夢のよう
おおきたつぐみ
第1話 出会い
私の名前は夢乃(ゆめの)という。
息子2人の後に末っ子として生まれた時、母は夢のように嬉しくて、夢乃と名付けたらしい。しかし、私は眉毛が太くてがっちりした兄たちそっくりに生まれ育ち、母が用意した女の子向けのおもちゃには目もくれず、兄たちについて遊び回ったから年がら年中真っ黒で、生傷も絶えなかった。
中学からは陸上部に入り、唯一母の望みで肩まで伸ばしていた髪も部の取り決めでショートにし、毎日の練習でますます日焼けし、背も伸びたので制服を着ない限りはすっかり見かけは男子になった。
長距離走で優勝すると、父は「夢乃が我が家で一番男らしい」と笑った。
母は「せっかく念願の娘を産んだのに、三人兄弟になっちゃった」と苦笑していた。
私は曖昧に笑って何も言わなかった。
私は男の子っぽい格好が好きで、外で走り回るのが好きだったけど、男子になりたいわけではなかった。
でもそれを説明するのはすごく難しかった。
だって、私も自分がどうありたいかはよく分からなかったから。
私服の高校に進学した今、相変わらず陸上部に所属し、ほとんどジャージで過ごす私に女子っぽいアイコンはほとんどない。
──ただ一つ、夢乃という名前を除いては。
自己紹介するとだいたいそれだけで爆笑される。「お前が夢乃ー!?」って。
似合わないのは分かってるし、名前だけで笑いを取れるのはある意味オイシイかも、と思う。
中学の頃から、私は密かに「王子」と呼ばれるようになっていた。
部活の練習を見に来る女の子がいたり、机の中にラブレターが入っていることもあった。待ち伏せされて直接告白されたこともある。
けれど、女の子に恋をしたことはなかった。かといって、男の子に恋したこともなかったけれど。
私はまだ、自分がどうしたいのかわからなかった。
女の子らしくあって欲しいという母の願い、男らしいとか王子とか言われること。
勝手に私を形容するカテゴリが増えていく。
走る時、私は私にかぶせられたカテゴリを一つ一つ脱ぎ捨てて、ただの生き物になっていく気がする。
自分の目の前にはグラウンドがあって、頭の上には青い空があって、すっすっはっはっと空気を吸って、出して、手足を前に出し後ろに蹴って。
勝手に投げかけられた言葉や視線がどんどん後に去り、頭の中がクリアになっていく。
だから、走るのが大好きだった。
放課後、陸上部の練習に行く前に、たまに私は偶然を装って書道部の教室を覗き見る。
今日も佐藤千恵子先輩が一番乗りで準備をしていた。
床に新聞紙を広げ、フェルトの下敷きを敷き、半紙を重ねる。
先輩が背筋を伸ばし、墨を摩る姿が好きだった。
書についてイメージを膨らませているのか、集中力を高めているのか、どこかとても遠いところを見ているような瞳で静かに墨を摩るたび、先輩の周りの空気が冬の寒い日の朝に張った薄い氷のように張り詰めていく。
先輩の集中力を削がないように、私はそっとその場を去る。
千恵子先輩は、唯一私の名前を聞いても笑わなかった人だ。
入学してすぐ、こんないかにも体育会系の私を書道部に勧誘した先輩。
君、書道似合うと思う!体験だけでも!って強引に部室に連れて行かれ、名前を名簿に書かされた時、
「君、夢乃って言うんだ。めっちゃ綺麗な名前! 誰が名付けたの?」
と心底感心した顔で言ってくれた。
そんなことは初めてだった。
由来を伝えたら、いいお母さんだねえと笑顔で言ってくれた。
「すみません、でも私中学から引き続きで陸上をやるんです。走るのが大好きなので」
と告げるととても残念そうな顔をして、じゃあ特別といって半紙を広げ、ちょっと目をつぶって集中した後に、大きく勢いのある字で「夢乃」と書いてくれた。
「うん、やっぱり君にぴったりの名前だね」
そう笑顔で言って私に渡してくれた半紙を、私は大切に持ち帰り、自分の部屋に飾った。
いつもディスって笑いを取ってきた名前だけど、本当はすごく好き。
自分に似合わないのが恥ずかしくて、思いを込めて名付けてくれた母に申し訳なかった。
でも、千恵子先輩が書いてくれた「夢乃」は躍動感があって、子鹿みたいに走ると言われる私に似ていた。
自由に笑って走る私が、半紙の上にいた。
私が夢乃という名前が似合うと、初めて認めてくれた千恵子先輩。
君は君のままでいいんだよと言われた気がしたんです。
誰がどう私をカテゴライズしてこようとも、
私のあり方は私が見つけ、決めていくのだと、あの時から思えるようになりました。
先輩が「君にぴったりの名前だね」って言ってくれた時──私は、夢のように嬉しかったんです。
私は先輩に、何がお返しできますか。
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