名犬クンの話

山田貴文

名犬クンの話

 かれこれ三十年以上前の話。妹が拾ってきた子犬は、まだ生まれたばかりで目も開いていなかった。ニャーニャー鳴きながらお乳を吸うしぐさは可愛いが、とても哀れ。

 人間用の哺乳瓶を買ってきて牛乳を与えることになったのだが、人肌に温めないと飲もうとしない。昼間は母が、そして夜の授乳は当時高校受験のため、一番夜更かしをしていたぼくが行うことになった。

 受験生と言っても、夜は当然寝る。だが、きっちり2時間に1回、子犬の鳴き声で起こされた。チュッチュッとお乳を欲しがる様子はさすがに不憫で、無視もできない。寝ぼけまなこでコンロに火をつけ、鍋で哺乳瓶を暖める。そして赤ちゃん抱っこをして子犬に乳を与えた。それを一晩に三~四回。1ヶ月ぐらい続いたのでは。

 当然、寝不足でフラフラになり、その間は授業など頭に入らなかった。よく高校にうかったものだ。

 子犬にぼくたちがつけた名前はクン。スピッツが混じった雑種だったが、なかなかの美女犬だった。なぜか犬のくせにキャベツの千切りが大好物。

 五年ほどたったある日、クンは家出した。借りていた家庭菜園に両親が車でクンを連れて行ったのだが、そこで失踪。鎖をほどいてやって、そのへんで遊ばせていたらしい。父と母が目を離した隙にいなくなり、そのまま帰って来なかった。

 あたり一帯にポスターを貼るなどして、家族総出で探したが、駄目だった。あの馬鹿が...とつぶやきつつも、ぼくらの表情は暗かった。

 そのまた三年後のこと。その時、すでにぼくたちは隣町に引っ越していた。 三人いる妹の一番下が、たまたま、もと住んでいた町の高校に入学することになった。妹と母は入学手続きをするため、電車でその町の駅に向かった。

 電車がホームに停まりドアが開くと、その真正面にクンが正座していた。その瞬間、妹は口がきけなくなったとか。母は入学手続きを放り投げ、仕事中の父を電話で呼び出して、車で犬を迎えに来させた。

 みんな泣いた。うす汚れてはいたものの、クンだった。三年間もどこで苦労してきたのか?いったいどうやって、ピンポイントで母と妹を待っていたのか?

 もともとよくしゃべる一家である。両親、ぼく、三人の妹は会う人会う人に帰ってきたクンの話をした。自然と尾ひれもつき、その美談は、ぼくたちの芸となっていった。

 ある晩、例によって父が居酒屋でその話を語っていた時、すぐ隣に新聞記者がいたそうな。彼は非常に興味を示し、後日我が家へ取材にやってきた。

 こうして産経新聞の千葉版に「クンの話」は母とクンの写真入りで掲載された。一頁の四分の一ぐらいを占める結構なボリューム。その日はよっぽどニュースがなかったのだろう。

 しかしマスコミと言うのは勝手なことを書くものだ。ぼくたちが大げさにしたストーリーは、記事上でさらにぶっ飛んでいた。クンの家出の後、我が家から笑い声が消えたとか、一番可愛がっていた2番目の妹が引きこもりになったとか、全部実名入りで書かれてしまった。本当は、みんな普通に暮らしていたのだが。

 あと、掲載された写真も、もっと他になかったのかと、家族の誰もがつぶやいた。どう見ても、笑っている母が、クンの首をへし折っているようにしか見えなかったのだ。

 しかし、もともとネタ好きの家族。家にお客さんが来るたびにその新聞のスクラップを取り出してきては見せまくった。これがそのクンですと、犬も挨拶させられた。

 月日は流れた。ぼくたち家族の中に徐々にではあるが、小さな違和感が生まれ、そしてそれは次第に大きくなっていった。クンがキャベツを食べない。背中の模様が、前はもう少し大きかったような。そう言えば足も、もうちょっと短かったんじゃないか?

 でも、みんなハッキリとは言わなかった。それを言っちゃあおしまいよと。

 でも、でも、ある日、父がこらえきれずに言ってしまった。

「これ、別の犬じゃないか?」

 やばい。やばすぎる。新聞沙汰にまでなったのだ。親類、友人、ご近所、すべてこの話を知っている。世間様に顔向けできない。ぼくたちは偽装美談の嘘つき一家と言われてしまう。

 ただ、完全に違うとも言い切れなかった。確かに似ていることは事実なのだ。まさか犬のDNA鑑定をやるわけにもいかず、真相は闇の中。目の前にいる犬は本物のクンかもしれないし、違うかもしれなかった。

 一度疑いが芽生えた以上、それ以上「クンの話」を口にすることは、はばかられる。ぼくたちはストーリーを心の奥深くしまいこみ、二度と話さないことにした。新聞のスクラップも仏壇の一番下の引き出しにしまいこんだ。


 またまた時は流れていった。ありがたいことに「クンの話」も関係各位の脳裏から消え去ってくれた。 実は結構いい犬であり、みんなで可愛がってきたクンも5年前に天国へ召された。ちょうど母の命日の一年と一日後である。

 すぐには行きたくないけれど、いつか天国に行くのが楽しみだ。母と一緒にいるクンにも会えるのだから。


 二匹いたりして。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

名犬クンの話 山田貴文 @Moonlightsy358

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ