陶幻酒房
安良巻祐介
わたしの家から数分とない裏路地に店を構えた小さな酒房は、今どき酒の燗をするのが大層うまく、並べられた樽や壜の値段も手ごろなので、近隣の住民のみならず、色々な常連に愛好され、長く続いている。
冬になると、かの
老兼好はいつも、小煩いテレビジョンからは一番遠い、カウンターの端の席に通され、主人自ら燗をした般若湯を、年のわりに柔らかい両手で包むようにして、朝までちびりちびり、飲んでいる。
わたしも幾度か、幾つかの肴を献じて、つれづれなるままに翁の記している日々の散文についてを伺ったことがあり、いずれ「徒然草」とまとめられる日を、のんびりと楽しみにしているところだ。
この間、酒房の斜め向かいの家に都会から遊びに来ていた小さな女の子が、スケッチ・ブックを手に、端の席の兼好法師へと、何事か一生懸命、話しかけていた。
よく耳を傾けてみると、「自分の作っている妖怪図鑑に(あなたを)描いてもいいか」と、老法師に尋ねているのである。
私と主人とは顔を見合わせて思わず笑ってしまったが、兼好は眠っているような瞑目顔のまま、ただ一言、よろしい、と答えたらしく、あとはお猪口を片手に、またいつものようにちびりちびり、やり始めた。
パステルを用いて、それから深夜近くまで熱心にスケッチを続けた女の子は、最後にありがとうございましたと元気な挨拶をして、眠そうな目をしている彼女の祖母に手を引かれ、酒房を出ていった。
彼女らが帰る前に、スケッチブックを見せてもらったところ、鎌倉から南北朝を生きた兼好法師の姿は、画用紙の上でそれなりに妖怪らしく、酒房のカウンターに肘をつき、長く舌など出して、酒を舐めているのであった。
「彼女が、学校の教科書で御坊に再会するのはいつになるかね」
「なあに、まだまだ当分、先の話だ。それに、授業じゃあ、百七十五段の酒の話を読むかも、わからない。それまではきっと…」
言葉の途中で見事な大あくびをし、瞼をぱちぱちさせている主人に、「さくら」の一杯を追加で注文すると、視界の端に映る兼好法師の、古い衣の渋茶色をぼんやりと滲ませながら、私もまたうつらうつらと、静かに舟をこぎ出した。……
陶幻酒房 安良巻祐介 @aramaki88
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