ブラキッシュ ウォーター
山本アヒコ
Brackish water
少年は貧困層の人間だった。毎日満足に食べることができない体はやせ細り、買い替えることができない服は汚れて穴だらけ。そんな姿はこの場所では当たり前で、周囲の人間も同じ格好をした者しかいない。
誰もが貧困の底に放置され、泥にまみれながら足を引きずり彷徨うしかない世界。ここから少年が脱出するには少々の幸運では足りるはずもない。
必用なのは『暴力』だ。
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「ちくしょう……」
幼少のころから言い続けている言葉は、口癖や自身の境遇への愚痴や強がりでもなく、少年のゾッタにとってただの呼吸になっていた。
舗装もされていない土がむき出しの通りを歩く足は重い。ゾッタは仕事に向かっている。その仕事場所は遠く、他の人間たちと一緒にトラックに荷台に詰め込まれて運ばれる。荷台からこぼれそうなほど乗せられるので、体が小さいゾッタにとってそれは苦痛でしかなかった。
ゾッタは手に袋と小さなピッケルを持っている。これが仕事道具。少年の仕事は山にあるサファイア鉱脈に潜り込み、それを掘り出すこと。サファイアは高価な宝石なので良い仕事だと思えるが、この鉱脈はずいぶん前に掘り尽くされ廃坑となっていたものだった。なので一日中かけて掘り進んでも欠片ひとつ見つからないことが普通である。
さらに掘られた穴は素人同然の人間が勝手に掘り進めた場所が多く、落盤の危険性が非常に高い。それで何十人もの人間が命を落としている。ゾッタは体が小さいので、狭い場所を掘らされるため体力と精神的にも辛い。
だが、それでもゾッタはサファイアを掘らなくてはならない。貧しい少年にとって欠片でもサファイアを掘ることができればかなりの収入になる。だからといって命を失う危険性があるのだから、違う仕事をすればいいのかというと不可能だ。少年が住む土地は誰もが教育を受けられる場所ではなく、貧しく生まれたからには貧困層として生きるしかなかった。
ゾッタの腹が鳴る。昨日の昼に食べてから何も胃に入っていない。通りに出ている屋台からうまそうな匂いがするが、それを買う金などもちろん持っていない。もしも今日サファイアが見つからなければ、食事にありつくことができない。
豚や鳥、ネズミの焼ける匂いが鼻に染み込んでくる。野菜くずが入ったスープの旨味を思い出してつばが出てきた。
腹いっぱいになることを妄想しながら、ひたすらに足を動かす。すると目指す場所が見えてきた。通りの端に停車している今にも壊れそうなトラックのまわりに、同じように汚い格好の男たちが集まっている。年齢は中年もいるし青年もいた。ゾッタと同じ年齢ほどの少年や十歳にもならない男の子もいる。彼らもサファイアを掘るのが仕事だ。
彼らを見張るように立っている男が数人いる。男たちの格好はゾッタたちと比べるとずいぶんマシだ。ただその目は一般人とは明らかに違った光を持っている。暴力の光だ。
何人かの男は手に大きなナタを持っているし、トラックの荷台に立つ男は長いライフル銃を抱えている。武器を持っていない男たちも見えない場所にナイフや銃を隠しているのだろう。彼らはこの土地を支配するギャングの一員だった。
トラックの周囲だけではなく、よく見ればいたるところにギャングらしき男たちが煙草を吸っていたり、道端で酒瓶から直接酒を飲んでいる。ここはいくつかあるギャングの拠点のひとつ。表も裏通りも、出会うのはギャングしかいない。
ゾッタが仕事へ向かうサファイア鉱山もギャングのものだった。閉鎖されていた鉱山をギャングが勝手に支配して、ゾッタ達に掘らせている。なので掘り出したサファイアは自分の物にできるはずはなく、安い値段で買い叩かれる。だからといって盗んで別の場所で高く売ろうとすれば、ギャングたちに殺される。殺されるだけですめばいいが、ほとんどの場合ひどい拷問を受けるはめになるだろう。そうした死体をゾッタは何度も見た。
重い足を動かしてゾッタはトラックへ向かう。年中通して高温多湿の土地なので、すでに顔には汗が浮いている。生まれたときからこの場所で生活していても、雨季が近いこの時期は湿度が高く快適とは言い難い。
「待ちやがれ、クソヤロウっ!」
突然の大声が聞こえると同時に、建物の間の路地から男が飛び出してきた。手入れをしていないただ伸ばしただけの髪が、顔に幾筋も貼りついている。目は血走って見開いているのに、口元は引きつった笑みを浮かべていてまともな状態ではないように見えた。
続けてもう一人の男が飛び出してくる。
「アイツを捕まえろ! ブツを盗って行きやがった!」
その言葉に周囲の男たちの雰囲気は一変した。走る男に目を向けると誰かは追いかけようと走り出す構えになり、誰かはズボンに挟んでいた拳銃を取り出す。
「どけえっ!」
胸元に荷物を抱えた男は、ゾッタに向かって走って来た。あまりに突然のことに動けないゾッタは、どうすることもできずもう目の前に男が迫っている。
「ガキっ! 止めろ!」
ギャングの一人が叫んだ言葉に、ゾッタは反射的に動いた。男に蹴り飛ばされないように右へ避けながら体を回転させる。横を走り抜けようとする男の足に向かって、右手に持ったピッケルを振り下ろした。
「ぎゃああああああ!」
ピッケルは見事に男のふくらはぎに突き刺さり、走っていた勢いもあって肉を抉り取った。血があふれ出す足を抱えながら地面をのたうち回る男は、追いかけてきたギャング達に囲まれると、全身を所かまわず蹴られ踏みつけられ、あっという間に静かになった。
「よくやったな、坊主」
呆然と男が暴行される様子を見ていたゾッタは、声をかけられてやっと意識が戻って来た。声がした方向へ振り向くと、数人の男を従えたひどく大柄な男が立っていた。太っているように見えるが、その威圧感からただ者ではないことがすぐにわかる。太い首には金色の鎖が三重に巻かれていて、その輝きは本物の金であり相当に高価な物だろう。
従えている男たちも普通ではない。無表情の瞳の中には冷たい警戒心の炎が渦巻いていて、何かがあればその手に持ったライフルが相手を殺すだろう。ライフルを持っていない男たちも、腰にはホルスターに入った拳銃があり、ホルスターが無い者はズボンの腰に拳銃を入れている。一目で銃を持っているとわかるようにしているのは威嚇のためだろう。
「お前、それ持ってるってことはアリをやってるのか?」
「あ……え、はい……」
アリというのはサファイア掘りをしている貧困層の人間に対しての蔑称である。なのでゾッタは怒ってもいいのだが、この相手にそんな真似をするのは自殺行為だというぐらいは一瞬で理解できた。ゾッタと男では明らかに格が違う。
「それで成果はどうだ」
「いえ、その、今日はまだ掘ってなくて」
「ハッ、そりゃあそうだな。んじゃ、昨日はどうだった?」
「ご、ごめんなさい……ひとつも……」
「そうか。飯は食ったか?」
「いいえ……」
「そうか、ちょうどいい。俺も今から飯にするところだった。お前も来い」
ゾッタに拒否できるはずもなく、ただ言われるがままついて行くしかなかった。ピッケルは護衛の男に取り上げられた。それを武器として襲いかかっても、一瞬で蜂の巣にされるだけだっただろう。そもそもゾッタにそれをやる意味も勇気も無かったが。
銃を持った男たちに囲まれながら歩くのは、それだけで足が震える。今すぐここから逃げるかその場にうずくまったりしたかったが、その場合自分がどうなるのか想像すると恐ろしく、ただ男の背中を追うしかできない。
建物に挟まれた狭い道を歩く。道は入り組んでいるうえに何度も左右に曲がって進むので、すでに自分がどこいるのかわからなくなった。そもそもギャングの本拠地なので、誰もが簡単に来れるような地区ではない。ゾッタもトラックに乗るために来ているだけで、このあたりの路地裏などに入ったことは一度もなかった。
「ここだ」
しばらく歩くと目的地に着いた。看板もあってどこにでもある普通の料理店といった見た目だが、ギャングの本拠地の一角にあるというだけで普通ではない。
男と護衛たちが店に入っていく。ゾッタは躊躇ったが、周囲を囲む視線に耐え切れず足を踏み入れた。
店内はそれほど広くななく、四人掛けのテーブルが四つあるだけだった。その一つに男が座り、護衛たちは全員彼の後ろと左右に立っている。
「まあ座れ」
対面の席をすすめられ、恐る恐るそこへ座った。
「坊主。酒は飲めるか」
「いえ。飲んだことないです……」
「そうか。じゃあ今日はやめておくか。おい! いつものやつを二人分な!」
店の奥に大きな声で呼びかけると、男はゾッタの目を見た。目が合った瞬間、ゾッタは動けなくなる。彼の顔は一見優しそうに見えるが、その目だけはまったく違っていた。青いその瞳は湖のように澄んでいるが、その中で泳ぐ魚はいない。逃げ出すからだ、その深さに。一度落ちてしまえば二度と浮き上がれない。そこへ落ちてしまった無数の人間の嘆きと恐怖が、瞳の奥の暗闇からゾッタの耳に聞こえてくる。
「坊主。お前の名前はなんだ」
「ゾ、ゾッタです」
「ほおん。そうかそうか。俺の名前はバイスっていう」
その名前を聞いた瞬間、ゾッタの呼吸が止まった。
通称『生け贄のバイス』この一帯を支配するギャングの幹部の一人。名前の由来はかつて敵対していたギャング達に行った行為だ。
古い言い伝えの中にある呪いの儀式がある。人の四肢と頭部を切断し、それを豚に食わせる。そうすればその人物の親類縁者を呪い殺せるというものだ。バイスはこれを何人ものギャング達にやった。生きたままで。ギャングの男たちだけではなく、その家族や恋人までも。老人だろうが子供だろうが関係なく、バイスは手足を豚に食わせた。最後に首を。もちろん、そのほうが長く苦しむからだ。
「どうやら俺の名前を知っていたようだな」
バイスの声で呼吸を思い出す。肺が限界まで膨らむほど息を吸い、吐いた。
「はい、もちろん……」
「まあ、お前が掘っているサファイア鉱山も俺の持ち物だしな。知っていて当然か」
バイスの視線に耐えられず、ゾッタはテーブルへ目を向ける。だからといって完全に見ないのも恐ろしいので、首から下だけが見えるように角度を調節した。
「お前の家はどこらへんにある?」
「大きい川沿いのところに」
「東か? 西か?」
「東です……」
「あっちのスラムか。去年も雨季に川が氾濫して家がいくつも流されたはずだが、坊主の家は大丈夫だったのか」
「は、はい……」
何の意味があるのかわからない会話をしていると、料理が運ばれてきた。ゾッタは見たことない、細切れにした肉が山のみたいに盛られた皿だった。屋台にあるただ焼いただけのものではなく、何かのソースがかかっていて食欲をそそる良い匂いがしている。もう一つの皿には煮た芋をを潰して平らにしてもう一度焼いた、この地域の主食となる料理だった。主食とは言っても、ゾッタにとって数回しか食べたことがないものだ。
自然に目が料理に引き寄せられ、口の中に唾液があふれてくる。
「食っていいぞ」
「本当にいいんですか……」
「ああ。俺のおごりだ」
ゾッタは空腹に耐えられず、両手で肉と芋を掴んで口へ入れる。あまりの美味さに涙と鼻水が出てきた。しばらく夢中で食べていたところで、バイスの様子が気になり目だけを動かしてそちらを見た。
バイスは平焼きの芋を手で持ち、それで肉をつまんで一緒に食べていた。ゾッタは肉も指で掴んで口へ運んでいたが、それを真似て食べる。バイスの目が笑みで細くなった。
「美味かったか?」
「はい! すごく美味しかったです!」
ゾッタは笑顔で頷いた。これまで一度も満腹になったことはなかったが、今では少し腹が苦しいぐらいだった。これまでに味わったことがない幸福感で胸も温かい。
「でも……どうして俺にこんな飯をくれたんですか?」
「なあ、坊主。人生に必用なものって何だかわかるか」
「金ですか?」
「いや。運と行動力だ。運があっても動かなければ何もできない。動くことができても運が無ければただ落ちぶれるだけだ。俺は両方があるから今ここにいる。それでだ、今お前には運があった」
「運ですか?」
「ブツを盗んだマヌケ野郎がいて、それを偶然お前が捕まえて、それを偶然に俺が見ていた。これは運が良かった。もし男が逆に逃げていたらお前は捕まえることができなかったし、俺が見ていなかったらここへ来ることもできなかった。そうだろう?」
バイスは両肘をテーブルに置いて手を組むと、楽しそうにゾッタを見る。その視線に居心地の悪さを感じてゾッタは小さく体を動かす。
「残るは行動力だ……ところで坊主、誰か殺したいやつはいるか」
ゾッタの脳裏に一瞬顔が浮かび、その様子をバイスは見逃さなかった。
「こいつは試験だ。お前がそいつを殺せたなら、俺達の仲間にしてやる。そうすれば毎日腹いっぱい食えるし、金も女も手に入れることができるだろう。どうする?」
ゾッタは十数えるほど目を閉じて開けると、そこには決意の光があった。
「それで、誰を殺す?」
「……おあ?」
寝ていた中年男性は物音で目覚めた。中途半端に長い髪の毛はもうずいぶん洗っていないようで脂っぽい。上半身は裸であばらが浮き出るほど痩せている。
男が寝ていたのは狭い家の床だった。床は並べられた木の板の幅がバラバラなだけではなく、そもそも枚数が足りていないようで隙間が多かった。
寝起きで光が眩しい目を細めると、入り口に立つ背の低い人の姿が見える。男はそれが誰だかすぐにわかった。そもそもこの家に来るような人間は、自分の息子の他にいない。
「今日はちゃんと稼いできたのか? 酒は買ったんだろうな?」
男の声に答えはない。それに苛立った様子で叫ぶ。
「おい、早く酒をよこせ!」
ひと言も発することなく父親に歩み寄ったゾッタは、右手に持ったピッケルを振り下ろした。当たり所が悪く突き刺さりはしなかったが、頭蓋骨を滑ったピッケルの鋭い先端は、皮膚をかなりの長さで削り取った。
「ああああああああっ!」
滴り落ちる大量の血が床を汚す。手で押さえた程度では全く効果はなく、傷からあふれる血はゾッタの父親の首から胸までを赤く染める。悲鳴をあげて足を虫みたいに動かす姿を、ゾッタは無表情で見つめていた。
ゾッタの母親は物心ついたときにはいなかった。酔った父親が言うには、家の金を盗んで逃げたらしい。それからずっと、二人で暮らしていた。
父親はろくでなしの類の人間だった。まともに働くことはせず、金はすべて酒に使う。ゾッタがサファイア掘りで手にした金も全て奪われた。
ゾッタはずっと逃げたかった。このろくでもない父親から。空腹をどうすることもできない貧困から。そう思いながら、できるはずもないと思っていた。つい先ほどまでは。
ピッケルの柄を持つ手に力をこめる。これが今の状況から逃げ出すための力だ。
もう一度振り下ろす。悲鳴は上がったが死なない。もう一度。運があっても動かなければ手に入れることはできない。
何度でもやれ。やるんだ!
真っ赤に染まったピッケルを片手にゾッタは家から出る。外にはバイス達がいた。
「合格だ」
点々と赤い血が散った顔に笑みが浮かんだ。
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ゾッタがギャングの一員となって六年が経過した。今では数人の部下を持つほどになっている。今日も彼らを連れて仕事に励んでいた。
「ンギイイイイイイ!」
路地裏に悲鳴が響き渡る。ピッケルを引き抜くと血が壁へ飛び散り、放物線を描く絵画となった。
「手前ぇが嘘つくからこうなるんだろうが、クソが」
ピッケルを振り下ろすと、地面に転がった男の肩に突き刺さる。さっきよりも甲高い悲鳴があがった。あまりの声の大きさにゾッタは顔を歪めた。
「うるせえから黙れ」
腹に全力でつま先をめり込ませると静かになった。
「チッ……こいつの家も調べるぞ。盗んだブツを隠してるはずだからな」
部下たちは返事をすると、静かになった男を運んでいく。いつもの場所で拷問するためだ。ギャングは舐められたら終わり。他にもこんな馬鹿が出ないように見せしめにする必要がある。しかし最近ではその効果も低下してきていた。毎日のように裏切者が現れてはそれを粛清している。今月になって何人にピッケルで穴を開けたのか、ゾッタはもう覚えていないほどだ。
「ゾッタ、ご苦労だったな」
「ありがとうございます! バイスさん!」
ゾッタは盗まれた麻薬を取り返したことを、上司であるバイスに報告へ来ていた。
あの男は以前から麻薬を横流ししていたらしく、かなりの量の麻薬と金を隠していた。自宅を探したが無かったため、ゾッタは拷問で隠し場所を吐かせた。
「しかし、最近は馬鹿どもが多すぎるな」
「やっぱりあのクソ犬どものせいでしょうか?」
クソ犬とは最近勢力を伸ばしているギャングのことだ。一年ほど前から急激に大きくなっている組織で、バイスが支配する地区へ手を出してきている。そのため麻薬の横流しや人員の引き抜き、偶発的な衝突による小競り合いで数人の死者も出ていた。
「もうさっさと皆殺しにしたらどうです?」
「そういう訳にもいかん。だが……あと少し待ってろ」
「えっ。じゃあ……」
バイスは元々かなりの武闘派で『生け贄のバイス』と呼ばれるほどだ。ただ黙っているような男ではない。その彼が浮かべた笑顔は、仲間であるゾッタにとっても背筋が震えるほどだった。
「そういうことだ。ゆっくり準備しておけ」
それから二ヶ月ほどゾッタにとって何事もない日々だった。麻薬を売りさばき、その売上や麻薬をかすめ取る馬鹿を見つけたらピッケルで穴を開ける。飯を食い酒を飲み、女を抱く。それは彼にとって当たり前の生活だった。
ある日の夜、ゾッタは部下たちと店で飲んでいた。その店は酒だけでなく女も提供する場所で、気に入れば店外に連れ出して一夜をベッドで共に過ごせる。そういった店なので客のほとんどはゾッタ達も含めて荒んだ雰囲気の男たちだけで、数少ないまともそうな客はどこかの金持ちかその親の金で遊ぶバカ息子である。
ゾッタと部下たちは女の肩に腕を回し、酒を飲んでは下品な会話で笑い合っていたが、それを中断させる無粋な声が割り込んできた。
「何だ、見るだけで気持ち悪い色で光ってるバカがいると思ったら、陸魚どもだったか」
ゾッタたちの様子がそれまでと一変し、うかつに近づくこともできない空気を身にまとう。細められた瞳には冷たい殺意が輝き、侮蔑を含んだ言葉をかけてきた男を睨みつける。
女たちはその変化を察知して、素早く立ち上がると逃げ出した。これができななければこの場所で長生きすることはできない。
ゾッタはゆっくりと立ち上がる。部下たちも立ち上がった。
テーブルを挟んだ場所に立つのは、ゾッタたちと同じ程度の人数のグループだ。もう一つ共通するのは、その身にまとう暴力の気配。
「誰かと思ったら、自分のクソと尻の穴の臭いしか嗅ぎ分けられないクソ犬どもか。犬小屋に帰って首輪につながれたままマスかいてろ」
ゾッタが口汚く罵ると、相手の顔がわずかに引きつった。
「臭せぇ息で喋るな陸魚が。魚が腐った臭いがする」
「へえ? そのブサイクな犬鼻が役に立つとは驚きだ。はやく飼い主に尻尾振って褒めてもらえよ」
ゾッタがそう笑うと男たちは全員牙をむき出しにして唸る。
「俺は狼だ!」
突き出た鼻と口からのぞくのは長く鋭い牙。狼牙族である彼らにとって、犬と呼ばれるのは最大の屈辱だった。
「ハッ! 鏡を見てみな。どこから見ても犬だろ。今もワンワン鳴いてたぜ?」
「黙れよ青目魚の奴隷どもが!」
その瞬間ゾッタたちの殺意が氷点下まで下がる。
最初に言われた「光っている」というのはゾッタたちの皮膚にある鱗を揶揄したもの。陸魚というのも彼の種族を侮辱する言葉で、魚が腐ったというのもそうだ。ゾッタは魚から進化した魚鱗族である。
魚鱗族の特徴である首の側面に並ぶエラが大きく開閉する。これは興奮している証拠だ。ゾッタだけではない。部下の男たち全員もエラを繰り返し開閉させていた。
狼牙族の男が言った青目魚というのは、ゾッタと部下たちに共通する蔑称で、その名前の通り青い目の魚鱗族の事だ。それだけならよくある事なのだが、そこに『奴隷』という言葉をつけると最大級の侮辱となる。
「……もう一度言ってみろ」
「何度でも言うさ! 奴隷の青目魚が!」
狼牙族の目に、ゾッタが投げたピッケルが突き刺さった。その体が床に倒れると、取り巻きたちが慌てて声をかけるが即死だったので意味はない。
ゾッタはズボンの背中側に差し込んでいた、もう一つのピッケルを掴む。
「ぶっ殺せ!」
ゾッタと部下たちは一斉に襲いかかった。
「派手にやったみたいだな」
「申し訳ありませんバイスさん!」
ゾッタはソファーに座るバイスの前で直立不動。正直かなり恐ろしいが、ここで体を震えさせると余計に恐ろしい事になるかもしれないので必死に耐える。
「相手は八人で全員殺したか。それで、お前らは?」
「かすり傷が数人いるだけです」
「そうか……いつもなら何か罰をあたえるんだが、今回は無しだ。それと、お前のおかげで少し早いが始めることになった」
「始める、ってことは……」
「ああ。全面戦争だ」
ゾッタが殺した狼牙族の男たちは、最近ずっと小競り合いを繰り返していたギャング達の一員だった。元々バイスら幹部たちは彼らを潰すために攻撃するつもりだったが、今回の件を理由に早めることにしたのだ。
「何しろ俺達を、青鱗族をコケにしやがった奴らは許さねえ。そうだろ」
ゾッタと同じバイスの青い瞳が強い輝きを放った。
彼らが暮らすここデゼルト大陸は、かつて魚鱗族だけしかいなかった。その中で瞳の色で複数の部族に分かれていた。その一つがゾッタたち青い瞳の青鱗族だ。
青鱗族は少数民族で、他の部族たちから差別的な扱いをされていた。その一つが住む場所で、食料となる魚が多い海の近くに住むことは許されず、内陸や山の中でずっと暮らしていた。そこで農業や狩りをしていたのだが、それも他の部族たちに安く買いたたかれ、反抗すれば奪われ殺される。
そうして厳しい境遇に耐えていたところに、新たな脅威がやって来た。別の大陸からの船だ。大型船の建造が始まり大航海時代が始まると、デゼルト大陸はちょうど航海の中継基地として良い場所にあり、別の大陸から何百何千もの船と別種族の者たちがやって来るようになった。彼らは魚鱗族が知らない食料や香辛料、煙草や酒などの嗜好品、服とアクセサリー、壷や絵画などの芸術品などが溢れかえるほど運んできた。
そうなると当時の王族や富豪たちは珍しいそれらを欲しくてしょうがない。他者への見栄もあり、誰かが買えばさらに高い物を。ならばさらに良い物を。しかし資金には限界がある。では、どうするのか。
彼らは青鱗族に過酷な税を課した。さらに未踏の山林を調査し、金銀宝石の鉱脈を探すことを強制させた。その無理な調査で何千もの命が失われた。
それでも足りなくなると、ついに青鱗族を奴隷として売り始めたのだ。
それから五十年以上もの間、青鱗族は奴隷として売買され、過酷な労働条件のもと家畜のように働かされていた。その境遇にずっと耐えてきた青鱗族だったが、ついに反撃を開始した。それができたのは、銃の発展のおかげだった。
高性能な銃の量産が可能になると、それだけ銃が手に入りやすくなる。青鱗族はそれらを少しずつ集め、準備が整うととある軍事基地を襲い占領すると、奪った銃を大陸中の同族たちへ配った。いたるところで反撃の狼煙があがり、怒りの銃弾が何万もの命を奪う。
そして二年間の戦争ののちに青鱗族は奴隷の鎖を自ら壊し、民族の独立と自治を勝ち取ったのだ。
こういった歴史があるため、青鱗族であるゾッタとバイスにとって『奴隷』と呼ばれることは最大の侮辱であり、それを口にした相手は許すことができない敵だった。また彼らが所属するのは全員が青鱗族のギャング組織なので、奴隷だと侮辱した狼牙族たちは組織全体を侮辱したことになる。そうなれば戦うしかないのだった。
「バイスさん! 俺も青鱗族をバカにした奴らが許せない! 皆殺しにしてやりますよ!」
「その意気だ。お前もこれまで良く働いてくれたな。あの時声をかけたのは間違いじゃなかった。ちょうどいい、正式に仲間にしてやろう」
「えっ、もしかして俺に銃を?」
「ああ、そうだ」
ゾッタの顔が途端にほころぶ。解放と独立を勝ち取った銃という武器は、青鱗族にとって神聖とさえ言える物だった。彼が所属するギャングでは銃が持てるのは働きが認められた者だけである。なので銃はゾッタがずっと欲しかった武器という力であり、組織に認められたという権力の象徴だった。
「そこに座って待ってろ」
ゾッタはバイスの対面にあった椅子に座り、手を何度も組み換えながら待つ。嬉しくてつい体が動いてしまうのだ。足も動かしたくなってしまうが、何とかそれだけは我慢する。
「これだ」
バイスがテーブルに置いたのは一丁のリボルバーだった。鈍色の六連装シリンダーは無骨で銃弾に込められた力を受け止めるのに相応しい。四インチのバレルは使いやすく見えた。木製のグリップは綺麗に磨かれていて美しく光を反射している。
ゾッタは魅入られたかのように拳銃を見つめていた。
これが自分の銃。解放と自由の象徴である暴力の塊。
「よし。儀式を始めるぞ」
思わず銃のグリップに手を伸ばそうとしていたゾッタは、その言葉で腕を止めた。
「手を出せ」
ゾッタは無言で右手をテーブルの上へ置いた。
「覚悟はできているな」
「もちろんです」
バイスがゾッタの手首を手で固定する。もう片方の手にはナイフがあった。その鋭い先端が徐々にゾッタの手に近づいていく。
意思とは逆に逃げようとする右手を、ゾッタは必死でその場に固定させていた。それでも指先は細かく震えている。
ついにナイフの先端が皮膚に触れた。
「緊張するな、一瞬で終わる」
ゾッタが返事をする前にナイフが動いた。
「ッ……!」
想像より痛くなかった。しかし痛くないわけでもない。
「これを使え」
いつの間にか用意されていたガーゼを傷に当ててテープで固定する。
魚鱗族であるゾッタの手の指の間には、薄い皮膚でできた水かきがあった。これがあると邪魔になって銃の引き金を引くことができない。そのため人差し指と中指の間にある水かきを引き裂く必要があるのだ。
「これでお前は俺と同じ、戦士の仲間だ」
バイスは満面の笑顔を見せる。彼の祖先は青鱗族の解放戦争に参加した戦士だった。戦士たちは銃を撃つために誰もが指の間の水かきを切り裂いていた。バイスの指の水かきはもちろん裂けている。この裂けた水かきは戦士の証であり仲間の証拠なのだ。
「ありがとうございますバイスさん」
「持ってみろ」
ゾッタはまだ痛む右手でリボルバーのグリップを握った。使い慣れたピッケルよりも軽いような気もするが、その重さは手のひらの中心へ染み込んでくるような感覚があった。
この拳銃は青鱗族の解放と自由の象徴であり、怒りが力として具現化した存在。
たしかにかつて支配され蔑まれていた青鱗族は自由と独立を銃によって勝ち取った。しかし以前のゾッタがそうだったように、ほとんどの青鱗族は貧困に喘いでいる。
そこから抜け出す力になるのも、この銃だ。銃口から放たれる銃弾のひとつひとつが、ゾッタを頂上に向かって押し上げてくれる。
銃という暴力によって戦士の資格を得た者は、血の川を渡り死体の山を目指す。
だが戦士はことごとく血の川で溺れ、死体の山の一部となる。
それでも、それを越えた先にあるはずの場所に辿り着くまで、戦士は銃を手放すことなどできない。
ブラキッシュ ウォーター 山本アヒコ @lostoman916
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