第43話 リュヴェルトワールの幻術士
どれほどの間眠っていただろう。リュイが目を覚ました時にはもうすっかり日が傾き始めていた。夢の中と現実では流れる時間が違うのかも知れない。
「お、終わったのか?」
エルクラッドが恐る恐ると言った調子で体を起こしたリュイに問う。
「多分ね。予想外のことがいくつか起こったけど
リュイはエルクラッドを安心させるようににこりと笑みを浮かべる。
「ううん……」
魔法陣の中央に横たわっていたアンゼリカが小さく呻いた。そしてゆっくりと目を開く。
「ああ、天井だわ。わたしったら床に寝転んでるのね」
そう言いながら、気だるげに体を起こす。
「お嬢様!」
そんなアンゼリカに駆け寄って抱きしめたのは長年彼女を見守って来た世話係のリュセットだ。
「心配をかけてごめんなさいね、リュセット。ああ、八歳の頃はあなただって子供じゃないだなんて思っていたけれど、もうすっかり大人の女性だわ。でもあなたの顔が見られて、とても嬉しい」
「もったいないお言葉です……!」
抱き合う主従を見て、姉のクローディアが涙ぐんでいる。
「よかった……目が治ったのね」
「はいお姉さま。リュイ様のお陰ですっかりよくなりました」
アンゼリカはしっかりとそう答える。そしてリュイの方を見て――ほんのりと頬を赤らめた。
「あらあら――うふふ」
その様子を見て母のマーシェリーが何やら意味深な笑みを浮かべている。
リュイにはなんとなくその意味がわかったが――ひとまず今回は気づかないふりをした。
「アンゼリカ嬢――」
「な、なにかしら?」
リュイが歩み寄って声をかけると、アンゼリカはあからさまに赤面する。
「あなたの目が治ったらお見せしたいものがあったんです」
「見せたいもの?」
リュイの言葉にアンゼリカは首を傾げる。
「さあ、一緒に外に参りましょう」
リュイが手を差し出す。アンゼリカは少し躊躇いながらもその手を取った。
リュイとアンゼリカ、そしてトワール伯爵一家は魔術師ギルド前の路地に出る。
この季節ならあと一刻もすれば日差しが色づきはじめるであろう。そう言えば昼食を取っていない。少しばかりの空腹感を覚えつつ、リュイは傾き始めた太陽を背に、空を指さした。
「これから、僕のとっておきの魔術を披露いたします。トワール伯爵家のお歴々においては、しかとご覧くださいませ」
「ぷう!」
リュイの前に並んだ伯爵家の面々を前にリュイは気取って一礼する。空中にふわふわと浮かんだパッフが、それを真似るようにくるりと一回転する。
リュイは空に向かってワンドを掲げると呪文を唱えた。
「ルビー、トパーズ、トルマリン。ジェイド、サファイア、アメジスト。空に漂う
リュイがワンドを振ると、光が空に向かって散っていく。――何も起こらない。ように見えた。
しかし――次の瞬間誰もが目を瞠った。
「虹――」
アンゼリカが呆然と呟く。
今日この日、雨など降った様子はなかった。
しかし晴れ渡る空には、はっきりと虹が弧を描いている。
アンゼリカの頬を、涙が伝う――。
「アンゼリカ嬢――これからあなたはもっと美しいものを目にすることができます」
リュイは虹を背に、柔らかく微笑む。
「あなたの幸福を心から祈ります。――この虹はこれからのあなたへの
アンゼリカも、エルクラッドも――道行く人の誰もが何も言わなかった。言えなかった。小さな魔術師が生み出した、何の意味もないはずの魔法に見惚れていた。
***
エルフの少女、ムーンボウもリュヴェルトワール郊外の丘の上で、同じ光景を目にしていた。
翡翠のペンダントを握りしめ、彼女はそっと目を伏せる。
「ジェイド……」
ムーンボウは、亡き幼馴染のことを思う。
自分が選択を誤っていなければ彼はきっと今も自分の隣で笑っていただろう。
彼の行いは、間違いなく悪であったが、彼自身は悪人ではなかった。少なくともムーンボウはそう信じている。
人は、時に歩む道を間違える。けれども人生は長い。罪を背負って、もう一度歩き出すことだって、きっと不可能ではない。
ムーンボウは故郷に別れを告げ、広い世界に生きることを望んだ。その道は険しいものになるだろう。それは例えば、あの虹の橋の根本を見つけ出すような、宛のない旅になる。あるいは、志半ばで倒れるかも知れない。
それでもムーンボウは諦めないだろう。今日この日見た、この光景を忘れない限り。
***
『ネムの店』の前で掃除をしていたマイアもまた、唐突に現れた虹を見ていた。
「はあ、あんな派手なことやって。教会に睨まれたらどうするつもりなんだか」
マイアは見た目に似合わず面の皮を厚い店子のことを思いながら、呆れたようにため息を吐き――しかしその口元には笑みが浮かんでいた。
「でも、綺麗なものに罪はないものね」
マイアはそう言って肩を竦めた。マイアはいずれ結婚――婿を取ることになるだろう。そして夫がこの店の柱になるのだ。マイアは商売が好きだ。女だからという理由で男に道を譲れなどと言う価値観に、納得したことなど一度もない。
けれども今日ばかりは、将来についてのそんな鬱屈も忘れようと思った。
虹を見せる。ただそれだけの魔法。そこには何の意味もないけれど、美しいものを見て心が浮き立つ感覚ぐらい、マイアだって持ち合わせているのだ。
***
「ししょー! 雨も降ってないのに虹が出てるにゃ!」
――弟子を取ったつもりは、ウィードにはなかったのだが。
川沿いで釣りをしているレッキ・レックが、空を指さして大きな声でウィードに呼びかける。
まったく、落ち着きのない獣人だ。そんなに騒いだら魚が逃げるだろうに。
やれやれと体を起こして青空を見ると、そこには確かに大きな虹がかかっていた。
きっとあの魔術師の仕業だろう。きっとアンゼリカ嬢の新たな門出に対する
合理一辺倒な魔術師にしては、粋なことをするものだとウィードは思った。
ウィードはもう一度、草の上に寝転んだ。この街に来てずっと怠惰な生活を送っていたが、久々に騒がしい数日間だった。ついでにこの猫獣人にすっかり懐かれてしまった……当分は騒がしい日が続くだろう。
……それはそれで悪くない。ウィードは小さく微笑むと、静かに目を閉じた。
***
「くぅ、虹をかけるなんて、なんてロマンティックな演出を――仕方ありません、今回ばかりは負けを認めましょう。リュイ・アールマー……!」
リュヴェルトワールの聖堂前で、シスター・ペトラもその光景を目にしていた。
悔し気にハンカチを噛み――もしゃもしゃと飲み込んでいく。
「ごくんっ……しかし次はありません! いずれ第二第三のシスター・ペトラが……」
「プラナリアか何かですかあなたは」
後ろから呆れた調子で声をかけたのは彼女の上司であるバラージュ司祭だ。
「勝ち負けなど問題ではありません。一人の少女が救われた――それで良いではありませんか。今のエルサス聖王国は信仰の多様性を認めています。シスター・ペトラ。あなたはもっと寛容たるべきです。あと、ハンカチは食べ物ではありません」
「むぐぅ……しかしですね」
静かに諭されて、シスター・ペトラは反駁を試みる。しかしバラージュ司祭がバールのようなものを素振りしているのを見て、口を閉じた。シスター・ペトラは大体の凶器に耐えられるが、バールのようなものだけには弱いのだ。理由は本人にもわからない。
「しかし虹とは――変わっていくのでしょうね。この小さな街も」
バールのようなものでシスター・ペトラを牽制しつつ、バラージュ司祭を感慨深げにつぶやいた。
***
その日。
かかるはずのない幻の虹を、トワール伯爵領に住む誰もが目撃したという。
雨のない空にかかる虹。
そこに何を見出すのかは、それを見た人の心持次第であろう。
だがその光景を見た人々の多くはこう語るのだ。
奇跡の虹を見た、と。
それがリュヴェルトワールにやってきた若き魔術師の仕業であることが知れ渡るのに、そう長い時間はかからなかった。
噂は千里をかけ、しばしの時を置いて“天啓の”リュイ・アールマーはこのようにも呼ばれるようになる。
リュヴェルトワールの幻術士、と。
リュヴェルトワールの幻術士 先山芝太郎 @sakiyama_shibataro
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