第2話 疾走

 夏の気配が日々色濃くなっていく6月。

 放課後、部活に行く前、今日も私は書道部に使われている教室へと続く廊下を浮き立つ思いで歩いていた。

 教室後ろの引き戸のガラスから覗き込むと、マスクをつけた千恵子先輩は予想通り一人で床に新聞を敷いていた。後れ毛など出さずにきっちりと編み込まれた、一本の長い三つ編みが似合っている。

 

 よかった。間に合った。

 今なら話しかけても大丈夫だろう。


 深呼吸すると、ガラッと引き戸を開けた。

 床にかがみ込んでいた千恵子ちえこ先輩が顔を上げる。

「あら、君は確か……夢乃ゆめのさん」

「はい、1年の北条ほうじょう夢乃です」

「完璧な名前……!」

 千恵子先輩は目を輝かせて空に指で私のフルネームを書き始める。

「いいねえ」

 千恵子先輩のペースに飲み込まれそうになるのをこらえて私は話を続けた。

「あの、今日はお話があって来ました」

 指を空でぴたっと止めて、千恵子先輩がマスクをしていてもわかるくらいの満面の笑みで私を見る。

「おっ、ついに書道部に入部?」

「いえ、7月の高体連に出場できることになったんです」


 千恵子先輩の目が、「ほぉ?」といっている。

「あの、千恵子先輩、もし時間があったら7月12日、円山競技場まで私が走るのを見に来てもらえませんか」

「え、私が?」

 私は一息に言い、キョトンとしている先輩に高体連のチラシを渡した。

 確かに急で強引だ。

 私と先輩は春の新入部活勧誘会以来、私が一方的に見ているだけでほとんど交流はなかったのだから。

 でも、どうしても私は先輩に見てもらいたかった。

 そのためにがむしゃらに頑張ってきたのだ。


 高体連の主役は現役最後になる3年生、そして主力としての2年生であり、1年生が入学した年の高体連に出場するのは、なかなか難しいことだった。

 だけど私はどうしても今年出場したかったから、朝も昼休みも部活後帰宅してからも、走ってトレーニングを続け、1500メートルの代表を勝ち取った。

 出場枠を争った先輩達とは気まずくなったけれど、そんなの関係ない。

 私には今年しかなかったのだから。


「部活勧誘会の時に夢乃って書いてもらったお礼をしたかったんです。でも私には走ることしかできないから、高体連に出ることで先輩にお礼をしたくて、頑張って代表になったんです」

「お礼なんていいのに……」

 そう言いながらも先輩は真剣な表情になってチラシに目を走らせ、やがて顔を上げた。

「……これって高校生にとってはすごい大会だよね。わかった、応援に行くよ」

「ありがとうございます! それでは、失礼します!」


 私はようやく息ができるような気持ちになって、深々と礼をすると机にぶつかりながら教室を出た。


 これで千恵子先輩にお返しができる。

 似合わないと笑われてきた夢乃という名前が君にぴったりだと言ってくれたこと。

 そして躍動感のある子鹿みたいな字で「夢乃」と書いてくれたこと。

 みんなに「王子」「男子みたい」と言われても曖昧に笑うしかなかった私に、「君は君のままでいいんだよ」と言ってくれたように思えて、夢のように嬉しかったあの日のお返しが。


 あとは、当日に先輩が見てくれている前でベストタイムを出せるように、もっともっと努力を重ねるだけだ。


 ――そう思っていたのに。

 

 今年初めに世界の片隅で発生した新型ウイルスという黒い霧は瞬く間に世界を覆っていった。2月に北海道で本格的に感染が広がった時はまだまだ他人事だったし、全国に感染が広がり始めても、遅くとも7月までには収まっていると思っていた。

 だから、部活での練習も、朝晩の自主トレも欠かさなかった。

 それなのに、ウイルスという目に見えない黒い霧は濃度を増し、どす黒い雲のようになってどんどん感染者を増やしていった。外出自粛が始まり、学校も休校になった。春の甲子園を始め様々な大会が中止になる中、1ヶ月半後にマスク必須で学校は再開されたけれど、感染者はなかなか減ることはなく、とうとうオリンピック、そして夏の甲子園の中止が発表された。

 当然、北海道高体連も中止になった。


 その知らせを顧問の竹田先生から聞かされた時、3年の先輩たちは泣き崩れた。当たり前だ、この大会が高校生活最後の大会だったんだもの。

 世界的な大会ではない。たかが北海道の高校生の体育大会なのだから、種目ごとに分散して開催できるのではないかとみんな希望を持ち続け、練習を続けてきた。

 大学の推薦がかかっていた先輩もいた。

「北条はまだ来年もあるから頑張ってね」

と泣きながら言われ、頷くしかなかった。


 でも、私も泣きたかった。

 私にとっても最後のチャンスだったのだから。


 *


 翌日の放課後。

 引き戸の窓から教室を覗くと、今日もマスク姿の千恵子先輩が一人で新聞紙を敷いていた。

 先輩の他には3人ほど部員がいるようだけれど、ほとんど見たことがない。

 ――夜のうちにさんざん泣いたから、もう大丈夫。

 もう一度深呼吸して心を落ち着かせてから引き戸を開けた。


「おっ、北条夢乃」

 にこっと笑う先輩を見てすぐにまた泣きたくなる。

 しっかりしろ、私の涙腺。

 私はそっと引き戸を閉めて、先輩から少し離れた床に正座した。

「どうしたの? なんだか元気がない?」

 そう優しく聞かれても、なかなか言葉が出てこなかった。

 私が涙をこらえて深呼吸している間、先輩は黙って待っていてくれた。

 マスクの内側の息が熱くて、苦しかった。


「……あの、コロナのせいで高体連なくなりました」

 ようやく言って千恵子先輩を見ると、見る見るうちに先輩の表情が曇った。

「それは――なんて言ったらいいか……残念だね……」

「はい……」

 しばらく思案していた先輩がやがて無理をしたように微笑みかける。

「でも、夢乃さんには来年も再来年もあるからさ」

「ないです」

 涙がどっと溢れた。

 こんなこと言っても先輩には関係ないのに――でも止まらなかった。


「千恵子先輩が高校生のうちに見てもらえる高体連は今年が最後でした」


 泣きながら言う私を先輩は呆気にとられて見つめている。

 そうだよね、先輩にとったらいきなり何ごとか、だよね。


「卒業したら、先輩は遠くの大学に行きますよね」

 ――この地域にはめぼしい大学はない。

 だから3年生は卒業したら働くか、遠くの大学へ進学していく。

 千恵子先輩はテストのたびに成績上位に名前が出ている人だから、きっと都会の有名な大学に進学するだろう。

「だから今年が最初で最後のチャンスだったんです。先輩の目の前でベストタイムを出して、先輩に恩返しするチャンス」

「あ、前も言ってくれていたね、勧誘会の時に名前書いたこと? そんな、たいしたことしてないのに」

 戸惑うように顔の前で左右に手を振る先輩。

 しゃくりあげながら私は必死で言葉を選んだ。

 一言では私のあの時の気持ちは説明できそうになかったから。


「先輩が夢乃って名前がきみにぴったりだねって言って書いてくれたのは、私にはすごく大きなことでした。そんなこと言ってもらったのは初めてでした。

 今まで、ずっと男みたいで名前が似合わないとか、男だったらよかったとか言われてきました。女の子を望んだ母がつけてくれた名前が大好きなのに、似合わない私に育ったことが母に申し訳なかった。

 でも、先輩はきっぱり、似合うって言ってくれたから、何か吹っ切ることができたんです。私は私だって。書いてくれた半紙も部屋に貼っています」

 息を止めるようにして真剣に聞いていた先輩は、私の言葉が終わるとにっこり笑った。

「――私の言葉を大切に受け取ってくれてありがとう。嬉しい」


 言うべきことを言った私と先輩の間に沈黙が降りてきた。

 まだまだ高い夏の日の光が教室に射し込んでいる。

 グラウンドからは野球部のかけ声がしていた。

 彼らも今年の夏の目標を失ったのだとぼんやり思う。

 それでも練習している。

 私も部活へ行かなくてはと思い、涙を拭いて腰を上げた。

「急にすみませんでした。今日はそのご報告だったんで、これで失礼します」


 お辞儀をして先輩のそばを離れる。

 もうこれでここに来て先輩に話すことはないかもしれない。

 この先大会はしばらく中止になるだろう。

 先輩が卒業するまで報告するようなことなんてきっと起こらない。

 ――私が先輩に恩返しできるチャンスはもうない。


 私は振り向かずにそのまま教室を出た。

 ただただ胸が痛かった。


 *


 それから一週間後。

昼休み、教室でお弁当を食べ終わってぼんやりしていたら廊下のほうがざわめいた。

 今は感染防止対策で、休み時間でも友達どうし近づいてのおしゃべりが禁止されている。珍しいなと思って何気なく振り向いて驚いた。

 三つ編み姿の千恵子先輩が後ろの入口に立って、私を見つけ大きく手を振っていた。

 一瞬で心臓が爆発しそうに跳ねる。


 あの人誰? 3年生だよね? ――などのつぶやきが聞こえる中、私は慌てて先輩に近づくと、彼女を廊下に押しのけるようにして後ろ手で引き戸を閉めた。

「ど、どうしたんですか」

 千恵子先輩はにこにこしながら私を見上げた。

 立って向き合うと、先輩は私の胸元あたりまでしか身長がなかった。


「昨日、夢乃さんが走っているところ、見たよ」

「えっ?」

 予想外の言葉に慌てる私に構わず、先輩は続けた。

「きみがどんな風に走るのか見たかったから、こっそり練習を見に行ったんだ」


 ――私の通学路は校門から坂を下りていくんだけれど、きみの練習を見るためにグラウンドの側の道を通っていったら、フェンスに張り付くようにして見ている女の子たちが何人もいた。

 なんと他校の女の子たちもいて、彼女たちはきみのことを王子って呼んでいたよ。きみはすごく人気があるんだね。知らなかった。

きみが何かするたび、女の子たちがきゃーっと騒いだ。

 でも、女の子たちや、その後ろで見ている私のことなんて目もくれずに走り込んでいるきみはかっこよかった。王子って呼ばれるのも理解できた。

 だからわかったよ。

 きみはそんなこと望んでいないんだね。

 王子って勝手に呼ばれてどんどん広がるイメージと、ほんとのきみのギャップ。

 ほんとのきみは夢乃って名前が好きな女の子なんだもんね。


「はい。私は王子でもなんでもありません」

 嬉しかった。先輩が私をわかろうとしてくれたことが。

 先輩は照れ隠しのようにえへへと笑った。

「まあ私には、最初見た時からきみは夢乃って名前が似合う女の子だったけど」


 そう、だから。

 だから私は先輩が好き。

最初から私そのものを見てくれたから。


 ずっと見ないようにしていた思いが形を結ぶ。

 湧き上がる気持ちを押し殺すように私は唇を噛みしめた。


「走るところを見てくれて、ありがとうございました」

 本当なら競技会場の大観衆の中で見てもらいたかったけれど、それでもわざわざ見に来てくれていたことで充分だと思った。

「でも、先輩が見ていると知っていたならもっと本気を出したのに」

 苦笑しながら言うと、

「あ、あのさ」

 千恵子先輩が言いづらそうにもじもじしだした。

 いつも言いたいことをまっすぐ言う先輩なのに、と思いつつ待っていると、意を決したように先輩が私を見上げた。

 マスクから覗く瞳が濃い墨のように美しく光った。

「来週の日曜、ほんとだったら高体連だったよね」

「そうですね」

「――グラウンドで、私のために走ってくれないかな」

「え?」

「夕方……たぶん6時くらいなら他の部活も終わっているよね。高体連本番みたいに走るところ、私に見せてよ。恩返ししてくれるんでしょ」

「見てくれるんですか」

 胸に喜びが一気に広がった。

「実は毎年出していた書道大会もコロナで中止になって気が抜けちゃったんだよね。だから、王子じゃなくて北条夢乃が本気で走っているところを、私も見たい。そうしたらまた私も頑張ろうって思えそうだから。いいかな?」

 そう言った先輩の頬は赤かった。

 また動悸が激しくなる。

「もちろん、喜んで」

「ありがとう。じゃ、日曜6時にグラウンドでね」

 千恵子先輩はくるりと背を向けると、ずんずんと歩いて去って行った。

 

「王子ー、あの三年の人、なんだって?」

 様子を窺っていたクラスメイトたちも廊下に出てきた。

「なんでもない」

「あれ? 王子、なんだかすごく嬉しそう」

「そうかな」

 舌をぎゅっと噛んでも、頬が緩むのを隠しきれなかった。


 *


 約束の日曜日、夕方5時半。

 傾きつつあってもまだ夏の日差しは白い強さを保っていた。

 グラウンドは野球部の一年生が残って整備をしているくらいで、閑散としている。

 部活が休みなので部室は使えない。私は部室棟の影でジャージを脱ぎ、下に着てきた競技用のユニフォームの上にパーカーを羽織って体操をした。

 千恵子先輩に声をかけられてから消えかけていた情熱にまた火が付き、たった十日くらいだったけれど、私はまた朝晩の走り込みの精度を高めた。

 ベストタイムまでは出せないかもしれないけれど、近い数値が出せるくらいに身体は軽くなっていた。

 私が走ることで千恵子先輩の情熱にも再び火をつけられますように。

 目標があったから、練習は全く苦ではなかった。


 軽くグラウンドを走りながらずっと千恵子先輩が来るであろう校門のあたりを見ていると、全然違う方向から「おーい」という声がした。

 振り向くと、マスクを着けた千恵子先輩が校舎から紙袋を手にやってくるのが見えた。

 そのままトラックを走り、先輩の前まで行って止まる。

「校舎にいたんですね」

「うん、ちょっとね」

 先輩は私を足元から顔まで見上げ、日差しに眩しそうに目を細めた。

「すごいね、ちゃんとしたの着てくれたんだね」

「今日が私の高体連ですから」

「カッコイイよ」

「ありがとうございます」

 私は千恵子先輩にストップウォッチを渡した。

「あそこのゴールのところに立っていてください。1500メートル走るので、7周半したらゴールです。スタートはあっちなので、私が走り出したら同時にストップウォッチ押してもらえますか」

 先輩は目が寄りそうな勢いでストップウォッチを見つめ、ボタンをかちかちと押して試し始めた。

「……私も自分の腕時計で計るからそんなに緊張しなくてもいいですよ」

「あっ、そうなの? 良かった」 

「私のベストタイムは5分05秒70です。高体連がなくなってから正直練習に身が入っていなかったし、今日は一人だから更新は難しいかもしれませんが、頑張ります」

「わかった。頑張って!」

 私は頷くと、パーカーを脱ぎながらスタート地点へ、紙袋とストップウォッチを持った千恵子先輩はゴール地点へと向かった。

 パーカーを地面に置くと、私はいつもレース前に行うように手首と足首を回してから二、三度軽くジャンプした。

 深呼吸してスタートラインの上に立つと、ゴール地点にいる千恵子先輩を見る。

 先輩は手を振ってから真剣な顔になり、ストップウォッチを持って構えた。

 私より緊張しているような顔だ、と思うとおかしくなった。

 もう一度深呼吸して笑いを追い出すと、私は集中力を高めていった。


 想像する。

 赤茶色のゴムのトラックに落ちる黒い自分の影。

 引かれた白い線。

 広がる青空。

 じりじりと肌を焼く夏の日射し。

 左右に並ぶ他校のライバルたち。

 弾むような息づかい。

 身体の内側に響く心音。

 競技場を埋め尽くす大観衆。――その中に千恵子先輩がいる。

 今日が私の高体連。


 ――位置について。

 大会役員のユニフォームを着た男性がスターターピストルを持った腕を真っ直ぐに上げる。

 ――用意、

 パアン、と頭で高く鳴った音と同時に私は走り出した。


 聞こえるのは鼓動と呼吸音と砂を蹴る足音だけ。

 私は最初から早めのペースで飛ばし、後半にさらにペースを上げていく走り方を得意としてきた。ゴールまでそのままの速度で走り抜けられるか、自分の限界を迎えるのが先か。ぎりぎりまで自分を追い込んでいくスタイルが好きだった。

 自分にまとわりつくものを一枚一枚脱ぎ捨てて、身体が軽くなっていく。

 全身に酸素を巡らせるイメージをしながら規則正しい呼吸を繰り返し、腿を高く上げ、腕を大きく振る。

 このまま飛んでいけるんじゃないか――。

 私はさらにギアを入れてスピードを速めていった。


 でも、1000メートル近く走っていると、まだ高い気温に汗が絶え間なく噴き出て、明らかに体力が落ちてきたのを感じた。肺が痛くなり、呼吸音が大きくなる。

 ――飛ばしすぎたかな。

 弱音が頭の片隅で生まれ、砂を蹴る足が重く感じていく。


 その時だった。

「夢乃――!」

 千恵子先輩の声がグラウンドに響いて、私ははっとして先輩の姿を探した。

 走ることに夢中になるあまり、先輩のことを忘れていた。

 ゴール地点に立つ先輩は両腕を思い切り伸ばし、白い大きな半紙を掲げていた。

 そこには千恵子先輩独特の躍動感ある力強い毛筆で、〈疾走〉と書かれていた。


 疾走。


 先輩はこれを書いていてくれたのか。

 私のために。

 疾走。

 先輩が書いた、私のための言葉。

 そうだ、もっと速く。まだ行ける。全力で突き抜けろ。

 疾走するんだ。


 心臓が、ふくらはぎに、腿に、腕に宿ったように感じた。失われかけていた力が再び身体中にみなぎる。

 

 先輩の横を通り過ぎる時、ちらっと目を合わせた。

「夢乃、疾走!!」

 必死な目でそう叫んだ先輩に頷いて見せる。

 ――先輩、見ていてください。

 私はさらに腿を高く上げた。

 腕を強く振る。

 呼吸するたび酸素が巡る。

 目の前にはグラウンドと空。

 身体が軽かった。

 どこまでも走って行ける気がした。


 7周半走った私はゴールラインを超えるとそのまま地面に倒れ込んだ。

 全身で呼吸を繰り返す。

 肺が痛かった。

 興奮した顔の先輩がストップウォッチを手に私を覗き込む。

「すごい! 5分07秒02」

「あ――、ベストには全然届かずですね」

「そんなことない、ほぼベストタイムと同じじゃない」

「陸上では2秒は大きいんですよ」

 そうなの? ときょとんとする先輩の表情がおかしくて、私は笑って先輩に手を伸ばした。

 地面から伸びた私の手を見て少し考えた先輩は、半紙とストップウォッチをぽとりと落とすと、両手で私を引っ張り上げてくれた。その勢いのまま、自分が汗だくなのも砂だらけなのも忘れて私は先輩をハグした。

 落ち着いた墨の匂いがふわっと先輩の髪から香って、ふいに泣きたくなった。

 あの誰もいない部室で、書いてくれたんだ。

「私のために疾走って書いてくれてたんですね。すごく力が出ました」

 その言葉ではっとした先輩が私の腕の中で顔を上げる。

 一瞬至近距離で目が合い、先輩は真っ赤になって私から離れて、落ちていた半紙を拾った。

「ほ、本当は、これだけじゃなくて」

 先輩は後ずさると、ゴール地点に置きっぱなしになっていた紙袋を持って戻ってきた。

 紙袋の中にはたくさんの丸まった半紙が入っていた。

「きみが本気で走る時にどの言葉がぴったりなのかわからなくて、思いつくものを全部書いた」

 そう言いながら千恵子先輩は次々と半紙を広げて見せてくれた。


〈走れ〉

〈跳べ〉

〈頑張れ〉

〈記録更新〉


「こんなに……」

 驚きと感動で私は言葉を詰まらせた。

「先輩に恩返しのつもりで走ったのに……」

 そんな私を見て千恵子先輩が照れたように笑う。

「走ってるきみに一番合ったのは〈疾走〉だったよ」

「はい、全力疾走するんだって思ってまた頑張れました」

「それならよかった。あとこれ、最初に渡したのより気合い入れて書いたよ」

「あ……」


〈夢乃〉


 白い紙に漆黒の墨で描かれた、子鹿のように跳ねる私の名前。私が大好きな言葉。

「はい。きみにぴったりの名前」

 先輩はまるで表彰状を授与するように両腕を伸ばし、夢乃と私が読めるように半紙を私に渡してくれた。

「ありがとうございます」

 私は〈夢乃〉を受け取り、そっと胸に抱いた。

「……他のも全部いただいてもいいですか?」

「もらってくれるの?」

「はい。だって、私のために書いてくれたんですよね」

「そうだよ。じゃ、はい」

 先輩は半紙たちをまとめてくるくると丸め、紙袋に入れてよこしてくれた。

「宝物にします」

 紙袋に〈夢乃〉もしまった。心の底から嬉しかった。


 太陽が傾き、涼しい風が吹いてきて千恵子先輩の前髪を揺らし、形のいいおでこを覗かせた。

「書道部の集大成のつもりだった全道書道大会がなくなって私も気が抜けていたけれど、きみを私の書で応援するんだと思ったら気合い入ったよ。こんなに喜んでもらえて嬉しい」

「先輩はいつも私に力をくれます。走っているところを見せてって言ってくれたのもすごく嬉しかったし、今日の思い出と、この言葉たちでこれからも頑張れると思います」

「うん、来年こそ高体連に出られるように応援しているよ。私はいよいよ受験に集中しないといけないな」

 夕陽に照らされた先輩を見てちくりと胸が痛む。

 今日この日を折り返し地点として、先輩は私の手が届かない未来へ向かって歩いて行くのだ。私はこのグラウンドをぐるぐる走りながら先輩を見送るしかない。

「遠くへ行っちゃうんですね、先輩」

「まあ、まだ卒業までは8ヶ月あるけれど」

「卒業したら会えなくなっちゃいますね」

 そして都会に行った先輩は私なんか忘れて、大学生活を謳歌するのだろう。

 きっと三つ編みもしなくなるだろう。

「――きみも」

 千恵子先輩はまっすぐ私を見上げて言った。

「きみも来たらいいじゃない、私と同じ大学に」

「え?」

 自分が大学生になってもまた先輩と会えるなんて、想像もしたことがなかった。

「私、走ってばっかりだから相当バカで、大学のことなんてまだ考えてもいなかった」

 ふっと先輩が笑った。

「まあ、私もまだ希望校に受かったわけじゃないけれど。でも、きみはバカじゃない。連絡先だって交換すればいいじゃない。卒業したらそれっきりってことはないでしょう。進路のことだって相談に乗れるかもしれないし」

 いつもより少し強めの口調で言った先輩を、信じられない思いで私は見つめ返した。

「いいんですか?」

「もしもきみが私と繋がっていたいなら」

 はい、と言うより前に先輩はこう言った。

「私はきみと繋がっていたいよ」


「……夢なのかな」

 思わず漏れた私のつぶやきは千恵子先輩に聞こえたのだろうか。


「パーカー、忘れてるよ」

 背を向けてグラウンドの反対側を指さした先輩の耳が赤かった。


          (終わり)

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夢のよう おおきたつぐみ @okitatsugumi

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