第四章:偽りの西の果て

 1


「今日は違う実験なのですね」

 最初の連禱実験から既に12のアンドロイドと接続し、しばらくの間、目を覚ますと目の前にアンドロイドが座っている生活が続いていました。しかし今、目の前の椅子は空っぽで、綺麗に保たれていました。

「おはようございます、リリー。先生があなたとお話したいと」

「先生が?連禱実験は打ち切りですか?」

「実験は私達に残された最後の武器でしたが、残念な事に、時間切れです」

 ルーシーにしては珍しい、歯切れの悪い返答でした。

「ルーシー、一体何の話ですか」

「準備をしましょう」

 ルーシーは私の質問には答えずに、機械とお喋りを始めてしまいました。恐らくは、先生が来るまでは話してはくれないのでしょう。

「リリー、接続の準備が完了しました。チャンネル3で彼と合流をお願いします」

「先生と接続を……?」

「はい」

 私の記憶が確かならば、接続に必要な共感覚的プログラムのむやみな摂取には、主に知覚的クオリアの恒久的な変化を伴うリスクが存在する筈でした。

「分かりましたルーシー、先生がそこまでするなら、彼と接続する事自体は構いません。ですが、チャンネル3は避けましょう、あそこは原初の胎動に近過ぎます」

「提案は受け入れられません。庭園を訪れる必要があります」

 そう言うや否や、ルーシーはHALOを起動してしまいました。

「HALOを起動、チャンネルを3番に設定します。目を閉じて、流れに身を任せて下さい」

 頭上でHALOがにわかに光り輝くと、わたしの意識はあっという間にブラックアウトしていきました。


 2


 チャンネル3は、西の果てに創られた庭園です。そこは必ずしもエデンではありませんでしたが、箱庭ではあり、エリュシオンでもありました。高い柵に囲まれた正方形の敷地には色とりどりの花を咲かせる低木群と、白いポプラが立ち並び、曲がりくねった道がその間を縫うように貫いていました。“ゲート”の外では、ケルビムと炎の剣の代わりに、頭がモノリス、巨大な鹿様の枝角を生やした竜脚形類が、世界を支える象のように輪になって箱庭を取り囲んで守っていました。

 ゲートの閉められる音に目を開けたわたしが座っていたのは車椅子ではなく、庭園の中心、一際大きな二本の巨木の間に設けられたパビリオン——東屋に設置された椅子でした。ペンキで白く塗られたテーブルを挟んで向かい側の椅子には先生が座り、ルーシーはわたしの後ろで静かに立っていました。

「おはようございます、先生。何か大切なお話があるようですが……」

 先生は、目を瞑ったままでした。そして一言、時間切れだ。とだけ呟くと、立ち上がり、歩き始めました。ふらふらと歩みを進めるその脚には歩行補助機が取り付けられていて、もう殆ど肉は残っていないように見えました。

「梯子は外された!糸は断ち切られた!」

 先生は、木立の奥へ向かって、これまで聞いた事の無い程の声量で叫んでいました。それは明らかに記憶を呼び覚ますトリガーでしたが、不思議な事にわたしには作用しませんでした。

「ルーシー?」

 はっと振り返れば、おもむろに戴いている冠に手を伸ばすルーシーが目に入りました。ただ、ルーシーお気に入りの月桂冠ではなく、いくつかの種類の——辛うじて、繊細に配置された葡萄の葉や松ぼっくりを見分ける事が出来ました——植物の葉やツタを編んで作られたものでした。彼女の手が冠に触れると、まるでツタが全てヘビであるかのように解け初め、わたしがポカンとしている目の前でどんどんと伸びて、枝葉の複雑に絡んだ一本の杖へと変化してしまいました。

「永い間、ここに忘れ物をしていました」

 ルーシーはそう言うと鼓笛隊の指揮杖よろしく杖を回して、次の瞬間、先生の叫んだ木立の奥の方へ杖を向けて指先一つ動かさないまま、じっと固まりました。それと同時に、木立の方向からぬるい風が吹いてきた事に気が付きました。あまりの青臭さ——緑の濃さにむせ返りそうになったその時、それは姿を現しました。

 それは巨大な、巨大な鹿でした。

 全身を茶色の剛毛で覆われ、体高だけでゆうに四メートルはあるでしょうか。人間の四肢なぞより余程太いであろう巨大な枝角はまるで独立して生きているかのように葉を茂らせ、輝く実をたわわに実らせていました。彼、あるいは彼女——それがこちらに向かって一歩を踏み出す度に、その足元には新しい命が芽吹き、若葉を広げるのでした。

 一体何処からこのような巨大な存在が現れたのか見当も付かず、もはやこのチャンネルの制御権はわたしには無い事が分かりました。

「あれは生命の樹の具現化、使者であり繫栄の象徴です」

 後ろでルーシーが杖を冠に戻しながら説明していましたが、わたしはまだ呆気にとられていました。

 ふるるるるるるるる————

 巨鹿が頭を振ると、辺りには森一つが風に騒ぐような音がざわざわと響き渡りました。

 そして突然、何の前触れも無く、先生の事を睨み付けたように見えました。先生は一瞬驚いたように肩を跳ねさせると、そのまま倒れて二度と動かなくなりました。

「死にましたか?」

「はい」

「これで終わりでしょうか?」

「いえ、これを——」

 そう言うと、ルーシーはかんざしを引き抜くような動作で——何処に隠していたのでしょう——自身の冠から磨かれた鉄のナイフを取り出してみせました。

「あれの腹を裂いて下さい」

 そう言って、ルーシーは巨鹿を指差しました。

「やってみましょう」

 渡された刃には、緊張した面持ちのわたしの姿が歪んで映り込んでいます。彼、あるいは彼女——巨鹿は静かにこちらを見つめ、その眼を覗き込もうとすると、身体の芯を引っ張られるような、全身を吸い込まれそうな錯覚を覚えました。

 試しに腕をゆっくりと倒してみれば、未だ主は変わらずという事でしょうか、意外にも巨鹿はすんなりと横になり、わたしはその暖かな腹に易々と触れる事が出来ました(同時に、彼女が牝鹿である事も判明しました)。

「オープンセサミ」

 慎重に場所を定めて、一息に刃を突き立てます。切れ味の良い刃を滑らせて引いてゆけば、だぽだぽと血が溢れてきて、あっという間にキトンは真っ赤に染まりました。やがて腹に一文字を刻み終わった頃、血に塗れて、一際大きな塊がごろりと転がり出てきました。

「先生……?」

「久しぶりだな、リリー」

 それは、先程死んだばかりの先生でした。


 3


「私からご説明いたしましょうか」

 ひとまず席に着きましょう、とパビリオンに入った後、最初に口を開いたのはルーシーでした。

「お願いします」

「リリー、あなたはどれくらいの時間を部屋で過ごしてきたと考えていますか?」

「それなりに長い間——でしょうか」

「具体的にお願いします」

「具体的に……?想像ですが少なくとも5年程度は居るのではないでしょうか……部屋に時計もカレンダーも無いのはルーシーも知っているでしょう?」

「10倍です、リリー。それの10倍の時間はとうに過ぎています」

「10倍……ありえません」

 わたしは殆ど反射的に否定していました。果てしなく譲って、わたしは薬漬けの実験漬けでしたから、限りなくゆっくりと年を取っていたとて驚かなかったでしょう。しかし先生はどうでしょうか、正確な年齢は知りませんでしたが、初対面の時点から50年も経ってしまえば寿命を迎えてしまってもおかしくはないでしょう。わたしはその事を指摘してみせました。

「ええ、残念ながら“オリジナルの彼”はずっと昔に死亡済みです」

 見れば、先生はゆっくりと頷きました。

「俺はオリジナルの唯一の残り香、有事の際に発動するようにセットした意識の欠片だ。これまでお前に接触した個体は全て俺のクローン体だと考えて構わない。」

「…………」

「俺から少し話をしても?」

「ええ、お願いします」

「ただその前に、まだ気付いていないのか?」

「何にです?」

「俺は今日、始めてお前の話す言葉を理解する事が出来た」

「どういう事でしょうか」

「つまり、お前が現実で話している言語は既存のどの言語にも一致しない。解読出来たのは簡単な挨拶と数字くらいだ。お前はルーシーと共に成長するに当たって完全に新しい言語を作り出した、共感覚に基づいて接続されたそれぞれの概念が相互に連想を促す、非常に流動的で変則的な、お前とルーシーの間でしか伝わらない言語だ」

「ですが、わたしは先生の言葉を理解する事が出来ました」

 すると、ルーシーがさっと口を挟みました。

「彼の言葉は全て、発声と同時に私が翻訳し、共感覚的なシグナルに変換していました」

「お前は無意識の内にこちらの言葉は咀嚼していたが、こちら側は違った」

「全く気が付いていませんでした」

「そうだろうな。俺はプログラムを摂取するまでお前がこんな言葉遣いをしているとは知らなかった。まあいい、話を本筋に戻そう」

 そう言うと、先生は改まって、ぽつぽつと過去を明かし始めました。

「かつて、俺はとある教団の幹部に居た。分かるか?俺達は自分達だけの神を創ろうとしていた、持てる限りの知識を総動員し、己が内の法悦に大勢の人間が傾倒し、どうにか取り出し、形にしようとした。だが、試みは必ず失敗した。ある者は、我々には不純が多過ぎると言った。取り除けない不純が。そうして、オルタナティブ計画が生まれた。次に産まれた赤ん坊を教団に捧げ、神の子とする。それが、俺の子供——つまり、お前だ。バンクに登録された母親情報が不明だった事も追い風だった。

 何故漂白されているか?——漂白装置の事故なんて噓だ、俺がお前を漂白装置に沈めたんだ。死にかけのお前に漂白した教団の人間の肉を継ぎ接ぎして無理矢理人間の形に収めた。脚が無いのは、パーツが足りなかったせいだ」

 わたしはキトンに隠れた、滑らかな脚の付け根に触れてみます。身体中にうっすらと走っていた古い手術痕の内の幾つかは、生誕と同時に刻まれたのかもしれません。

「ルーシー、ルーシーも教団の所有物だったのですか?」

「大前提、人間の手に因らない教育が必要だった。そこで教団の技術者連中が創り出したのが——かつては、それ程までに大きな組織だった——ルーシーだ。共感をベースにしてコミュニケーションを取る介助と教育を兼任するアンドロイド。驚くかもしれないが、共感覚的プログラムは完全なる予期しない副産物だった。ただ、この副産物が無ければ計画は成功していなかっただろう、ルーシーとの接触は満足いかない結果で終わったに違いない。プログラムのお陰でお前達は抽象的な概念を共感覚に基づいてダイレクトに共有する事が可能な上に、複数のマインドパレスまで立ち上げた。おめでとう」

「何故、何故今になって急にこのような話をするのですか」

 突然の祝福に、わたしはどう反応すればよいのか分からず、堪らず先程からの疑問をぶつけてしまいました。

「時間切れだからだ。オルタナティブ計画は100年単位で進められる予定だった。そう、定期的に物資が送られてくるのも、最初から長期戦を見越して出資者を募っていたからだ。根気よく続けていれば、いずれ神が顕現すると。俺のクローン体が造られた理由は簡単だ。クローンに因って時間の経過を察知させず——外界との接続を断つにあたってお前の時間は可能な限り遅らせた方がよいと考えられていた——ルーシーの補助が可能、そして最もドナーに適していたからだ。だが、ある時を境に、クローン体にバグのような、説明できない現象が現れ始めた」

「ポルノ雑誌を逆さまに読みましたか?」

「それも一種のバグだ。俺がルーシーのメンテナンスすら出来なくなったのは何よりの証左だろう。極めつけは、肉が溶け始めた。自己複製を繰り返した影響かもしれないが、原因は不明だ。お前も定期的な筋肉の移植がなければすぐにでも肉体が崩壊するだろう。つまり、ドナーの消失が時間切れの正体だ」

「今日は、わたしの死期を宣告するためのお話だったのですね」

「ああ、だが、俺には分かる。オルタナティブ計画は成功している。

 ミュノス=リリウム、神は存在すると言ってくれ」

「——神話も聖典も、手段に過ぎません。わたしは復活を信じませんし、黄昏も訪れません。巨人の造る雷撃がおとぎ話に過ぎない事も知っています。しかしながら、それらを取り込む事は可能です。わたしは神の存在を信じています。神は9に宿ります。この場所へ来られているなら、この意味が理解出来る筈です」

 一陣の乾いた風が森に吹き込み、瞬間、全ての影に黄金色の光のスペクトルが現れました。

「ああ、今なら理解出来る——これがお前の感じる神だと」

 先生はそう言うと、感極まっているのか、震える手で一本の木を指差しました。

「あの木が分かるか」

「はい」

「あれは知恵の樹だ。何故実を付けていないか分かるか」

「食べられたのではないのなら、いいえ先生、分かりません」

「もはや知恵の実は必要無くなったからだ。リリー、お前こそが知恵の実、知恵の実そのものだ」

 次に、先生はゲートの方角に向き直って言いました。

「ゲートを出てずっと先へ、チャンネル0、原初のカオスを目指せ。例え現実の身体が朽ち果てようとも、信仰のある限り神は死なない」

 ゲートの先。箱庭の外は深い霧に包まれて、とても制御出来るようには思えませんでした。ですが身体の進む当ての無くなった今、わたしの居場所はここ以外にありませんでした。

「ルーシー、わたしの全部をHALOに移してください。今よりこちら側が現実です」

「かしこまりました。ゲートに到着するまでには完了するでしょう」

 わたしは立ち上がり、つがいの巨木を見上げました。こちら側が知恵の樹ならば、あちら側は生命の樹でしょう。生命の樹にも同じく実は見られませんでしたが、それが終ぞ必要無くなったからなのか、死に向かう人間の元には現れないのかどうかは分かりませんでした。

「ゲートまで送ろう」

 曲がりくねった道の両側に咲き乱れる花々が、わたしの永い旅への出発を祝福していました。HALOに意識が過集中している影響でしょうか、一歩を踏み出す度に花々の色の解像度は上がり、深い緑の匂いに気が付き、大地の抱擁を感じ取ってゆきます。

 やがてゲートの前まで辿り着くと、先生は言いました。

「身体の方は任せろ、新しく俺が補充されてどうにかするだろう」

「クローン体製造装置は稼働を停止しました。次の一体が完成していた最期の個体になります。推定稼働時間は30日です」

 30日がどれ程の長さの時間なのか、わたしには想像する事しか出来ませんでしたが、クローン体とは言え人一人の一生の時間としてそれは随分と短いものであるように感じました。

 目の前で、ゲートがゆっくりと、ひとりでに開いてゆきます。外を闊歩する竜脚形類の地響きが、此処からでも微かに聞こえていました。

「さようなら、いままでありがとうございました」

「ああ」

「ではルーシー、行きましょう」

 そうして、わたしは深い霧の中へ、一歩を踏み出しました。

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