第44話

 ユッタの脳内で幻像エイコーンは踊り、神官の肉体は跳ねていた。祈祷機神の広場に辿り着くまでに、リンとコウのことを幾度も思い、そのたびに意識が神官の裸形の上に翔んだ。神官の恍惚を繰り返し見るたび、自分が今どこにいるのかも不確かになったが、下腹の疼痛に肉体のありかを確かめ、一歩ずつ凍境の街を歩いて行った。

 神官らの霊体に撹乱された天使の知性が、正確にはどういった機序で認識能を働かせているのか、もはや皆目見当がつかなかった。理想の観念像である幻像エイコーンが感覚を麻痺させ、彼女たちの裸体にもとづいて思考すれば真理を得られる天使的知性だが、凍境にいる限りは神官の霊体がハッキングを仕掛けるよう、物事の認識時に幻像エイコーンと神官の肉体がすり替えられてしまうのである。思考は性愛の歓びに煽り立てられることで、常人よりよほど活性化しているが、すべての答えが性愛にしかないということを四六時中突きつけられるのも、相当にこたえるものがあった。そのうえ、ふと意味もなく頭の片隅をよぎった取るに足らない何らかの思考の切れ端がとたんに引き金となって、神官との交接を強要されるのである。

 幻像エイコーンの裸形に得られる快楽は脳に直接電流が走るような感触で断続的に起こり、ちくちくと刺されるようなストレスがあるかわりに慣れれば頭がぼんやりする程度で、気をつければ感覚を強く刺激されることはない。制御できれば純粋に抽象的思考を支援するような、ある種超古代人の手でデザインされた合理的なシステムという趣があった。もちろん、少なからず性感を刺激されるのは間違いなく、脳の活発な働きが躰の芯を通ってぴりり、とそれをしかるべき器官に伝えるといった具合である。対して神官の霊体は、ユッタの意識自体を肉体から根こそぎ引っこ抜き、神官の抜け殻の肉体と媾合させる。これが厄介で、肉体感覚が保持されており五感を直接に刺激される。天使的知性の脱感覚性を破ってこれがなされるのは、性愛という最後の感覚的欲求の惹起に知的向上の基盤を置く幻像エイコーン媒介思考の足元をすくわれているためと思われた。

 ユッタが気にかかるのは、ほとんど一歩動くたびに立ち現れる神官の肉を動かしているものは、神官たちの言う悪しき霊性――感覚的経験の固まりだけなのか、それともコウと一体化した彼女たちの神的本質――理性的自我の集合体も含まれているのか、そのことだった。後者がユッタの認識を狂わせているのは確かだが、彼女たちが捨て去ったという肉体自体にもそれが宿っているのかは分からなかった。そもそも、人の魂がそのようにきっぱり二分割されうるのかも疑わしいのである。もし彼女たちの集合的霊体が未だ至高神に到達せず、凍境上空にでもふわふわと浮いて定位されていないままというならば、両者は完全には分化していないと考えたほうが自然ではないのか。そうだとすれば、神官の肉との対峙はコウの魂との対峙でもあるはずなのだ。そう思い、わが感覚世界を絶えず犯す聖女の嬌態の背後に一抹の希望を見て、ユッタはただただ暗い模像的合一の悦びに神官たちをむせばせていった。

 祈祷機神の下に辿り着くのに何十時間もかかった気がするが、実際には数十分しか経っていないはずであった。機神のその中心に、コウを見つけた。黒い巨人の腹部の金属は、溶けた後に冷え固まったよういびつな渦めいた曲線を描き、その奥に空いた間隙が蟻地獄のごとくコウを吸い込んでいる風情である。胸元まで巨人に取り込まれたコウの半開きの目に生気はなく、首を落として下界に向いたその顔に感情の色はうかがえなかった。彼女を見上げるたび視界は神官の裸の肌に覆われ、飛んだ意識に焼きついた虚しい交わりの残滓を振り払うよう首を振って、再びコウを仰ぎ見る。無限に振りかかる肉の層をかき分け、ただコウを見ることを望んだ。彼女だけを知ることを願った。彼女を目の前にしてさえも聖女の乳房の豪雨に打たれて何度も地面に俯かされた。地面には額突ぬかずいたまま空っぽになって身を投げ出した神官が大勢散らばっていた。見上げても見上げてもその肉塊たちが意識の中で動き出して接吻をした。

(闇雲に手を伸ばすだけでは、かなわないというのか。神官の渦に呑まれた、彼女ただひとりを求めてさえ、何も知られない、何にも届かないというのか。神官と一体になった彼女をどうすれば引きずり出せる。もしや、小生は順序を間違えていたのではないか……)

 さくらという地上の神は、絶対他者としての神への信仰を強調していた。他者とは何か。いかな救いを託すことさえかなわぬ、決して分かりあえることのない、わが視界に映る何者か。その外貌が単なる感覚的認識の表象、わが肉体の感覚が生み出した幻、自己の仮託にすぎないというなら、その背後にある他我とは何なのか。暗闇にうっすらとまたたく無限の星々。それ自体では掴みえないが、確かにこの世界をぼんやりと照明しあっている光の数々。かつて自分はコウを、模像における真理として愛することを誓った。神の代償としてではなく、神の模像である我々自体の関係に価値を認め、人と人同士に愛があることを一方的にでも確かめたはずだった。それが困難であることに愚痴りもしたかもしれない。あのとき自分は彼女を、自分の手の届きうる、お互いに把捉しうる存在と思っていた。だが、そうではなかった。お互いの何をも知りえず、理解しあえず、勝手な思い込みを託しあうしかない、そういう人間同士であることに、本当の意味で気づいてはいなかった。それは今でも同じことだが、分からないなりに通じあうものを探るため、その端緒をこじ開けられている自分の状況を、ようやく受け容れることができたのであった。どんな他者とも断絶しているというのならば、神に最も近づいてしまったコウに手を伸ばす前に、名も知らぬ神官たちをいかに愛するべきかを、立ち止まって考えなければならなかったのである。おそらく、自分はコウを他者とも思えていなかった、それこそが偶像であったのだ。

 ユッタと神官らの悲しみは同じだった。同じ空白の世界を見ていた。現実に倦み、自我に倦み、他者という違う光に照らされた違う世界を垣間見たいと願いながら、肉体という壁に阻まれることを疎んで、純白の神の国を夢見てしまった。猥雑な現実の中にふとしたきっかけを、切り口を、結節点を探すのにくたびれ、人と人、一対一で簡潔に物事を共同することに憧れた。すべての現世での愛が性愛に還元されるなど、どだい極論が過ぎていたが、目を背けずに他者と他者の向き合うことを徹底し、そのまま時を重ねてしまえば、それにしか希望がないのだと、だからこそ汚らわしいのだと思われてしまうのは必然だったのである。そぼ降る神官の肉の雨は、意識に流れこむ枯れた花の蜜は、その甘美なることにすらもはや意味はないのだと、怨嗟のように叫んでいた。彼女たちを叡智ソフィアにしてしまわないため、一個の人間に還してやるためには、ただその一人ひとりを真正面から見つめ直すこと以外にないらしかった。空から吐き出されるようユッタの意識に現れた神官に、君は誰なのかと訊ねる。これは幻像エイコーンにもしたことだった。幻像エイコーンとは一体、人なのか神なのか、人の意識が数えきれないほど積み重なってできたそれを何と呼ぶべきかも分からなかったが、人を束ねて神としようとは、古代人も自分たちと似たことを考えていたらしい。神官の霊と幻像エイコーンはその意味で同じであった。だから重なってしまうし、明確なひとつの像も結べない、誰なのかも分からない。その挫折した愛情たちが神の代償としての自分に向けられている。これを祈りと呼ぶべきか、それとも呪いと呼ぶべきか。迷惑を被っている自分を度外視してみれば、今ならそれはまさしく愛なのだと、抱きしめることができるのかもしれなかった。

 ぶつっ、と意識が途切れた。暗転した世界に、少女がいた。それはコウであり、リンであり、さくらであり、ミモザであり、萵苣であり、神官たちであった。顔はなかった。触れられなかった。ただ話しかけることはできた。

「君は、誰なんだ」

 問うても答えはなかった。だから、自分から名乗った。

「僕は、ご覧のとおりのろくでなしだよ。人でも天使でも贋天使アルコーンでも神の模像でも神の代償でも、なんでもいいが、どう自称したところで、どう見られたところで、芯のない男だということだけは変わりがない。もし物事に本質とか真理とかいうものがあったとしたら、僕という個人のそれは芯のなさ、本質の不確かさなのだと断言されるべきものに違いない。生まれたころから能なしで愚図でぐうたらで、馬鹿のくせに人嫌いで胃が小さくて、飯を残してばかりいた。頭の中で女を脱がすことだけが趣味で、それを神だの信仰だのと言い繕うことだけが自慢の特技だ。小汚らしい自意識をあけすけにぶらっさげて生きるのも、韜晦とうかいまみれで上手いこと世渡りするのも不得手だよ。それ以外に僕という個人を説明する手立てなんてない。それ以外に僕の根拠なんてないんだ。こんな自分を誰に見てほしいと言える、誰に認めてほしいと言える。そんなものだと言ったところで、何がどうなるわけでもない。どうなるわけでもない日々に、どうにかしたら失敗だらけだ。間違ってばかりいる。今も間違えているかもしれない。君はどうなんだ、そこのところは。どうせ君も似たようなものだろ。似たようなものと見当をつけるしか僕にはできない。僕と違って立派にやってるかもしれないが、それならどうしてこんなところにいるんだよ。似たもの同士でもまるっきり違うことは百も承知だ。僕は君のどこを見ればいい、君は僕のどこを見たい。あやふやな言葉も厳密な言葉ももう使えないみたいだ。僕はただ、君が知りたいという僕でしかなかったんだ」

 目の前に火花が走り、少女の影がひらめいた。少女は人でもなく、神でもなかった。ただ、世界が消える最後の瞬間、こちらにほんの少しだけ、振り向いてくれたような気がした。

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