肋骨に髪を巻く

尾八原ジュージ

肋骨に髪を巻く

 雑居ビルの二階にあるわたしの整体院は、予約を入れた常連がやってくる以外はほぼ閑古鳥が鳴いている。そこに彼女がやってきたのは、梅雨に入りかけの金曜日の夕方だった。

 軽やかなボブカットに白いジャケットを羽織った彼女は、ぱっと見た限りまだごく若い女の子のようだった。わざわざ女性整体師がやっているところを探してきたのかな、と思った。

 問診票の名前欄には「志垣みはる」と書かれていた。

「肩こりがひどくて」

 施術室のマットにうつぶせになった彼女の肩を触ったわたしは、骨の細いひとだな、と思った。人間の骨格は色々で、骨の細い男性もいれば太い女性もいる。どちらがいいとか悪いとかではなく、個人差だ。志垣さんは細くて柳のようにしなやかで、骨格に曲がったところがなかった。美しいひとだ、と思った。

 確かに凝ってるみたいだな、と考えながら肩から腰の方へと掌を動かしていく。その過程でふとわたしの手が止まった。肩甲骨の間あたり、かつてない手ごたえがあった。というか、なかった。わたしは「肩こりはいつ頃からですかぁ?」などと呑気な声で言いながら、背中を探っていった。それにつれて、わたしの積んできた経験と掌がものをいう。

 この女性には心臓がない、と。

 そんな馬鹿な。華奢な肋骨が囲む臓器の中心、生命の象徴たる血液のポンプがないなんて。第一彼女はちゃんと動いて喋っているわけで、つまりそんなことはありえない。そのとき「どうかしましたか?」と甘やかな声がした。志垣さんが首をひねり、こちらを見ていた。

 あっと思ったときにはわたしの目の前に、彼女の白い顔があった。唇がわたしの唇にふれた。むせかえるような花の香りが脳天まで貫いた。

 気がつくとわたしの視線の先には真っ白な天井があった。壁に貼られた人体解剖図と、近くの美術館の企画展のポスター。そこは見慣れたわたしの整体院の施術室で、わたしは施術用のマットレスの上に寝ていたのだ。有線放送がつけっぱなしだった。

 慌てて近くの壁掛け時計を見ると、11時5分前を指している。なのに外は明るい。わたしはばっと跳ね起き、受付に向かうと、カウンターに置かれた自分のスマートフォンを見た。日付が変わっていた。

「嘘でしょ」

 何度も画面を見直し、ニュースアプリをチェックし、SNSを開いた。やっぱり時間が経って、次の日の午前中になっている。と、入口のドアが開いて「ピンポン」とチャイムが鳴った。予約が入っていた常連さんだった。やっぱり日付が変わっている。

「先生どうしたの。顔色悪いよ」

 怪訝そうな顔で彼は私の顔を覗き込んだ。

 常連さんが帰ると、いつも通り閑古鳥が鳴き始めた。わたしはふと、昨日会計を締めていないことに気付いた。そういえば常連さんは、ドアを普通に開けてやってきたではないか。一晩戸締りもせずに過ごしてしまったのだ。しまった。

 わたしは受付カウンターに向かい、机の下の小さな手提げ金庫を開けようとした。そのとき金庫の下から紙幣がするりと出てきて、ひらひらと足元に落ちた。

「なにこれ」

 まっさらな一万円札だった。顔を近づけると、かすかに花の香りがした。


 次の金曜日、志垣さんは素知らぬ顔でまたやってきた。彼女のほっそりとした指で心臓を握られたような心地になりながら、わたしはようやく「いらっしゃいませ」と言った。人間は得体の知れないものを怖れるようにできている、と痛感する。

「まだ肩こりがひどくって」

 困ったように笑う志垣さんの顔はどこまでも可憐だ。血流がよくないせいかな、などという彼女に、わたしは曖昧に微笑み返す。血液を送り出す心臓がないんだから、血流がいいも悪いもないじゃないか。だけどそんなことは言えない。言ったら何が起こるかわからない。

 ほかのお客さんにそうするように、上着を脱いで横になってくださいと言って、わたしは志垣さんのほっそりとした背中にタオルをかける。そのときうつぶせになった彼女が、

「お姉さん、気づいてるんでしょう。私に心臓がないって」

 と歌うように言った。あっ、と思ったらまた、いつの間にか起き上がった志垣さんの顔が、わたしの目の前にあった。

「私、探しているひとがいるんです」マットレスの上にしどけなく横座りをして、志垣さんはわたしの顔を白魚のような両手で包む。また花の香りがした。

「心臓がふたつあるひとを探しているの。ここのお客さんの中にいませんか?」

 そんなひといるわけない、と言いかけて、わたしは口を閉じる。現にこのひとには心臓がないのだから、心臓がふたつあるひとだってどこかにいるかもしれない。志垣さんの目はよく見ると不思議な色をしていて、わたしはだんだん酔っぱらっているような気持ちになってくる。濃厚な花の香りが頭蓋骨の中に満ちる。

「そういうひとが来たら教えてください。お礼に何でも好きなものをあげます」

 わたしは他になすすべもなくうなずいた。

 ほかのお客さんにするのと同じような施術を受けて、志垣さんは帰っていった。もう一万円札を当てずっぽうに置いていくことはせず、私が告げた料金表通りの金額をぴったり払っていった。白いジャケットを着た背中がドアの向こうに消えた瞬間、わたしはほーっと深い溜息をついて崩れ落ちた。

 ひどく緊張していたのだ。


 梅雨が終わって本格的な夏が訪れた。お客さんはそろって薄着になり、わたしは背中を注意深く触ってそのひとの心臓を探した。常連さんの中に、心臓がふたつあるひとはいなかった。たぶん、おそらく、わたしにわかる限りは。

 志垣さんは毎週金曜日の午後になるとやってきて、肩こりの施術(相変わらずちっともよくならない)を受けながら、わたしの報告を受ける。 

「やっぱり心臓、ないと困りますか」

「困りますねぇ」

 牧歌的な会話を交わすようになって、わたしは前よりも志垣さんが怖くなくなった。相変わらず得体は知れないながら、彼女の存在に慣れてきたのだ。心臓はないけれど、話してみると愛想がよくてかわいらしい女の子だと思った。

 志垣さんは自分の心臓を探して、アルバイトをしながらあちこちを転々としているのだという。

「心臓が見つかったら、私も先生みたいに髪を伸ばしてみたいな。頭が重いと肩がもっと凝っちゃうから、今はできないけど」

 志垣さんは、私の伸ばしっぱなしの長い髪を、きれいだと言って毎回褒めてくれた。

 夏が終わるころ、珍しく新顔の若い男性が整体院を訪れた。

「デスクワークのせいかな、背中が硬くなっちゃって」

 そういう方結構来られますよ、なんて返事をしながら背中を触る手がふと止まる。もしもわたしの掌がわたしを裏切るのでなければ。

 このひとには心臓がふたつある。


 普通だったら絶対に明かさないお客様の個人情報を、志垣さんに洗いざらい教えてしまったのは、やっぱりわたしがどこかで彼女を怖れていたせいもあるけれど、何より彼女が「お礼にほしいものを何でもあげる」と言ったからだ。

「わたし、志垣さんの肋骨を一本ほしい」

 そう言うと、彼女は「ふへっ」と不思議な声をたてて笑った。

「一本くらいいいでしょう? 志垣さん、心臓がなくたって生きてるんですから」

「いいけど、なにに使うんですか?」

 何に使うのか、さっぱり考えていなかった。それでも彼女の、ほっそりとして、しなやかで美しい骨を一本、手元に置いておきたいと思った。目的を達した彼女は、おそらくもうここにはこないのだろうということを、わたしは直感的に悟っていた。


 土砂降りの雨が降ったある金曜日の午後、志垣さんはわたしの整体院にやってきた。白いジャケットを羽織り、その下に着たシャツの左わき腹から夥しい血液が流れて、細い太腿まで赤く染めていた。

 でも志垣さんは笑っていた。

「おかげさまで、肩こりがすっかりよくなりました」

 彼女はわたしに、駅に入っているパン屋の紙袋を突き出した。

「これ、約束の」

 中には真っ白い、カーブした骨が一本入っていた。

 顔を上げると、もう志垣さんの姿はなかった。花の香りが辺りに残っていた。

 急にさびしくなって、わたしは少しだけ泣いた。


 それから志垣さんがどうしたのか、わたしにはわからない。でも肩こりが治ったというからには、おそらく心臓を取り戻したのだろう。

 あの男性とはどうしたのか、そもそもどういう関係だったのか、わたしは何も知らない。わたしはふたりの間にあったストーリーに、ほんのちょっぴり関わっただけのチョイ役に過ぎない。

 志垣さんの肋骨はまだわたしの手元にある。彼女がよく着ていたジャケットのように真っ白で、手に持つと適度なしなやかさと強度を維持していることがわかる。

 何に使うわけではないけれど、わたしはたまに髪をほどいて肋骨に巻き付け、ぐるりとひねって簪のように髪を留めることがある。何度もやるうちにその動作はすっかりなじんで、わたしはほかのどんなものを使うよりも、きれいに髪をまとめることができるようになった。

 志垣さんの肋骨はわたしの髪を巻き込み、やさしいカーブがわたしの頭に沿うようにぴたりとはまる。同じ空の下のどこかで、彼女も今はロングヘアになっているかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

肋骨に髪を巻く 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ