。その結果、
*
今日も私の帰りは遅い。クソ上司に押し付けられた余計な仕事が原因だ。その仕事は本来急ぎの仕事ではない。
同僚と一緒に帰ろうとした定時過ぎのこと。アイツは私の肩と膝に触れながら、「急を要する案件なんだ」と言って、その仕事を私に押し付けた。
抵抗したかったが、それも叶わない。なぜなら、その上司は勤め先の代表取締役、つまりは社長の息子なのだ。権力を笠にやりたい放題。皆に嫌われていると同時に、皆が逆らえない存在。それが我がクソ上司だ。
申し訳なさそうにする同僚に苦笑を向けつつ、私は一人残業をした。
やせ我慢をするにも体力がいると気が付いたのは、誰もいなくなった職場に自分の舌打ちが響いた時だった。
*
ふらふらとする足取り。下を向いて歩く私は、傍から見ても奇妙だったのだろう。もう五分ほど歩けば自宅、という所で見知らぬ少年に声をかけられた。
「お姉さん、大丈夫?」
ゆっくりと顔を動かし、声がした方を向く。そこにいたのは少年だった。見た目からして小学校高学年、といったところか。
「…………」
「顔、真っ青だよ。すごい辛そうだよ」
私は大人なのだ。だから本来、「こんな真っ暗な時間に出歩いてたら、危ないよ」とか、「お母さんとお父さんは?」とか。そういった、子どもを気遣う台詞を言うべきだ。
しかし私は崩壊寸前だった。子どもを気遣う余裕も、口を動かす気力もない。
「泣きそうだよ、お姉さん」
「…………」
「お姉さん、美人さんなのにもったいないよ。どうかしたの?」
心配そうに投げかけられる問いかけ。それを聞いて、決壊直前だった私は本当に崩れた。
ここが住宅街の路地であることも気にせず、その場に蹲る。そして膝に顔を埋めながら、私はすさんだ言葉を吐いた。
「クソ上司がいるせいで、マジ最悪なんだよ。そりゃ疲れるよぉ……」
「クソ上司?」
「渡辺って言う嫌な上司! あいつ、あいつさえいなければ……。もっと仕事だって楽しくて、こんな生きるのが嫌じゃなかったのに――」
初めて会った男の子に、自分の内にあるドロドロを吐き出して見せている。
これ以上ないほどに情けない行為だ。それはわかっている。それなのに止められない。
吐き出し始めてしまったら、もう止まらない。
「殺したいよ、もう……!」
「なら、殺しちゃダメなの?」
「殺せるもんなら殺したいよ! でも、人を殺すのは怖いし、血を見るのも……。それに職を失って路頭に迷うのも嫌だぁ」
私は己の葛藤をぶちまけ、そのまま泣き出した。鼻水と涙を自分の膝に垂れ流す。
少年はずっと黙っていた。
(情けない……。こんな、こんなの)
自分の情けなさに落ち込み、心が余計に沈む。そんな私の背に、誰かの手が置かれた。
「よしよし」
少年の声。それに合わせて私の背名を撫でる手。
(ああ……。励まされてる)
本当に、どうしようもなく。自分には愛想がつきそうだ。
しかしそれでも、この瞬間。私は少し救われた。
*
鞄に入っていたポケットティッシュを探り当て、それで鼻をかむ。汚らしい音を曝した私は、そっと少年の顔を見上げた。相も変わらず私は地面に座り込んでおり、断っている少年は私の顔を見下ろしている。
「お姉さん、落ち着いた?」
「……ありがとう、ごめんね? 変なとこ見せちゃった」
「いいよ。全然気にしてない。だって僕、いい奴だから」
少年は自らをいい奴と称し、誇らしげに胸を張る。その姿が可愛らしくて、私は思わずクスリと笑った。
少年は私の笑顔を見て、自身も笑みを深める。そして一歩だけ私の方へと進んだ。
「それでお姉さん。明日からどうするの?」
「……え?」
「会社、行くの?」
少年の問いに、私は言葉を詰まらせた。
「……それは、その」
「行きたくないんでしょ?」
図星だった。本音を言えば、もう行きたくない。しかし、行かなくては生活ができないのも事実。
私は少年に返す言葉がなくて、口を閉ざしたまま目を逸らした。すると視界の外にいる少年から言葉が発せられる。
「そっか! 行きたくないんだね! じゃあ、いい方法があるよ!」
「……へ?」
少年の声は喜色に富んでいて、簡単に言えば、明らかにわくわくした様子だった。
私は少年の言葉の意味も、そこに含まれた感情の意味もわからない。私はわからないことを理解すべく、少年の方へと視線を戻した。
するとそこにはキャリーケースがあった。
「え?」
おかしい。なにがおかしいのかと問われれば、私は迷わず少年の横にある、そのキャリーケースを指差す。
それは黒一色のシンプルなキャリーケースだ。大容量であることは見るに明らかで、私ひとりくらいならギリギリ入れそうだ。大きいことが特徴の、変哲もないキャリーケース。
それのなにがおかしいのかと言えば、一体いつ、どこからこんな大きいキャリーケースを持ってきたのか、全然わからないことだ。先程まで少年は手ぶらだったように思うのだが。こんなもの、あれば最初から目に入るはずなのに。
「さ、お姉さん。並行世界に連れてってあげる! ここに入って、ちょっと待ってくれればすぐに着くよ!」
「え? えっとー、え? は?」
私が首を傾げていることなどお構いなしに、少年はキャリーケースを指差す。
「大丈夫! 僕いい奴だから! ちゃんとお姉さんがその、クソ上司? の血を見なくてもよくて、でもお仕事するときにそのクソ上司がいなくて! それでしばらくはご飯も絶対に食べられる! そんな並行世界にご招待するよ!」
「えぇ……?」
なんのこっちゃ。そう少年に言ってしまいたかったが、それすら許されないほど、少年の目がきらきらと輝いていた。その眩しさから圧を感じるほどだ。
これはなにかの遊びだろうか。ならば、付き合った方がいいんだろうか。私がそんなことを考えていると、少年が乱暴な手つきでキャリーケースを地面に寝かす。バンッと大きな音が立って、私の肩が反射的にびくりと震えた。
「さっ! お姉さん。入って入って!」
少年は座っている私の身体を両手で押す。
少年の意図がわからない。
もしかしたら、私が少年に見た優しさはまやかしだったのかもしれない。ここに私が入った瞬間、少年は私を閉じ込め、放置する。そんな悪質いたずら小僧というのが、少年の本性かもしれない。
しかし、だ。もしそうだったとしても、いいじゃないか。私はそう思ってキャリーケースに手をかける。
だって、もし閉じ込められて。ずっとここから出られないのなら。
明日はきっと、会社に行かなくてもいい。
「わかった。励ましてくれたお礼ね。付き合ってあげる」
満面とはいかないものの、私は今できる精一杯の笑顔を浮かべ、キャリーケースの中に身体を沈めた。ごつごつしたキャリーケースの骨組みが腕に当たって、地味に痛い。思わず顔をしかめる私を、少年はじっと見ている。
「じゃあ、お姉さん。ほんの数秒でつくから!」
少年はキャリーの蓋を閉じる。視界が真っ暗になる寸前に私が見たのは、少年の笑顔。それはまさに満面の笑み。私が少年に見せようと思っていた表情だった。
ジッパーが規則的に動く音を聞きながら、私は目を瞑る。
どうしてだろうか。とても眠たい。どう考えても、今は寝ていい状況ではないはずなのに。
「じゃあね、お姉さん。よい夢を」
私の神経は意外と図太かったらしい。
なんとこの状況下で、私はそのまま眠りに落ちたのである。
*
目を開けると、相も変わらずキャリーケースの中だった。当然、身体が痛い。
どれくらい自分が眠っていたのか。なにもわからないまま、数十秒間、私はぼんやりとしていた。そして眠る前のことを思い出すと同時に、自分の状況を思い出した。
私はそっと、内側からキャリーケースを押す。キャリーケースジッパーは幸いにも開いていたらしい。簡単に私は外にでることに成功した。
「…………」
外はキャリーケースに入る前と同じ夜の空、夜の住宅街。少年はいない。
どうやら、私は完全にからかわれたらしい。
「…………ばっかみたいだ」
私はほんのわずかな時間だけ、自分の顔を手で覆う。そして自分の弱さを恥じた後、ようやく周りに人がいるかどうか確認する余裕ができた。
「……誰も、見てないよね?」
どうやら、この無様な姿は他人に見られていないらしい。私は外に這い出て、道に放り出されていた自分のバッグを拾う。これと一緒にキャリーケースに入らなかったのは、不用心の極みだ。中をチェックしたが、どうやらなにも盗られていないらしい。
ありがとう日本。平和が安いこの国にずっといたい。心底そう思った。
バッグに入っていた携帯で時間を確認する。どうやら少年と会って、三十分も経っていない。これほど遅い時間なら、その間この道を誰も通っていないことも考えられる。というよりも、そうであれと願った。
私は辺りに警戒しつつ、キャリーケースを道の端に追いやる。これで通る車にぶつかることもあるまい。あとは少年が朝にでも戻ってきて、回収すればいい話だ。このキャリーケースへの気遣いと、いたずらされた件と合わせて、慰めてもらった恩はチャラになったと言えるだろう。
「帰ろう……」
私は疲労をため息に変換して、口から吐き出す。そしてゆっくりと家に向かって歩き出す。
泣いた。騙された。でも少しだけすっきりした。そんな夜の日。
私はまだ、自分になにが起こったかわかっていなかった。
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