第46話

「おいっ」

 耳元で大音声だいおんじょうを張られ、ユッタはびっくりして飛び上がった。

「うっわ」

「あなたもよく気絶する人間よね、本当に」

 呆れ返ってしまった、という顔のリンに、ユッタは見下ろされていた。

 見回せば、動作を停止してはや朽ち果てたような祈祷機神が、夕映えを背にして膝をついていた。真白い凍境の広場周辺はすでに跡形もなく、焼け野原か雪原のようにむなしい風情で、ユッタの周りにその景色を広げている。ふと手元を見やると、自分の胸にはコウが抱かれていた。彼女はうーむ、と気だるく唸ると、ぱちと目を開いた。「どひゃーっ」密着していることに気づくと、同時にふたりしてぱっと飛び離れた。今の声は自分か、と二度驚いた。

「なにを今さら初々うぶうぶしいことをやってるわけ。夫婦漫才だとしたら、あたしに喧嘩を売っているということを分かってのことでしょうね」

 細い眉をつりあげ、リンは不機嫌をあらわにしていた。天使の知性を失ったユッタの視界には、もはや幻像エイコーン天妖フェアリーも映らなかったが、大勢の神官たちはなぜか目に飛び込んできた。

「ああ、ようやっとお起きになられて。ご異常はございませんか、天使様」

 萵苣ちさを先頭にわらわらと、心配そうな顔をした神官たちがユッタに取りすがってきた。彼の無事を確認すると、慈愛に満ちた微笑を取り戻し、そのことを互いに喜び合いはじめる。わあきゃあとはしゃいでいるのだが、元凶はどこの誰なのかと呆然となるユッタである。と、突然肩をばしばし叩かれはじめた。

「ようやく起きたか兄弟。まったく、俺の可愛い妹を差し置いて知らん子を抱いて眠りこけやがって、ふざけたやつだよ。浮気性は後が怖いことは、俺を見て学んだはずじゃないのか」

「ふたりとも意識を取り戻せて、よかったの」

 ミモザを肩車したジノヴィオスが、神官の群れをかきわけて傍に来ていた。その横には、複雑な顔をしてミモザの手を取っている青年のロッカもいた。兄ふたりに妹ひとりが仲睦まじやかに、ということなら微笑ましいが、何かしらの折り合いをつけようと葛藤している青年の内心は、痛いほど察せられるユッタである。目顔で同情を伝えると、青年は苦くも笑って返してくれた。頼りなげではあるが、それも彼自身の問題ではあった。

 傍らで目を白黒させていたコウが、ユッタの袖を掴んで、ようやっと口を開いた。

「こいつら誰ですか」

 気だるげな三白眼で、ユッタの友人たちを不審げに睥睨へいげいしている。

「いけしゃあしゃあと失礼を言うわね。それはこっちのせりふでもあることは分かっていて?」

 神官の波に押し返されながらも、リンはコウと対面した。

「芝居がかった物言いが気に障るのですが、彼女はいったいあなたの何なのです」

「どこの誰が三文役者よ。そっちこそ、ユッタにとっての何を気取っているつもり」

 今にも噛みつきかねないリンを、手近な神官を盾にしてあしらいながら、コウはユッタを睨み上げた。なんと言ったものやら、と頭をかくユッタの横から、萵苣ちさが口を挟んだ。

「おふたりは模像における婚姻を取り交わしたのですよ。早速、明日にでもお祝いをしないと」

「は」とユッタの腕をつねりはじめるコウが厄介である。萵苣はもう一言、

「ですが、信仰における真実の婚姻は、天使様と私たち神官全員の間に誓われたことです。ですから、まあ、所詮はそういう形式上のことですよ」

 胸を張って言い張る萵苣に、コウのみならずリンも目を剥いた。

「あなた、この期に及んで天使だの模像だの、まったく懲りてないじゃない。ふざけているの」

「からだだけの嘘っぱちな恋愛はお任せすると言っているのですから、俗人のあなたにはそれで十分でしょう。私たちの一途で清い霊的恋愛には一段劣ると言っているだけです」

「ユッタ、これを殴るのは当然として早く大陸に行きましょう。付き合っていられないっ」

「えっ」ユッタは口ごもった。「そういえばこれからどうしよう」

 依然としてユッタの腕をつねりあげているコウがつぶやいた。

「……べつに、私のことはお気にせず、大陸でもどこへでも行ってください。私はまあ、都市まちに帰って寝ますから」

「ああ、それがいい。小生もそれに乗った。船ができるまでリンたちもしばらくこっちに」

 リンもコウも怖い顔をしていたが、今すぐ答えを出せというのも酷である。そのとき、遠くからユッタを呼ぶ声がした。もはや更地同然の凍境の敷居をまたいで、がたごとと音を立てながら馬車がこちらに近づきつつあった。大男の騎手の顔に、馴染みがあった。

「騒ぎを聞きつけて見に来れば、えらく久しぶりだな。元気にしてたか」

 蝶波の修道院で一緒のヤッセであった。その肩越しに、麒麟菜きりんさいも顔を覗かせている。

「おいおい、どうなってんだいこりゃ。これからこの国はどうなっちまうのかね」

 神官たちの足元をくぐり抜け、ユッタはせかせかと馬車に乗り込んだ。これ幸いと、逃げおおせるつもりである。「急いで出してくれ」と声を上げるユッタの腕に、コウがしがみついてきていた。神官たちは騒いだが、萵苣ちさは快く大声でユッタを送り出した。

「この国のあり方は、みなとともに一から考えてゆきます。私たちが道を見誤らぬよう、どこにいても見守っていてくださいね。ご達者で、天使様」

 後腐れなく、動き出す馬車に身を委ねられるユッタであった。そのとき、馬車の荷台にへりからよじ登ってくる人影があった。ふう、と息を吐いてリンはユッタの横に腰を落ち着けた。

「この国のわからん結婚制度はともかく、あたしの国ではもっと神聖で重要な意味を持っているのだから、少しはしゃんとしなさいよね。そこのところ、わかっているの」

 狭い荷台であらわな太ももをユッタに押しつけて言うリンだが、もう片方で腕をめちゃくちゃ強く締めあげてくるコウが恐ろしく、なかなかユッタはしゃんとできなかった。

「その、一夫一婦制は絶対なのか」

延髄えんずいを蹴られたいの」

 おやおや、と振り向く麒麟菜の厚い背中とユッタに挟まれつつ、コウは言った。

「正妻とかめかけとか言うのでしょう。まったく下品でどうしようもないほとほと呆れた甲斐性なしですが、しょうがないですなあ、僕はおめかけさんでも別に構わないよ」

 不自然に語調の変わったコウは、驚愕して口を押さえていた。

「……もしかして、さくらなのか」

「そうだよー。なんか消えるかと思ったら、取り込まれちゃったみたい。まあふたりもお妾さんがいたんじゃ大変だし、ユッタくんも僕とまたあえて嬉しいでしょおわっぷぷ」

 勝手に動く自分の口を必死で押さえているらしいコウを前に、ユッタとリンはどうなっているのかなあと顔を見合わせるしかなかった。「だははははは」およそコウらしくないコウの笑い声が響いた。「まあいいじゃない次いこう次」コウはげんなりしている。「よくないです」

 ユッタとリンも笑うしかなかった。急に肩の力が抜けて、ものすごく深いため息が漏れた。溜まった疲れが一気に押し寄せ、しばらくは一歩も動けそうになかった。

 天使の知性が消えて、とたんに頭が鈍くなったというか、ついついぼんやりしてしまうユッタであった。信仰とは何か、神とは何か、そういうことを考えだすと、とたんに眠くなってしまう。それは今だけのことかもしれないが、師の行き着いたところもこのように平穏な場所であればいいと、それだけは祈ることができた。

 夕焼けの空は晴れ渡っていたが、まばらに雲がかかり、ひと降りあってもおかしくなかった。曖昧な空模様を残して暮れ落ちてゆく太陽から、じんわりとした茜色の残照が降りそそぎ、三人を優しく浸していた。

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燃ゆる燐、春宵の薨 マルドロールちゃん @Maldoror_chan

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