エピローグ:色の無い数字

「わたしは多分、すぐに忘れられると思います」

 どれ程の間、歩き続けた事でしょう。わたしたちは霧を抜け、遂にわたしの中心と思わしき場所へと辿り着きました。

 チャンネル0は、チャンネル2とよく似た景色をしていました。なだらかな起伏の付いた緑の平原、あちらこちらに転がる黒い岩、そして流れる川も。ただし、その全てがモノクロで構成されていました。

「かつての計画への出資者が100人居たとして、一体その内の何人が今も生きているのですか?」

 周りに環境音は何もなく、わたしたちが話す声と、草と服が擦れ合って立てる僅かな音が鳴るのみでした。

「彼を除けば、いません」

「それならば、わたしにはかつての狂信者の遺産の流れ以外に信仰はありません」

「私はどうでしょうか、不滅の信奉者です」

 ルーシーは、球体関節の露出する手を伸ばして、小さな声で言いました。

「ルーシーは殆どわたしですから、信者とは呼べません。尤も、この理屈で言えばあなたと居る限り私自身も不滅という事になってしまいますね」

 伸ばされたルーシーの手を握って、わたしは言いました。理論上不滅であっても、死への不安感は拭えませんでしたが、手を繋ぐ事で、わたしたちはより同一の存在へと近付いた気になれました。

 その時でした。歩き続けていた正面の方から、川のせせらぎの音が聞こえてきたのは。わたしたちが新鮮な音に引き寄せられるように歩みを急ぐと、唐突にそれが目に入ってきました。

 それは、大きな白い川でした。差し渡し10メートルはあるでしょうか。緩やかに弧を描き流れる水面に殆ど波は無く緩やかでしたが、何より目を引くのはその水の白さでした。モノクロームの世界に置かれても尚、存在感を放つ眩しい程の完全な白。気を抜くと引き込まれそうな強い引力に、身体中の細胞が、目的地はここだと叫んでいました。

「わたし、わたしは到着したと思います。わたしはここで産まれたんですね」

「ええ、そうです」

「この先で、わたしの母親が待っている。そんな気がするんです」

 対岸へじっと目を凝らして見ていると、低い丘と丘の間、その隙間から、こちら側の白い川とは対照的に、真っ黒い影のような川を見付ける事が出来ました。それが視界に入った瞬間、わたしの全身を雷が貫いたかのような痺れが通り抜けました。

 あそこへ行かなければならない。

「ルーシー、対岸へ渡らなければなりません」

 興奮する私に対して、ルーシーは恐ろしい程平静を保っていました。わたしが手を引っ張るのにも構わず、ルーシーは穿たれた杭のようにその場に留まって言いました。

「私はすぐには向こう側へは行けません。リリー、あなたは向こう側へは一人で渡らなければいけません。一度も振り返らずに川を渡り切り、私の名前を呼んで下さい。そうなれば、私も向こう側へ渡る事が出来るようになるでしょう」

「ルーシー、オルフェウスの真似事はやめて。一緒に行きましょう」

「いいえリリー。これ以外にこの川を渡る方法はありません。川を渡るのはあなた自身なのです」

 わたしは長い間ルーシーの手を握って粘っていましたが、やがて諦めました。認めたくはありませんでしたが、頭のどこかでは、ルーシーのいう事が正しいと直感的に理解していたからです。二人で渡ろうとすれば、決して無事では済まないと。

「分かりました。その代わり、渡っている途中でも呼んだら絶対に返事をすると約束してください」

「約束しましょう」

 わたしはルーシーの手を離して、ゆっくりと白い水面に向かってゆきます。ついつい振り返りそうになる誘惑にぐっと堪えながら、ようやく振り返ってしまったオルフェウスの行動を理解する事が出来ました。

「ルーシー?」

「ええ、此処に居ますよ」

 存在しないつま先が水に触れると、そこから全身に痺れる冷たさが伝わってきます。命の熱を奪う冷たさです。直感が早く水から上がれと喚きますが、わたしは無視して歩みを進めます。

「ルーシー、すごく冷たいです」

「大丈夫です、リリーなら出来ると信じています」

 キトンの裾が水に浸かった所から、こびり付いて乾いた灰色の赤い血が流れ出しては最初から存在しなかったかのように綺麗さっぱり消えているのが分かります。

「ルーシー?」

「大丈夫です、此処に居ますよ」

 水は膝の高さまで来て、存在しない脚の無い空間に当たっては、飛沫を跳ねさせています。

「ルーシー、少し、怖い」

「リリー、もうすぐ半分です!頑張って下さい」

 水は腰より上にあります。流れは怒りを露わに轟々と唸りを上げ始め、わたしは圧迫感に息が詰まりそうです。

「ルーシー!ルーシー?」

「91910,693,4787379」

 水は深い所では肩に届きそうです。流れは速く、わたしは川底の突き出た岩に足を取られないように気を付けなければなりません。

「ルーシー、共感覚の共有が上手くいっていないようです、調整してください」

「百合の花、バナナ味プラスチックの森、道徳的な琥珀と蝶々」

 みずはわたしをはなさない。わたしはひとりで、とてもこわい。

「ルーシー、はやく元に戻って、おねがい」

「それは何?キスキスキス。それは何?キスキスキス。それは何?キスキスキス」

「ルーシーやめて」

「448656,私はそれが好き、あなたの18202にお詫び申し上げます」

「480510,おねがい91910の手を握って」

 91910は振り返ってしまいました。あるいは、860に02,56,0。

 91910は母なる神々の抱擁を受け入れます。

 さようなら、色の無い数字で構成された世界。

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色の無い天使、数字の輪 夢葉 禱(ゆめは いのり) @Yumeha_inori

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