第45話

 目が覚めたとき、広場に死屍累々と放り出されていた神官たちが、ひとりふたりと起き上がってくるところであった。みな一様に、何が起こったのかわからないという顔をしている。

 頭はぼんやりしたが、何を考えてみても、神官の空っぽの肉体はもう現れることはなかった。

 ふと、頭上から降ってきた塵埃と轟音に見上げれば、巨人がだだっ広い足裏を見せていた。

 祈祷機神が動いている。

「うっわー!」

 ずん、と重い音が響いた。とっさにつむっていた目を開くと、大慌てで四方に散って命からがら逃げおおせた神官たちの様子が見渡せた。ユッタは空を飛んでいた。

「どど、どうなっているのだ」

「お怪我はなかったです? わあ、やっと会えました」

 甘ったるい声のほうを見ると、長い亜麻色の髪を宙に遊ばせた紫色の瞳の少女がいた。見まごうことなく、かつて白昼の水辺に幻覚した、美しき天妖フェアリーであった。懐かしいな、と思ったが、その美貌は奇妙に親しみ深く、いつもユッタが見ていたもののような気もした。

「いつまた会えるかなあって、ずっとずっと待ってたんですよぉ。よかったあ、とうとう見つけ出してもらえたです」

「君は、薬をきめると頭の中に現れる幻みたいなのではなかったのか」

「違いますよう。その、自分で言うのは恥ずかしいですけど、私はあなたの理想の女の子なのです。現実のそれじゃなくて、観念上で構築しえた最初の理想の感覚像イメージなのです」

 今さらながら、視界の中に幻像エイコーンがひとりも見当たらないのに気づいた。突拍子もないことを言う少女に「はあ」と白い目を向けざるをえないユッタだが、なんとなく察しがつくところもあった。

(秘薬は火之本で入手したとジーノは言っていた。わが国の超古代人の技術的結晶である幻像エイコーンも、電子ドラッグと言っていたか。何か関連がないわけではないのであろう……)

「もう、これからは自分を天使様だなんて錯覚しちゃだめですよ。ひとりの人に神様はひとりだけ。自分本来の神様は忘れずに取っておくものです。あのとき、とっても近くの人だとも言ったはずです」

 地上を創造した自然本性的神がさくらだとすれば、自分の観念が最初に思い浮かべた人間本性的神が彼女ということらしい。おそらく、幻像エイコーンの群れは各個人のそれを寄せ集めただけのものだったのだろう。真理を感覚に、感覚を観念に、といったプロセスは結局意味がなく、各個人の偶像神は統合しなかった。ひとりの意識にそれを全部ぶちこんだがため、知性は天使的に向上こそすれ、決定的な異常をきたしてしまったのである。ユッタの感覚は正常を取り戻し、全身で勢いよく風を切るのを感じていた。そのことにしっかり疑問も覚えた。

「小生はどこに飛んでいるんだ。なぜ、飛べているんだい」

「あなたは自分の神様を見極めて、選び取ることができる意志の強い人です。だから、正しい人間という意味での天使の力を手に入れたのです。あなたの躰は対象めがけて、思考の速度で飛んでゆきます。今は、あなたが届きえないものを認識しようと悩んでいるため、ぐるーっと旋回しちゃってます」

 落ち着いて状況を確認すれば、その通りのようであった。ユッタは自分なりに、襲い来る神官の情念に愛をもって応えたつもりである。そのうえでコウを想えば、茫漠とした巨大霊体は雲散し、先ほどよりは明確にその位置を知ることができた。つまり、コウの精神はその肉体に帰還している。否、最初から肉即霊の私窩子に脱魂という事態は起こりえない。その核を神官たちの霊体というベールが、幾重にも包んでいたのである。それを剥ぎ取った今現在だが、動き出した機神の腹部に縛られた彼女は、まだ意識を取り戻してはいない。その心のあり様を知ることに、ユッタは無意識に強く駆られている。ひとまず、巨人の周囲を回りながらその様子をうかがうと、機神の肩に仁王立つ萵苣の姿が見て取れた。

「厄介な天使様ですよ、あなたは。私たちの祈りは神に届く前に、模像の真理に引き寄せられて再び個体化してしまった。また、ひとときの嘘に私を惑わせ、悲しみを繰り返すつもりなのですか。天使よ、私に神を返してください。それとも、あなたが神なのですか」

 頭を覆うベールを脱ぎ、栗色の髪を風に乱した萵苣は、両の拳を握りしめ、凄絶な形相から涙を流して絶叫していた。彼女の叫びに呼応するよう祈祷機神は唸りを上げて関節を軋ませ、足を運び、その重量で凍境の街並みを粉微塵に押し潰してゆく。白い建材がばらばらに砕けて風に乗り、白銀の粒子は吹雪ふぶきのように舞った。

「なぜ壊すのです、あなたたちの超世界プレローマを。野望を抱かず虚心坦懐きょしんたんかい、また神に祈ればよい。平穏無事な修道の世に、我々は再び戻るべきなんだ」

「模像の愛を信じられるあなたに何が分かりますか。元通りにできるとお思いですか。私はつまらない女です。神に自らを捧げ、自我を虚しくすることは、肉だけになるということでもある。神の観想は人間の現実を何より残酷に突きつけます。理解できないのですよ。あなたには、幸せなあなたがたには。もう祈祷機神は止まりません」

 機神はユッタを叩き落とさんと、黒鉄くろがねの腕を振り上げた。ものすごい風切り音を間近に聞きながら切り抜け、機神の胸のあたりを見下ろすと、見覚えのある顔がそこにあった。ミモザに想いを寄せていた、ロッカ青年である。そのとき、機神の足元からまばゆいほど盛大な火の手が上がった。機神のかかとを炙りつつ、続けて肩関節めがけて炎弾を放ったのは、燐性者フォスフォレッセンスのリンであった。

「リン! なぜ戻ってきたというのだ」

「こんなでかぶつを放っておいたら、被害が凍境だけで済むはずがないでしょう。あなた、なんだか本当に人間離れしてきたようじゃない。それでも助けが要らないはずはないわよね」

 リンの隣に、銃で応戦するジノヴィオスの姿もあった。

あずかり知らんと言いたいところだが、清算すべきことは俺にもあるようだ。天使様の祝福に嫁御を独占する気はねえよ。それ以前に果たすべき人の責任があるならな」

 よろめきもしない機神を見上げ、ジノヴィオスの横にしっかと立つ小さな人影があった。彼らの意図を汲む気になったユッタは、その人影に意識を集中した。天妖フェアリーの姿が対象に重なり、ユッタの躰が一瞬で飛んだ。胸の中にミモザがいた。

「わわっ」と度肝を抜かれたらしいミモザを抱いたまま、ユッタは機神の胸元に括りつけられた青年に意識を寄せた。次の瞬間、ミモザとロッカは、間近に相対していた。

「……なぜ、僕は君を裏切ったのに、君は再び僕の前に姿を見せられるというのだい」

 青年は虚ろな目をして、かつて睦まじかった少女を疑り深く見つめていた。

「裏切ってなんかいないの。私窩子としての私を初めて教えてくれたのがロッカでよかったと、今なら思える。花床サラムスの天使はもう関係ない。私窩子の私を本当に愛してくれるというのならば、私もいつでもあなたにそれを返してあげられるの」

「悲しいことを言わないでくれ。君はまだ幼いから、それを不貞とも思えないんだ」

 霊肉相即の異性といかにあるべきか。青年はその答えをまだ掴めずにいるようであった。

「人とはそういうものだと、頷いてはくれないの。私窩子にとってのみさおとは、人のそうしたしがらみを受け止めることだと私は思う。私窩子を人形ではなく人と信じてくれるなら、代償でないと本当に思えるなら、このあり方を分かってほしいの」

「独り占めにできない愛は愛ではないというこだわりは、青臭いというのだろう。愚かしい執着だと笑うのだろう。けど、笑われたところで、いかんともしがたいんだよ」

「私もあなたを想い続けているということが信じられないの。やはり私窩子には心がないのだと、切り捨てることで楽になれるというの。私窩子は恥知らずに忘れるのではなく、ただ受け止めるだけ。あなたも私を受け止めてくれたのなら、その後でまた形作れるものが、きっとあるはずなの」

 青年は苦い顔をしたまま、ミモザの目を見た。ミモザは青年を抱擁した。野暮か、とユッタが視線を外すうち、祈祷機神の動作はだんだんと鈍くなっていくようであった。見ると、青年の頬に涙が伝っていた。唐突に機神の胸部から射出されたロッカと、それに吹き飛ばされたミモザを抱え、ユッタは機神から離れた。

 ふたりを地上に送り届け、リンたちに任せた。あらためてユッタは振り返り、完全に停止した漆黒の巨人と、その腹部に今も眠っているコウ、そして遥か高みから下界を見下ろす萵苣の姿を認めたのだった。

「……たやすいですね。人はこれほどまでにたやすく、救われてしまうものなのですね」

 小さくひとりごちた萵苣の言葉を聞き取れたのは、その唇の動きが気にかかったユッタが、すぐさま萵苣の傍らに飛翔したがためであった。萵苣は驚きをあらわにし、さらに距離を縮めようとするユッタの胸を片手で押した。その手を取り、ユッタは彼女に詰め寄った。

「あなたがそこまで神に固執するというなら、小生も強いて否定はしません。だが、もう儀式は失敗に終わったのでしょう。せめて彼女だけでも、起こしてあげることはできませんか」

「もう彼女に意識は戻りませんよ。凍境に神官が何千人いるとお思いですか。その魂を全て受け容れ、一度は統合させた彼女です。もとどおりの自我を自力で回復し、意識に浮上させることができれば、奇跡でしょうね。すでに終わったことです。諦めてください」

「……そんな」

 ユッタはコウを強く想い、その面影を心に映じたが、天妖フェアリーは動かなかった。ユッタの躰は彼女のもとに飛ぶことがなかった。これが絶望を意味することだとは、信じなかった。

(ここまで来て、なすすべがないことなどあるものか。現に自分は、古代人の神々を取り込んでさえぴんぴんしていたのだ。いや、少なからず危機的ではあったが、それでもこうして息災ではある。人の心は、そのように脆いものではあるまい。それがたとえ……)

「私窩子なのですよ。そんなに大事なものですか、あの少女が。聞かせてあげましょうか、私窩子の製造方法を。新生児から取り除いた子宮と、人間ひとりを祈祷機神に捧げるのです。その人間とはほかでもない、老いて過去の淫蕩を懺悔するつもりになり、教会へ悔悛に来た年嵩の私窩子なのです。老いさらばえて男に相手にされなくなった、みじめな娼婦の老体ですよ。見目麗しい若い私窩子の原材料は、腐り落ちたその先達なのです。前世からの筋金入りの淫売を、あなたは慈しんでいる」

 萵苣は悪罵を尽くそうとしていたが、ユッタに響くものはなかった。

「肉が下劣なら即ち霊も下劣、と言いたいのでしょうが、それがなにほどのことです。悔悛者なら、なおのことだ。私窩子が肉体を売るということは、即ち心を売るということ。売り買いの話ですらない、ただ恋多き乙女というだけですよ。潔癖性に身動きが取れなくなったあなたがたは、躰と心の乖離がない女性を羨んでいるのではないですか」

「そうですよ。私窩子になれたらどんなによいかと、考えない日などありません。羨望しないことが、嫉妬しないことがありますか。心底から色恋を楽しめて結構、女より神に近くて結構。人としても天使としても、よりよく生きられる理想の女ではないですか。あなたがたの異性であることを拒絶した私たちより、よほど愛されるに足るのも当然のことであると、分からないでいる私だと思いますか」

「ならなぜ今さら恨み言を……あなたがたと肉を分けた、実の娘を憎むのだ」

 萵苣はユッタの視線から逃れた。次第に神官が取り戻した微笑は、ひきつっていた。

「神の妻とは結局、私窩子にしか担えないことと知ってしまったからです。人をいくら束ねても神にはなれない。その器を借り、私たちは無我の闇に溶け込むことでしか、神のお傍にはべることはできない。私たちはなんなのですか。禁欲と信仰を極めた果てに、地上だけでなく天界での愉しみさえ、私窩子に奪われる私たちはなんなのです。人の愛も神の愛も受け取れない神官とは、やっと現れた天使であるあなたにすら愛されない神官とは、」

 萵苣の青い瞳から涙がこぼれていた。屈辱とでもいうように、それを服の袖で乱暴に拭う。

「……なんだと聞いているのです。あなたにとって、私たちとは」

 ユッタは言葉に詰まった。人が命をつなぐための営みを否定し、聖域に立てこもった彼女たちに同情するつもりはない。男に私窩子を与え、代償的な性愛を原罪即救済などとうそぶく神官に、聖女の資格などあるはずがない。それでも、愛の葛藤と愛の絶無に引き裂かれた我々に、まったく共同の余地がないとは、言い切れないユッタであった。

「男性として申し上げれば、明確にお恨みすべき諸悪の根源に決まっている。ですが、小生が天使になったのは、あなたたちと似た苦しみを味わったがためです。その痛みは同じとは言いませんが、すでに小生はあなたたちと深く交わり合いさえしたのですよ。淫売婦はむしろあなたがただった。そうと知っても、今さら見捨てることはできないということなのです」

 和解をはかるつもりも、懐柔するつもりもなく、ただ彼女たちに選ばれてしまった人間として、事態を台なしにしたまま捨て置くのは忍びないというだけである。萵苣の肩に手を伸ばしたユッタは、彼女の驚いたように大きな瞳が、いっそう困惑に見開かれるのを見て取った。

「……あなたは本当に、天使のようなお人ですね。お人好しは言い過ぎですが、だからこそあなたは今、ここにいてくれている。……あの、ですね。虫がよすぎるという程度ではない、それは承知の上ですが、私たちは、あなたにまだ希望を託してもよいのですか」

 懇願するような眼差しで神官に見上げられるのは、ユッタに初めてのことであった。

「あなたが天使だというならば、私たち全員をひとり余さず、心の底から愛してください。……言葉にしてしまえば恥ずかしい、心底恥ずかしいお願いです。それがお互いに成しえないからこそ、私たちは離れ離れにならざるをえなかったというのに。それでも、あなたはそのような最後の願いを、一縷いちるでも私たちに望ませてしまったのです。責任を、取ってください」

 言葉を重ねるたびに赤くなっていく萵苣であった。微笑の仮面を崩し、積年の思いをあらわにした萵苣は、胸を押さえて、今にも崩折れそうになりながら、そうこいねがったのである。ユッタにしてみれば、無邪気に好ましいなどとは言えないまでも、ようやくひとりの人として彼女に向かい合えたことを、喜ばしく思われるのはおさえがたいところであった。

「……なるほど、それは無理難題ですよ。生半な神ですら、不可能なことかもしれません。まして、どれほど誠実を極めようと人に成せる奇跡ではない。ですが、もし小生を天使として慕わしく思ってくれるのならば、少しは天使らしく振る舞うのにやぶさかではありません。本来、天使とは被造物を見守る神の御使い。修道士の目指すべき理想がそこにあるのだとしたら、小生は一修道士として、そうあるよう出来る限り努めます。閨をともにするわけにはいきませんが、我々はやはりともに生き、ともに愛しあうことこそが、自然なのだと思われるのです。凍境は、壁を取り払うべきですよ」

 最大限の誠意を込め、ユッタはそう伝えた。萵苣は固い微笑を浮かべることなく、親愛の情もあらわに、朗らかな笑顔をゆっくりと咲かせていった。

「……答えのないことにつまづかぬよう、もう一度お互いに支えあうことができると、私たちに約束してくれるのですね。やはりあなたは、真実私たちが待ち望んでいた、本当の天使様でした」

 萵苣はユッタの胸に飛び込んだ。巨人の肩から落ちそうになり、ユッタはほとほと難儀した。眼下に見えるリンが怒ったふうに睨み上げているのを見ても、難儀な事態はなかなか終わりそうにない。ともあれ、残すところの問題を片付けにかかるのが先決であった。間近すぎることに戸惑いつつも、ユッタは萵苣に目顔を使った。

「……すみません、はしたなくて。そして、情けないことを叱ってください。彼女の目を覚ますことが絶望的だということは、嘘ではないのです。歴史上、何度かこの儀式は行われましたが、私窩子はそのたびに使い捨てられました。あなたが天使になるお覚悟を決めてくれたというのに、私にはどうすることも」

「しっかたないなあ。やっぱり最後は僕がなんとかするしかないんだから」

 突然の声に振り向くと、自信満々の顔をしたさくらがすぐそばにふんぞり返っていた。

「人間ってのはまったく手が焼けるよね。それだけかわいい我が子だけれど、ここまでやんちゃとは思わなかったな。でも、ようやくこれで終わらせてくれるのなら、僕もありがたくはあるんだよ。たまには純粋に人のために働いてみるのも、悪くはない気分だしね」

錯誤神サクラス、なにか手があるのですか」

「いやー。最後くらい、さくらちゃんって呼んで」

 すねたようにユッタをじっと睨む、さくらの言は不穏であった。

「……さ、さくらちゃん」

「はーいっ」

「いったい、なにが最後だというのです」

 訊ねられ、さくらはとうとうと語りだした。

「正直なところ、肉即霊の私窩子に大勢の人間の精神をぶちこむことが、正確にどういう状態を呼ぶかというのは僕でも分かりかねるんだ。人においても器官的感覚がある限り、肉体と精神は相互に影響しあう不分離のものだということは、いくら神官でも分かっていると思うけど、それをあえて切り離して更にごっちゃにして詰めたんだから、めちゃくちゃ混沌とさせたのは確かだよ。人の魂の座がどこかなんて、創造主の僕でも見極めるのが難しいってのに、まして私窩子、どこに焦点を合わせていいやら。とにかく、神官たちの霊は元に戻ったからまだしも、統合の余震で彼女の意識はずたぼろで、霊肉同次元で内部破裂を起こしてると思う。そこで考えてみるに、私窩子については、密接に結びつきあった霊肉を同時に救うことが求められるのではないかな。その手っ取り早い方法として、神の力と天使の知性を共同させてみたり、とかね。

 僕はさすがの創造神さまだから、人体の仕組みはお医者さんより詳しいわけ。壊れた肉体を再構成するに、幽閉されまくって衰えた力を振り絞るのだって、いやじゃない。その最後の一発で、僕自体の存在が崩れちゃうんだけどね。僕を僕たらしめているものが何かは僕にだって分からないけど、体感でそれは予想できる。神なんて偉そうに言うけど、僕は超世界プレローマにも経綸界オイコノミアにも定位できない中途半端な何かだからさ、そういうものなんだと思う。

 一方、君の天使的知性の働きは今、ひとりの天妖フェアリーに統合されている。君が純粋に観念上でこねあげた、ひとつの人格ペルソナに一柱の個人的唯一神。それは君の全感覚的経験が無意識に理性で鍛え上げられ、ひとつの信仰されるべき観念として定位した神の感覚像イメージ、神の輪郭だ。偶像には違いないが、人の全存在を賭けた偶像だよ。それは外形だけでなく、ひとつの知性を備えている。それは君の投影に違いないが、君という個人の全霊をぶちまけられて、一個の精神的主体を有するに至った確かな他者だ。君がそれを信じているから、天妖フェアリーは今生きている。その主観的対象としての神を作る知性の究極を、実際の他者という精神的主体の再形成に用いるのは、天使だけに許された能力だよ。その結果、君は天使の知性を失ってしまうだろうけどね」

 ユッタの視界の中で、天妖フェアリーが不安げに揺れていた。

「理屈は以上。実践はおそらく、君の彼女への想いにかかって……さすがにくさすぎるか。つまりは、取るに足らない一私窩子を助けるため、最大に客観的な神様と最大に主観的な神様を、同時に殺す覚悟が君にあるのかということだよ」

 何とはなしに理解できたが、自分に納得がいくだけで即断すべき方法ではなかった。

「……あなたは、それでいいのですか」

「そろそろおさらばかなあと、前々から腹は決めてたんだよ。先までの君と同じで、ここんとこ地に足が着かない感じがね。今になって素直に死ねるとも思えないし、超世界プレローマの一柱に加わるのならそれもありかなあと。まあ、人の自我なんてつまらないものに命を賭けてみるのも面白いじゃない。あの子には一宿いっしゅくの恩義もあるしね。それと、今さらなにを気にしてるのさ。くっそどうでもいい個人の自我のために神様を犠牲にするなんて、君たち日常茶飯事でしょ。それと変わんないよ、ちょっとは懲りてみることだね」

 おさなげの強い容姿で大それたことを言われると拍子抜けしてしまうものだが、それでもそれなりの凄みを舌足らずな口調に込め、さくらはユッタに誓ってくれた。

 訊ねるべきのもうひとりには、どう頼むか迷うユッタであった。自分の無意識が形作った神と言われれば、実感がなく戸惑ってしまうものだが、せっかくこうして再会できたばかりなのに消し去ってしまうのは、あまりに忍びない心地がした。

「私のことは、なおさら気にしないでいいです。むしろ、消えるべきときに消えられる、あなたと離れるべきときに離れられるのは、お互いに幸せなことです。現実にいるあなたの大切な人と溶け合える、一緒になれる。私とあの子は、あなたのなかでひとつであるべきなのです」

 ユッタの視界に焼きついた、わが心象にのみ揺蕩たゆたう亜麻色髪の少女は、ユッタにだけ聞こえる声で、嬉しそうにそう伝えた。さくらと並ぶと、なかなか彼女たちが神というのは信じがたいが、最大に客観な神ですら横のちびすけというのだから、主観的対象のこっちはけっこう上出来というべきであった。

「むー、最後の最後に失礼な目で見られた気がするけど、まあいいよ。どうせ神なんざ、人に対象化されることでしか存在できないんだから。それがひとまず不要になったというのならば、それはそれで頼もしいことだしね。もちろん、どうせまたいつか僕らが必要になるときが来る。都合の良い女にしてほしくはないけど、ある程度ならこっちも受け止めてあげられるから」

 頼もしげに頷いたさくらには、ここまで助けられっぱなしのユッタであった。今さらながらに情けなく、気が引けるところもあったが、そういう自分を甘んじて容れることこそ肝要とされているのでは、しようのないことではあった。

 さくらと天妖フェアリーと、ユッタは目を見交わした。名残惜しくないわけがなかったが、事態が急を要していることは、さくらの切迫した眼差しを受けずとも理解していた。あらためて、心の中に彼女の面影を思い浮かべた。それがどのような精神の作用によるのかも分からなかったが、異性を想うことぐらいしか能がない人間だというのは、嫌というほど思い知らされてしまっていたユッタであった。

 目を閉じれば、思い返されることは多かった。彼女の思い出はその中では短いものであったが、彼女がいなければ自分はここまでやれてこなかったはずだということは、折にふれて実感を突きつけられていた。それの表裏となって、自分が自分たちのために神を供物にしてきたという事実もまた、今まさに最も厳しい形で自覚しなければならないのである。現実こそとも、天界こそとも、択一できない、するべきでない自分を、容れなければならなかった。これからも両手に抱えて走っていかなければならないのだから、骨身にこたえることではあったが、それくらいの困難は呑まなければ、彼女たちに押しつけてばかりになってしまう。本当に、縁もゆかりもないはずの、赤の他人にこうまで支えられているのだから、人とはなんとも独りで立ちがたい生き物であろうか。それは自分だけ、などと卑下することすら自己に許さないことこそが、なによりも誠実なあり方だということも、分かったうえでユッタはここに立っているのであった。そうこう考えているうち、瞼を閉じた闇の世界に、変化が訪れていた。

 それは日の光を遮った明るめの暗さではなく、深き森の岩陰のような、静けさに包まれた深緑色の混じる暗黒であった。そこには数えきれないほどの蛇たちが、長い躰をねじって草むらを泳いでいる。あたりの樹々には赤い実がいくつも下がり、立ち込めた深い闇を光のように反射して、妖しく艶々と輝いていた。蛇たちはざわざわと音を立てて草波を掻き分け、樹の幹をするすると上がってゆく。蛇は物欲しそうに赤の果実を間近に眺めながら、ちろちろと二股の舌を伸ばしていた。ユッタが一歩足を踏み出すと、森林のようなそこはとたん水底のごとく深く重く息苦しい場所だと分かった。緑色の暗闇はさっと青褪め、なんとか躰を動かすたびに果実の真紅が軌跡となって目に焼きつく。蛇たちはみなこちらを見ていた。足元にも蛇が固まり、踏まずに進んでいくのも難儀なことであった。通りがかった樹上からふいに果実が落ちた。地面とも言えない透明感のある漆黒にぶつかり、スローモーションでゆっくりと果肉が潰れて粉々になってゆき、白色の果汁が散って蛇たちのうえに恵みの雨をきらめかせた。果漿かしょうはなおもだるい海流のような風に乗って暗黒の森に広がってゆき、気がつくと蛇の数は心なしか減っていた。蛇がいた足元から漆黒がじわじわと融けてゆき、何もない空白の地肌があらわになっていった。足を取られそうで、ユッタは気を揉んだ。足場を探すようにして、無に侵蝕されてゆく夜の森を進んでゆくと、その最果てに、彼女がいた。

 乱れた髪の一筋が頬にかかり、唇の端がそれを食んでいた。力なく崩折くずおれた彼女は大樹に背を預け、虚ろなまなこで真っ暗な夜空を見上げていた。躰にはいくつもの傷があった。深々と肉を刻まれ、血を流し凝固した切創せっそうの数々は、その瘡蓋かさぶたをまだ完全には固まらせずに、水気のあるぐずぐずの傷跡を夜気に晒したままにしている。白い脚や腕のあちこちに、骨折か打撲傷のよう赤か青に膨れ上がった跡があり、大きく腫れたのち潰れた水膨れの残骸が皮膚にこびりついて赤茶色になったところもあった。

「誰ですか」

 目の前に立ったユッタだが、彼女は自分を見ていなかった。何もかも見てはいなかった。

「さすがにもう忘れているかもな、いつかの青臭い坊主だよ。ほら、話の長かった」

「……ああ。あれ。なんで」

 驚いて上体を起こしたコウの顔を覗きこむと、いつか見たように、彼女の瞳は湖水のよう透き通って綺麗だった。あれから一月そこそこしか経たないはずだが、ユッタには無性に懐かしく思われた。

「帰ってこいよ、ここでなにをしている。大変だっただろうが、ここからは君の問題だ」

 膝に手をつき、中腰に屈んで、ユッタはため息とともにそう告げた。同情するには常軌を逸しすぎていたし、慰めようにもそこまで親しい仲ではなかったのである、自分たちは。

「ずいぶんご無沙汰じゃないですか。なぜ、私なんかを助けに来たのです。だいたい、助けてやろうなんてのもお節介ですよ。勝手に親しくなったつもりになられちゃ、困ると言ったのを忘れたのですか。これだから修道士という輩は」

 文句たらたらのコウは瞼を下げて三白眼を作り、じめっとした視線をユッタに送った。その目で見られると、心の底を見透かされた気がする。それはとても喜ばしい錯覚だった。

「お節介を焼かなければ、君はどうなっていたんだよ。何があったか、つまびらかにしてもらう気もないが、寝てばかりいるのは感心しないぞ」

「寝てるのが一番楽です。私窩子が信仰でもあるまいし、かったるい毎日の中で唯一の潤いですよ。人は理性に天上の神を見るより、睡眠という自分の根っこに落ち着くのが本当ですね。なにやらぶしつけに入り込んできて、神様狂いにはほとほと困らされましたし」

「そこのところは、返す言葉もない。だが、そろそろ寝飽きたのではないか」

「起きてるときのほうに飽きたんですよ。そもそも、神様馬鹿たちがじきじきに眠ってろというので、それに従ったまでです。好都合というものじゃないですか」

「投げやりぶっても、どうにもならないぞ。なぜ、神官たちの器になることを断らなかった」

 むっとして、コウは黙り込んだ。顔をぷいと逸らしたが、やや眉をしかめた。その身の傷が肉のものなのか、霊のものなのか、それすらも定かならないが、少し動くだけでも大儀らしい。

「私窩子の生き方に嫌気がさすと、小言を漏らせば分かりやすいですか。神官が私に埋め込んだ天使が腹の底で蠢くようで、うんざりだと言えばいいですか。そんなありふれた悩みにも飽きましたが、それがいやなら信仰に入れと、間違った世界を浄化するためふてぶてしく生き続けるべきだと、そういうへそ曲がりの信仰の教えも馬鹿らしくてやってられません」

「相変わらず、根性をねじ曲げているな。あまのじゃくであることを積み重ねるのも、体力がいる生き方だが、頑張っているようじゃないか。それをやれるだけ健康で、結構だよ」

「なに分かったようなことを。悟った顔をされるのが一番面倒です。あっちいってください」

 コウは嘆息したが、ユッタは動かなかった。訝しげに見上げる彼女に、なおも訊ねた。

「神官の中に存在を消すことは、結局楽ではなかったのだろう。心底安らかなら、こうして傷だらけでくたばっているはずがない。君は自分を捨てられなかった。何もない自分でも、さっぱり消し去るには忍びなく、濁流に抗ってしまった。それはおそらく、何かをやり残していたため、何かを信じていたがためだろう。聞かせてくれ、それは何なんだ」

 ユッタが言葉を重ねるごと、かたくなに唇を引き結ぶコウだったが、不貞腐れたように暗い地面に視線を落としながら、ようやくぼそりと一言、呟いた気配があった。

「もう一度、会えると思ったからです」

 照れるというよりは悔しいというふうにしかめっつらを崩し、尖らせた唇から言わされているかのように、不本意そうにコウは告げた。ユッタを見上げた目は、ほとんど怒っていた。

「私の天使は、あなたしかいないと信じていた。それだけです。悪いですか」

 胸を突かれる何かがあり、かえってユッタのほうが戸惑ってしまった。

「神官を受け入れても、君が宿した天使が僕である限り、埋もれはしないと……そう、信じてくれていたのか」

「うるさいです」

 つんけんしてコウは返した。またそっぽを向いてしまったその横顔が、愛おしく思われてしまうのは、一時の錯覚ではないはずであった。胸が詰まってしまい、なんとも言えず、おろおろと視線を泳がせたユッタだが、いつまでもこうしてはいられなかった。傷ついたコウに差し伸ばした手は、決して振り払われはしないだろうと、信じることだけはできた。

「帰ろう」

 振り仰いだコウの瞳に映る、自分の顔を見た。こんなに間の抜けた顔をしていただろうかと、ユッタはおかしくなってしまった。手に手が重ねられると、周囲の暗闇が吹き飛んだ。

「ユッタ」

 何もかも透明な空間に放り出され、ふたりは強く手を握り合った。

「なんだ」

 強い風が吹いている気がした。彼女の言葉は遠いけれど、はっきりと聞き取れた。

「来てくれて、ありがとう。ずっとずっと、待っていたような気がしました。けれど、あなたが好きなどと言うつもりはありません。絶対に、言ってはやりません。ただ、信じているだけです。気の迷いでも構いません。ただ、今この瞬間、あなたへのこの気持ちを、私だけが私のため、固く信じているというだけのことなのですから」

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