不死の少女にカンストダメージと包帯を
上野あおい
耳鳴り12
屋上へ続く階段。
一段昇るごとに動悸が高まる。
扉に手をかけると、予想通りに解錠されている。
一気に開いて外に踏み出す――
と同時に赤一色の世界に呑み込まれる。
まるで死んだ世界みたい……世界が死んだところなんてもちろん見たことはなかったけれど、目の前に広がる夕焼け空は、自然とそう思わせるくらいの狂ったような赤に彩られていた。
ドーパミンが血管を駆け巡る。
これは……この景色はまるで、あのときそのものだった。
そう、一年前のあのときと。
耳鳴りのように、踏切の音が聞こえてくる。
遮断機の向こうに佇む少女の影。
「
実際には自分は彼女――
当たり前だ。
もし居合わせていたら、なんとしてでも彼女を助けたに決まっている。
でも、あの日がちょうどいまと同じように、目を疑うような壮麗な夕焼け空に世界が覆われていた、ということはまざまざと覚えていた。
二度と取り返しのつかない日。
そうだ、自分にとってはあの日、世界は本当に死んだのだ。
いま自分が生きているこの世界は、まがい物にすぎない。
澪が死んだあの日からずっと。
自分自身も余生を過ごしているにすぎなかった。
繰り返し自分に問いかけない日はなかった。
なんで澪を先に逝かせたりしたんだろう。
どうして自分も後を追いかけなかったんだろう。
どうして今もこの世界にいるんだろう。
屋上へと一歩踏み出す。
と同時に、先の方に一つのシルエット。
ハッとして、立ち止まる。
張り巡らされたフェンスの向こう側。
華奢なシルエットが、短く切りそろえた黒髪と、紺色のプリーツスカートとを風にはためかせている。
強風が吹きつける屋上の端で、その姿はいまにも飛ばされてしまいそうに見えた。
「澪……みお、待って!」
叫ぶのと駆け出すのは同時だった。
やっぱりそうだ、これは……あのときと同じ。
澪は……澪はまた自分を置いて、先に逝こうとしている。
でも……
今度は、今度こそは、そんなことは絶対にさせない。
フェンスまでたどり着くと、シルエットがわずかに振り返る。
「やっぱり、来てくれたんだ……」
かすかな
「澪、動かないで! すぐに……すぐに助ける!」
言いながらフェンスをよじ登る。
途中、風で引きはがされそうになるが、たじろいだりしない。
自分よりもずっと
このくらい……
澪、すぐに行くよ、澪・澪・澪・みお・みお……
まるですべてが夢の中だった。
世界がループされて、過去をやり直している。
自分が失敗したときにまで
非現実的な真っ赤な夕焼けが、余計にそんな気分を増幅させた。
フェンスの頂点を超え、反対側に出ると、滑るようにして一気に降りる。
「――澪、間に合った……」
こんな場所だから、抱き合うわけにはいかない。
けれども細いシルエットの少女を目の前にして、胸がいっぱいになった。
「もう、先に死なせたりしない、澪、ずっとずっと一緒だよ……」
片手はなおもフェンスにかけたまま、もう片方の手でシルエットの少女の手を握ろうとする。
とたんに、少女がすっと身を引く。
「……澪?」
「私は澪じゃないよ」
静かな声が耳を撃つ。
「え……何言って……」
あらためてシルエットの少女を見つめる。
少女の髪を
髪で隠されていた少女の顔がはっきりと見える。
「私は
切りそろえた前髪の下で、少女――ユキの目が涼し気にこっちを見ている。
夕日を反射し、夜光虫のようにその瞳が光っている。
一瞬頭が混乱する。
ノイズが走り、雑多な情景が目まぐるしく脳裏を駆け巡る。
落書きだらけの机・手向けられた白い花・明滅する赤いランプ・一斉に飛び立つ鴉の群れ・花を手向けている自分の手・・・教室の中で孤立し、遠巻きにされている生徒――その顔が澪になったり、目の前の少女になったりする――
が、すぐに我に返った。
「え……あ、そ・そっか、そうだよね……」
そうだ、どうしたんだろう。
何でこんな勘違いを……
ユキ――この子は白縫ユキだ。
今年の五月に転校してきた……誰とも心を通わせない異邦人。
なんで澪だなんて……
澪はとっくに死んでいるのに。
「ユキ……うん、そうだ、ユキ!」
あらためて状況が把握される。
風がふたたび強まる。
ちょっとでもフェンスを掴んでいる手を緩めたら、転落してしまいそうだ。
そっと下に目を向ける。
五階建ての校舎のはるか下にコンクリートの地面。
落ちたらどうなるかなんて、死んだ人間にしかわからない。
想像しただけで眩暈がして、引きずり込まれる気がする。
「ユキ……キミ何やってんの! そこ動かないで、すぐに助けるから……」
言いながらも距離を詰める。
が、ユキは少しづつ後じさり、離れてゆく。
「な……ちょっと、動かないでって!」
フェンスを掴んだ方の手が、ジワリと嫌な湿り気を帯びる。
滑りそうだ。
「なんで……こんなとこに……」
「なんで? だって、あなたが望んだことでしょ、杏子」
ユキが冷たく笑う――思わず息を呑む。
この子、何言って……なんでこんな状況で、笑って……
「何言ってるのか、わからない? じゃあもう一度言うね」
ユキの底光りする目が、ハッキリと杏子を見据える――
「周防杏子、あなたが私を追い込んで、死に追いやろうとしていた張本人でしょ、覚えてないの?」
一瞬鼓動が止まる。
風が吹き荒れる中で、そんなにも大きくないはずのユキの声が、一語一語くっきりと耳に入った。
「え……は? いや、なにいって……」
「ああ、ごめんね。ちょっと言葉が足りなかった。言い直すね……」
ユキが口角を上げる。
「あなたは澪を追い込んで、自殺させた。そして同じようにして、私のことも自殺させようとしていた……こう言った方が正確ね」
一際強い風が吹いて、二人の髪を巻き上げる。
ユキの言葉が鼓膜を通して、体内に潜り、神経の隅々をぞわぞわと撫でてゆく。
ボクが……澪を……殺した……
そして……ユキを?
「――ちがうっっっ‼ ボクは殺してなんかいない、澪を……」
考えるよりも先に叫んでいた。
どうしてボクが澪を……
こんなに好きで、いまでも忘れられない。
大好きな、ボクだけの澪を……
「ふうん、やっぱりそっか……自分ではわかってない……いや、わかろうとしてないんだ。だからあのときも、あんな姿で夢の中に現れたのね」
……なに?
何を言っているのか、本当に分からなかった。
「私が〈
ユキが淡々と語る間にも風が強まり、二人を乱暴に揺さぶる。
「待って、ユキ、キミが言いたいことは後で聞くから、とにかくここから離れないと……」
「これ以上話を長引かせることはないわ。あなたが本心を言ってくれればね。杏子、あなたは本当に澪のことを愛していた。だけど誰の色にも染まらない澪を手に入れるには、彼女を完全に孤立させるしかない……漂白するしかない。誰とも交わることなく、透明になりきった澪だったら、自分の色に染めることができる。だからあなたは澪の机に花を手向けた。自然とみんなの意識が澪をスケープゴートとして
花を手向けた……その言葉で、情景がまざまざと浮かんでくる。
九月――夏休み明けで、明日から登校日という日。
一足先に無人の教室に忍び込み、用意しておいた花瓶と一輪の百合を机に置く。
誰よりも好きで、ボクだけを見ていてほしい。
そう思っていた相手――玄季澪の机の上に。
「なんで……」
何で知ってるの、そのことを……言いかけて、唇を噛む。
「でも違う、ボクが殺したんじゃない」
「杏子……」
「違う、ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうっっっ‼ 殺したのはアイツらっっ‼ 知ってるでしょ、ユキだってみんなにやられてたじゃん! ボクは違う……」
「何言ってるの、いつも率先してやってたのはあなたでしょ?」
「そうじゃない、そうじゃないんだよぉぉぉぉっっっ‼‼‼」
どうして誰もわかってくれないの、澪も、この子も……
状況を忘れて、頭を掻きむしる。
矢継ぎ早に脳裏に浮かんでくる映像。
あの後、澪が様々な噂を立てられ、誰からも敬遠されて、陰口を言われるようになってゆく姿。
自分がやったのは、最初のほんの少し。
澪と彼女の父親とが普通じゃない関係にあるらしい、とほんの少しほのめかしただけ。
そこから噂が自然と膨れ上がってゆくのに時間はかからなかった。
噂が肉体的な暴力へと変換されてゆくのにも。
次第にエスカレートし、加熱してゆく虐待の映像が
「許さない、みんな許さない……ボクはただみんなに、無視しようって言っただけなのに……なのに、澪にあんなことしやがって……」
ボロボロにされた自転車の車輪。
それを黙って見下ろしている澪の姿。
何人かのガラの悪い上級生の男子たちが、学校のトイレに澪を連れ込む。
逃れようとする澪の腕に彼らが煙草の火を押し付ける情景が浮かび。
心臓が壊れた目覚まし時計のように悲鳴を上げる。
「そう思うんだったら、どうして止めなかったの? 反対に、みんなをさらに焚きつけるようなことをしたのは、どうして?」
「それは……」
悲鳴を上げる澪を見て、ノルアドレナリンがぎゅんぎゅんと血管を巡る。
助けなきゃ、という思いで、体が震える。
ここで澪を助ければ、澪はボクだけを頼ってくれる。
澪にとっては、ボクがヒーローになる。
いつも一緒に遊んでた小さい頃。
あの頃は澪がボクにとっての絶対者だった。
大人びて、ミステリアスで、何でも知っていて、
知らない世界に無限に連れ出してくれる。
ボクにとっての世界は澪だった。
なのに……
「なのに、いつからか澪は、ボクと口を利かなくなった。いつもどこか遠くを見ている、自分にしか見えない世界。それをもうボクには教えてくれなくなった」
澪の父が彼女を偏愛しているのは知っていた。
母親の姿は、ずいぶん前から見えなくなっていた。
自分たちが中学生になったあたりから、周囲の大人たちは、澪と付き合うのをやめるように言いだした。
自分の親族たちの言葉は絶対だった。
逆らえば、この土地にはいられなくなる。
旧い神々――周防家の血は、そのまま自分の生き死にを左右する法則そのもの。
土地を汚す不浄なものは排除するのがならわしだ。
何百年も続いてきた因習。
正確な名前すら忘れられた悠久の
「だから……だから澪を守れるのはボクしかいなかった。ボクだけが澪をわかってて、澪を助けることができた。なのになんで、なのになんで、なのになんでなのになんでなのになんで……」
「なんで澪はあなたに助けを求めなかったのか、そう言いたいんでしょ?」
ユキの言葉で、息が止める。
そう、そうだ、あのとき少しでもボクを見てくれれば……
キミを助けられるのは、ボクしかいなかった。
なのになんで……なのになんで……なのになんで……
「それで、澪とよく似ている私に目をつけて、同じように花を手向けた。でもあなたは本当はもう気が付いていた、そんなことしたって、私はあなたに救いを求めたりしない。好きになんてならない。それに……」
「そ、れに……?」
「あなたは単に楽しかったんでしょ? 自分を裏切った澪――その澪に似ている私が、いたぶられている姿を見るのが。だからあなたも今回ははっきりと主導者として、私を追い詰めた」
「ち、ちが……」
「でもやっぱり……」
ユキがつめたく嗤う。
「やっぱり、あなたに助けを求めたりなんかしない。絶対に、あなたを好きになんてならないわ」
息が詰まり、思考が止まる。
そんな……それじゃボクのやってきたことは……
ボクはまた一人に……?
「さあ、そろそろいいでしょ? 終わらない夕焼けはないんだから」
ユキの声にかぶさって、警報器のけたたましい音が危機の底で鳴りだす――
「私ももう行くよ。あなたの望み通りにね」
ユキがふらりと一歩踏み出す。
何もない空間へ。
夕焼け空の方へ。
ほどけるように。
踊るように。
優雅に。
「さよなら、杏子」
あの日と同じ赤の中に踏み出した。
不死の少女にカンストダメージと包帯を 上野あおい @Shiranui_Yuki
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