ナーラライネンの花巫女

青柳朔

ナーラライネンの花巫女

 ナーラライネン、龍の国。

 ナーラライネン、花の国。

 千年王国ナーラライネン。

 その王様は呪われている。



 千年前。

 ナーラライネンの王は赤龍の大事な龍花を燃やしてしまった。

 赤龍は怒り狂い、王に呪いをかけた。王の身体には鱗が生え、その鱗が全身を覆ったときに息絶える、子々孫々に続く呪いだ。

 しかし一人の少女が赤龍に花を捧げる。のちに花巫女と呼ばれる者の祖だった。少女に捧げられた花を気に入った龍は呪いをほんの少し薄めた。

 龍花が咲くときの王のみが、呪いを身に受ける。

 龍花はおよそ百年単位でしか花をつけない特殊な花だ。百年に一度、呪いによって王が死ぬ。赤龍の怒りを買ったのだからその程度の犠牲は仕方がない。そうしてナーラライネンは呪いを受け入れてきたが、此度はそうもいかない。


 アウリスの身体に赤い龍の鱗が生えたのは十歳の時だった。

 それは足の甲に一枚、何かの飾りのように張りついていて、どれだけ引き剥がそうとしても叶わず、淡々と龍の呪いがその身に宿ったことを告げていた。

 当時の王は病を患っており、王の子はアウリス一人。なるほど、龍の呪いとは的確にその対象を選ぶらしいとアウリスは子どもながらに思った。

 父王は嘆いた。呪いが我が身に宿ったのなら、この病と共に死の淵へと連れて行くのに、と。

 アウリスは嘆かなかった。人はいずれ死ぬのだから、王の子であり未来の王である自分にとっても同じことだ。これがアウリスの、そしてナーラライネンの運命だったのだろうと思うほかない。

 しかし周囲はアウリスの諦観を良しとしなかった。




 シュルヴィが自分の運命を告げられたのは、六歳の時だった。

「――良いですか、シュルヴィ。貴女はきたるべき時がきたら、王の代わりに龍の呪いを宿して死ぬのです」

 未来の王、アウリスに呪いが宿ったらしい。たった一人の王の後継を失うわけにはいかない。もちろん王族の血筋が絶えることも許されない。

「花巫女は龍の寵愛を受ける尊く清らかな身であり、王と同じく国にとって唯一無二。あなたの身体ならば、呪いを移し替えることができるでしょう」

 シュルヴィはもとは身寄りのない娘だ。

 花巫女は赤い瞳を持つ娘が選ばれる。シュルヴィは生まれたばかりの頃にこの神殿の前に捨てられていたのだという。赤い瞳を持っていたから、そのまま花巫女として育てられた。

 唯一無二といえばきこえはいいが、生涯独身を貫き龍と龍花のためだけに人生を捧げる存在だ。かつては国を救った気高き娘と讃えられていたけれど、今となっては誰も引き受けたがらないお役目である。

 もとよりこの身は龍と国に捧げたもの。

 だからシュルヴィは己の運命を嘆くことなく受け入れた。




 王の身に宿る呪いは、おそらく二十歳まで持つかどうか。

 本当ならすぐにでもシュルヴィの身に移すべきなのだろうが、その後また再発でもしたらどうなる、と重鎮たちは頭を悩ませていた。

 結果として、呪いはアウリスの身体をすべて覆いつくす直前にシュルヴィに移されることとなり、シュルヴィにとっての『きたるべき時』は随分と先延ばしになった。

 アウリスが十四歳になると父王は息絶え、呪われた少年は王となる。シュルヴィは十歳になった。

 王の即位式のあった日の夜のことだった。シュルヴィはアウリスに会うことを禁じられているので、その日は一日中王宮に併設されている神殿の中から賑わう声だけを聞いていた。

 シュルヴィが眠っていると、夜風が吹く。おかしい。眠る前に窓は閉めたはずだと顔をあげた。

「――花巫女とは、きみのことか」

 夜の闇に溶け込むような黒衣に身を包んだ人だった。まだ声変わりしたばかりの、少し高めのかすれた少年の声。

「はい、わたしが当代の花巫女です」

「……子どもじゃないか」

「十歳になりました」

 シュルヴィが答えると小さく「……十歳」とその人は呟いた。

 わずかな月明りさえ拒むように、その身体のほとんどは黒衣に隠されている。髪の色すらわからないが、目の色だけは鮮やかな翠色なのだとシュルヴィは気づいた。

「ここから連れ出してやる」

「……なぜ、ですか?」

 シュルヴィはこてん、と首を傾げた。それと同時に、長くまっすぐな銀髪がさらりと揺れる。

 シュルヴィの赤い瞳はあまりにも無垢だった。

 己に課された未来になんの疑いもなく、なんの憂いもなく、ただそういうものなのだと受け入れている。そこにはアウリスのような諦観はない。諦める以前に、シュルヴィは受け止めてしまったのだ。

「誰かを犠牲にして生き永らえる王など必要ない」

 だからきみは、と少年はシュルヴィを見た。少しも迷いのない真摯な、翠色の瞳で。

「……会ったこともない王のために、命まで捧げてやる必要はない」

 その言葉にシュルヴィはきょと、と目を丸くした。赤い瞳に、わずかに幼い色が宿る。しかしそれもすぐに穏やかな微笑みに掻き消されてしまった。

「貴方は不思議な人ですね」

「……不思議?」

「そんなことを言う人ははじめてです」

 ふふ、と笑う幼い少女に少年は言葉を失う。

 誰も。

 誰一人として、この娘に「きみは死ななくてもいいのだ」と言う人間はいなかったのか、と。

「私のことを気遣ってくださってありがとうございます、ですが」

 それは十歳の子どものような幼い口調などではなく、その瞳は、まるで赤龍の鱗のように赤く鋭い強さがあった。


「私の命は既にこの国の龍と龍花、そして王に捧げられたもの。ここを出ていく必要は、ありません」


 月光に照らし出されたその微笑みは、咲き誇る花のような美しさで。

 少年の目には、あとはただ腐り落ちていくだけのように見えた。



 花巫女の役目は龍花を守ること。

 シュルヴィはその役目に加えていずれ王のために死ぬことが定められているが、その日がやって来ない以上は歴代の花巫女と何一つ変わらなかった。

 龍花は王宮の南に植えられている。蔦のように幹を伸ばし、細い枝はまるで天井を作るように花棚へと絡みつく。文献によれば、龍花は鱗を連ねたような赤い花なのだという。

「……きみが花巫女か」

 シュルヴィが青々と茂る龍花の葉の手入れをしていると、そんな声がした。

 振り返るとそこには黒髪の青年がいる。ゆったりとした服は病人のように見えるが青年は健康そうに見えた。その手の甲に覆われた赤い鱗がなければ。

「王陛下」

 シュルヴィは驚いた。

 この人のために死ぬことを定められてかれこれ八年。十四歳となったシュルヴィは今までアウリスと会ったことはない。慈悲深い王がシュルヴィの顔を知り声を知り、人となりを知って、その命を惜しむことがないようにと大人が二人が会うことを禁じたからだ。

 しかしそれは、アウリス本人には容易に破ることのできる決まりだ。彼はナーラライネンの王だから。

 シュルヴィは慌てて跪いた。こうも不躾に見つめていい相手ではない。

「畏まる必要は……イッ!」

「陛下?」

 アウリスは鱗に覆われた手の甲をもう一方の手で抑える。傍にひかえる侍従は真っ青な顔でアウリスを見たが、それだけだ。駆け寄ることもなければ触れることもない。シュルヴィはそっとアウリスに歩み寄る。

「大丈夫ですか? ……痛むのですか?」

「いい、近づくな。ただの人がこれに触ると火傷する」

 龍の鱗は人を焼く。龍花を焼かれた龍の怒りを示すかのように。

「陛下もただの人でしょう」

 鱗に覆われたところは朝から晩まで焼かれるような痛みをアウリスに与えているということだ。

 惨すぎる。

 シュルヴィはそっと手を伸ばし、アウリスの手に触れた。硬い鱗はシュルヴィの白い手を切り裂くことも、焼くこともなく受け入れたように見える。

「痛みが、消えた……?」

 アウリスは呆然と呟く。

「なんと……花巫女の力は呪いにも効果が……!?」

 力なんて、とシュルヴィは困惑する。

 そんなものはない。シュルヴィは赤い瞳をしているだけの、ただの人だ。アウリスのように尊い血を連ねた者ではないし、むしろこの場にいる誰よりも生まれは卑しいだろう。

 アウリスの翠色の瞳がシュルヴィを見つめてきた。

「名は、なんという」

「……シュルヴィと申します」

 捨てられた子であり、花巫女であるシュルヴィには家名がない。己を示す名はこれだけだった。




 それからアウリスはシュルヴィを傍におくようになった。

 既に龍の鱗はアウリスの手足を覆い尽くしている。シュルヴィは触れるだけでその痛みを和らげてくれるのだと言われれば誰も強く抗議はできなかった。呪いをシュルヴィに移す前に王に発狂されては元も子もない。

「気味が悪いだろう」

 シュルヴィがアウリスの背を覆い始めた鱗に触れていると、アウリスは自嘲気味に呟いた。

「手足は既に鱗だらけ。背や腹にも生えてきているし、とても人間には見えない」

「……痛みますか」

「どこもかしこもじくじくと焼かれている気分だ」

 アウリスの本来の肌が見えているところはもう半分もない。身体の半分を常に焼かれる痛みを、シュルヴィはとても想像できなかった。

 シュルヴィが触れれば少しは痛みは遠のく。しかし、消し去ることはできない。

「龍の呪いは、嘆かわしいものです」

 アウリスの背を撫で、シュルヴィは呟いた。

「けれど、陛下の身体を覆う鱗は、美しいと思います」

 誰もが畏れるその鱗は陽の光があたるときらりと輝く。その様をゆっくりを見つめるのが、シュルヴィは好きだった。

「……物好きだな」

 苦笑交じりのアウリスの呟きが小さく部屋に落ちる。

 アウリスの身体は、その身を覆う鱗は、気味が悪いものなどではない。そんな思いが少しでも伝わればいいと、シュルヴィはアウリスの背に口づけた。赤い鱗はシュルヴィの柔らかい唇を傷つけることがない。

「――何を」

 低い声が響き、シュルヴィはハッとした。

「何を、した?」

「も、申し訳ありません」

「問いに答えろ」

「……陛下の背の鱗に、口づけを」

 それはシュルヴィにとって祈りのようなものだった。決して疚しいものがあったわけではない。

「ああ、なるほど。そういえば西の国には口づけは呪いを解く力があるなんて物語もあるらしい」

「口づけが?」

 そんな効果があるのかとシュルヴィは目を丸くした。物語に触れることもなく育てられたシュルヴィにはまったくない知識だ。

「――試してみようか?」

 いつの間にか振り返っていたアウリスがシュルヴィを見下ろす。翠色の瞳は逆光の中でも強く輝いて見えた。

 え、とシュルヴィが呟くよりも早く、その小さな唇は塞がれる。

 はじめて触れ合った唇は火傷しそうなほど熱かった。



 それからおよそ二年。シュルヴィは日に二度ほど、アウリスから口づけを受けるようになった。

 アウリスの言うとおり、シュルヴィの口づけには効果があった。全身を焼く痛みがしばしの間、消えるのだそうだ。朝と晩に、まるで恋人のようにアウリスはシュルヴィの唇を求めてきたしシュルヴィもそれを拒むことはできなかった。

 近々アウリスは二十歳を迎える。王の身を蝕む呪いは既に頬を覆い、もとの健康な肌が見えるところはほとんどなかった。

 その姿にもはや陛下は人ではなく龍なのではなどと恐れる者もいたが、その力強さと頼もしさに心酔する者も多い。呪いの痛みにすら打ち勝つその精神力は、まさに覇王そのもの。我らが王に栄光あれ、と。

 彼らの祈りを知れば知るほど、シュルヴィは己の身が誇らしくなる。


 この口づけはアウリスの痛みを取り除くもの。

 この身は、アウリスの命を未来へと繋げるもの。


「……きみは、たまには嫌だと言ってもいいんじゃないのか」

 重ねていた唇が去っていくと同時に息を吐く。

 アウリスは鼻先がこすれあいそうな距離でシュルヴィを見つめていた。その翠の瞳を見つめ返して、シュルヴィはその言葉を反芻する。

 ――嫌だと。

 言ってもいいんじゃないか、と。

「なぜ、でしょうか」

 かすれた声でシュルヴィは問う。その、本当に不思議だと思っているような声にアウリスは戸惑うように眉を寄せた。

「好きでもない男にいいようにされて、挙句最後はその男のために死ねと望まれているのに」

 シュルヴィは泣き言ひとつ吐き出さない。アウリスと会うときの彼女は常に穏やかな笑みを浮かべ、気遣うように彼に触れ、慰めるように口づけを受ける。

 どうしてこんな目に、どうしてわたしが、と。呪いの言葉を吐き出しても無理はない役目だというのに。

「貴方のために生きて、貴方の代わりに死ねる。私にとって、これ以上のよろこびはありません」

 清らかな声で、蕩けるような微笑みを浮かべて、シュルヴィは告げる。

 その表情からわずかな迷いも憂いも感じないことが、アウリスから言葉を奪う。咲き誇る花は何年経っても美しいまま。枯れることも腐ることもなくこうして王を魅了してした。

 アウリスは祈るようにシュルヴィの肩に額を擦りつける。小さな手をきつく握りしめて、喉に張り付いた声を振り絞った。

「頼むから」

 懇願する声は覇王と呼ばれる彼には相応しくないほど弱々しくか細い。アウリスのこんな姿を、シュルヴィ以外の人間は知らない。

「生きたいと、願ってくれ」


 それは。

 それは、シュルヴィには願えない。


 なぜならシュルヴィが自分の命を望むということは、目の前にいる青年の命を諦めるということだから。

「……貴方は不思議な人ですね」

 願えない代わりに、シュルヴィは口を開く。

「そんなことを言うのは、貴方くらいなものです」

 それはアウリスと出会ったときに告げたのと、同じ言葉だった。

「……気づいていたのか」

「瞳の色が、同じでしたから」

 透き通るように光を宿し、それでいて深い海の底のような、深い森の奥のような美しい翠。アウリスの瞳は一度見れば決して忘れることはない色だ。

「私のことなど道具とお思いください。この命のことなど捨て置きください。貴方が王として進む道に転がる、小さな石ころのようなものです」

 その言葉に、アウリスは奥歯を噛んだ。

 握りしめるシュルヴィの手を持ち上げ、自分の胸に押し当てる。既に龍の鱗は身体中に広がっていて、常人はそれに触れれば火傷をする。

「俺は、民の命を――まして愛しい女の命を、石ころだなんて思わない」



「――龍花が咲きました。一刻も早く王の身を苛む呪いを移さねばなりません」

 朝一番に告げられた臣下からの言葉に、アウリスは目を閉じた。王という立場からその言葉を拒むことはできない。

「儀式は夕刻に執り行います。王はそれまで安静になさってください」


 龍花が咲く。

 花棚から零れるように連なる赤い花が、まるで龍の鱗を重ねたように見える。天を仰げば広がる葉の緑と龍花の赤、そしてまばゆい陽光。百年に一度のその光景はシュルヴィの胸を満たしても満たしたりないほどに美しい。 

 シュルヴィは龍花の下で空を見上げて静かに立ち尽くしていた。

 心は落ち着いていた。わずかな風にも揺れ動かされることのない水面のように静まり返っている。

「シュルヴィ」

 名を呼ばれて振り返る。

 そこには疲れ切った顔をしたアウリスがいた。頬も額も鱗に覆われていて、表情を窺えるものは少ないのに、シュルヴィには彼が疲弊していると感じた。

「……朝から誰も彼も『おめでとうございます』だ、そうだ。笑えない冗談だな」

「陛下が呪いから解放されるのですから、祝いの言葉は間違いではありませんよ」

 シュルヴィは苦笑とともにそう答える。

 おめでとうなどと、彼は死んでも言われたくないだろう。誰かの命を犠牲にして生き永らえることを心の底では嫌悪し続けてきた彼にとっては、その言葉こそが呪いだ。

 シュルヴィ、とまた呼ばれたので歩み寄る。

 こうして並ぶとアウリスは背が高く、シュルヴィは見上げなければ彼の顔が見えない。するりと伸びてきた手に目を閉じながら身を任せた。今日はまだ一度も口づけていない。

 シュルヴィの頬を撫でる指先にも硬い鱗は生えていて、アウリスが頬や唇に触れるたびに少しざらりとした感触がある。

 唇を啄む、そのやわらかさだけは同じだ。

 それを知るのは自分だけなのだという仄暗い優越感が胸をよぎる。呪いに侵されたアウリスに妃はいない。彼はシュルヴィ以外に触れることができなかったから、先延ばしにされ続けてきた問題だ。

 それももう、今夜には解決する。

 シュルヴィの命をもって、アウリスを呪いから救う。

 深くなる口づけにシュルヴィは酸素を求めてあえぐ。縋りつくようにアウリスの服を掴んで震えた。きっとこれが最後の口づけだと思いながら涙を飲み込む。

 唇が離れていくのを感じて目を開ける。翠色の瞳が濡れたようにきらめていた。


 ――たとえ、今日死んでも。

 この人の記憶に生涯残ることができるなら、それはなんてしあわせなことだろう。シュルヴィにはこれ以上の幸福を見い出せない。 


 息を吸いながら手を伸ばして、アウリスの頬に触れる。硬い鱗の感触を指先で感じながらシュルヴィは微笑んだ。

 どうか悲しまないで欲しい。シュルヴィは幸福だ。他でもないアウリスのために死ねるのだから、しあわせだ。

 欠片でもこの思いが伝わるようにと願い両手でその頬を包み込む。濡れた翠の瞳から流れ落ちた一滴がシュルヴィの手に届く。

 ざり、とシュルヴィの手のひらに鱗が剥がれ落ちた。

「……え?」

 驚きに目を丸くする。アウリスも剥がれる感覚があったのか、息を呑んでいた。

 シュルヴィによって呪いによる痛みを和らげることはあっても、鱗が剥がれ落ちることなど今まで一度たりとてった。

 シュルヴィの手のひらの上に落ちた鱗を見つめて、アウリスは何かを決意したように口を開いた。

「シュルヴィ、ついてきてほしい場所がある」




 ――ナーラライネンの王宮には龍が眠っている。


 それは覆ることのない事実であるとともに、多くの者にとってはただのお伽噺でもあった。

 龍の眠る地下宮殿は龍花の咲く場所の真下にある。その地下への入口は厳重に閉ざされ、鍵は王が持つただひとつしかない。

「鱗が剥がれるということは、呪いが薄れているということだろう」

 アウリスは鍵を開けると、シュルヴィの手を取り地下へと歩み出した。手元の灯りがあってもなお暗いと感じる闇の中目をこらすと、地下へと繋がる石の階段が続いているのがわかる。

「記録ではここまで呪いが広がった王は起き上がることすらできなくなっていたそうだ。たとえおまえがいたからだとしても、俺がこうして動き回れるのはおかしいんだ」

 全身を焼く痛みはあれど、アウリスは歩けないわけではない。痛みに慣れたかといえば、そういうわけでもなかった。生きたまま身体を焼かれることに慣れるはずもない。

「そうだとしても、龍のもとを訪ねてどうするおつもりですか。さらに怒りを買う可能性だって……」

 アウリスに手を引かれ、階段をゆっくりと降りながらシュルヴィは不安げに声を零す。

「その時は死ぬだけだ」

「それはあってはならないことです!」

 シュルヴィは声を荒げる。それはとても珍しいことだった。凪いだ水面のような彼女が感情を大きく揺るがすことはほとんどない。

 しかしその怒りと動揺は、苦笑交じりのアウリスの表情を見て鎮まる。

「――千年だ」

 アウリスは灯りで階段を照らしながら呟いた。

「千年だぞ。もうそろそろ、終わりにしてもいいじゃないか」

 どんな形であれ。それが、呪いを解かれることであっても、さらなる呪いによって王の血が絶えることであっても、どちらでもいい。

 ナーラライネンは龍の呪いから解放されてもいいのではないか。

 その声に、シュルヴィは何も言えなかった。アウリスの背負い続けてきたものを、シュルヴィには理解できない。石ころの自分には、きっと生涯をかけても理解できないものだ。

「そんな顔をするな。別に諦めたわけでも絶望したわけでもない」

 アウリスは苦笑まじりにそう言った。暗がりでシュルヴィの顔などよく見えないだろうに、まるで震える睫毛の一本一本すらしっかり目に焼きつけるような眼差しだった。

「なぁシュルヴィ。生きたいと願ってくれ」

 繋いだ手は鱗のせいでぬくもりが伝わらない。だからアウリスは、伝われと願いながらその手に力をこめる。その力強さだけが、シュルヴィにアウリスの意思のかたさを告げる。

「俺と共に生きたいと、願ってくれ」

 シュルヴィは生き永らえることを望んだことはない。

 自分の運命を定められた日から、シュルヴィの役目は決まっていた。

 他の誰もがシュルヴィが死ぬことは仕方がないことだと言うなかで、アウリスはただ一人、シュルヴィを救おうとしてくれた人だ。役目を投げ捨てて生きていいのだと訴えてきてくれた人だ。アウリスに出会ったあの夜から、この人のために生きて死ねることをしあわせだと思ってきた。


 それでも。

 それでも叶うなら。


「……願っても、いいんですか」

 震える声で問いかける。

 たとえば陽だまりのなかで眠る貴方を見守りながら明日を夢見たり。

 たとえば微笑む貴方と共にこの国がどんな素晴らしい国になっていくのかと語り合ったり。

 そんな風にして、貴方と共に生きる未来を思い描いてもいいですか、と。

 それはシュルヴィにとっては大それた願いだし、決して叶うことのない夢だったけれど。

 アウリスは泣き出しそうな顔で、それでもわずかな幸福を噛み締めるように微笑んだ。

「きっと俺たちは、もっと欲張りになったくらいでちょうどいい」

 その声は力強く頼もしくて、シュルヴィはそれだけで許されるような気がした。



 階段が残り僅かだと気づいたのは、既にその姿が見え始めていたからだ。

「――赤龍」

 シュルヴィが、圧倒されるように呟いた。

 小さな灯りであってもその存在感は十分すぎるほどに伝わる。何もない地下の空間には大きな龍がとぐろを巻くように眠っていた。

 二人が階段を降り切ったところに、龍の顔があった。

 大きな目がぎょろりと開く。黄金の瞳が何度か瞬きを繰り返したあとで、アウリスとシュルヴィを見た。

「……ここに誰かがやってくるのは幾年ぶりか」

 低い声が地下の空間に響くように広がる。

「その広がり具合ではもう立っていることも辛いはずだが。なるほど、そなたたちもようやく愛を見つけたか」

 黄金の瞳がアウリスの背に庇われるシュルヴィを見た。その目はわずかに穏やかなものにも見えてアウリスは困惑する。

 龍と穏便に対話ができることはありがたい。しかし龍と人は――龍と王は相容れないものだ。

「……なんの話だ? 呪いの効力が弱まったのは、龍の怒りが和らいだからではないのか」

「いとしきものを焼き殺された怒りが千年ごときで和らぐものか。その呪いは真に愛するものの愛で解けるもの。そなたたち人間が、愛よりも血を繋いでいくことを優先したからこうも長く続いたのだろう」

 愚かなことだ、と龍は低く嗤う。

 愛。

 呪いを解くために必要だったのは、時間でもまじないでもなかった。

「……それは王として生きる者には、あまりに縁遠い」

 ぽつりとアウリスが呟く。

 王とは孤独な生き物だ。時に優しく、時に厳しく、時には何百何千の命を天秤にかけなければならない。

 だから己の感情には鈍感になるし、無意識に誰かを特別視することを避ける。すべては王として正しくあるために。ナーラライネンの歴代の王は、王として優秀だった。

 たった一人へ愛を傾けることも、たった一人から愛を注がれることも、王にとっては遥か遠い向こう岸の夢物語。

 赤龍は顎を持ち上げるように天を見る。そこにあるのは暗闇だけで、何かがあるわけではない。しかし赤龍はいとおしい何かに焦がれるように目を細めた。

「……千年待っても叶わなんだ」

「千年、何を待っていらっしゃったんですか」

 シュルヴィが問いかけると、龍は黄金の目をシュルヴィに向けた。

「我が花精が再びこの地に戻ることだ。あれはこの場所を愛していたから、再び生を得ることがあるならきっとここへ戻ってくるだろうと」

 千年前のナーラライネンの王が焼いた花には、赤龍の愛した精霊が宿っていたのだという。龍が番と定めた唯一だった。

「しかし千年待っても花にあれが宿る気配はない。……もう天に昇ったのかもしれぬ」

 千年前は龍という存在は希少なものであっても存在していた。けれど今や、その存在は神話やお伽噺の中だけのものとなっている。世にある神秘はもう何百年も前に天へと昇り地上を捨てたと言われていた。

「ならば貴方様も天へ昇られるのですか」

「これ以上地の底で眠っていても番との再会は果たされぬ」

 まるで千年という時でこの地を去ることを決めていたかのような口ぶりだった。

「待て、それならこの呪いは――」

 アウリスが慌てるように声を上げる。愛によって解ける呪い。そしてその呪いをかけた龍はもうこの地への執着をなくした。

「愛を見つけ愛するものを得たのだから、呪いは解ける。その鱗は……まぁいとしきものの口づけひとつで、少しずつ剥がれ落ちていくだろうさ」

 龍はのそりと起き上がり、天を仰ぐ。その様子にアウリスは、はっと息を飲む。

「シュルヴィ、地上に戻るぞ!」

 アウリスはシュルヴィの手を取ると階段を駆け上った。その姿を見る龍の目が楽し気に細められたような気がした。


 二人が息を切らしながら地上に戻り、龍花の咲き乱れるその場所から離れた瞬間だった。

 地下から唸り声のような音がすると同時に、地面が割れた。

 花のように鮮やかな赤い鱗を纏う龍は、龍花を抱えて天へと昇る。その姿はナーラライネンのあちこちで見えたという。

 いつの間にか空は赤く染まっていた。ひとつの赤い光が、赤い空に溶け込むように小さくなっていく。天に昇る光は千年続いた神話の終わりを告げていた。


 龍の姿を見送りながら、アウリスはぽつりと呟く。

「……口づけひとつで少しずつ、か」

「陛下?」

 シュルヴィが見上げると、アウリスはにやりと笑った。

「それなら、今夜一晩もあれば十分だ」

「え」

 繋いだままの手を持ち上げて、アウリスはシュルヴィの手の甲に口づけを落とす。

 王宮は突然の赤龍の姿に騒然としていた。落ち着き払っているのはアウリスくらいだ。

「陛下! あれはいったい――」

「龍は天へと昇った。儀式は中止だ。もう呪いでこの身が死に至ることはない」

 集まってきた臣下にきっぱりと言い放ち、割れた地面の傍には立ち入らないように厳命する。龍が去った以上、地下宮殿は必要ない。埋めるなりの措置はおいおい考えればいいだろう。

 アウリスには、これからたくさんの時間があるのだから。

 一通りの指示を出すと、アウリスはシュルヴィの身体を抱き上げる。

「今夜は部屋に誰も近づけるな」

 シュルヴィが口を挟む暇もなく、まるで生贄のように運ばれる。王を止めることのできる者などいなかった。

 アウリスの寝室はシュルヴィも何度も入ったことがある。しかしそれは呪いの痛みを和らげるためで、看護のためだ。恭しく寝台におろされ、シュルヴィはアウリスを見上げた。

「へ、陛下。お待ちください」

「待たない」

 もう十分待った、と耳元で囁かれ、シュルヴィは言葉を飲み込んだ。少しざらりとした、鱗に覆われた指先がシュルヴィの頬を撫でる。

「――嫌か」

 それは、嫌ならまだここで止めてやれる、という宣言でもあった。けれど翠の瞳は乞うようにシュルヴィを見下ろしている。

 アウリスの手に自分の手を重ね、シュルヴィは微笑む。アウリスに乞われ、それを否定せずにいられることが嬉しかった。

 いやだなんて、とシュルヴィは呟く。

 そんなこと思うはずがない。

「私のすべては既に貴方に捧げられたものです。……ご存じありませんでした?」

 花咲くように微笑み、蕩けるように告げる。

「それは、知らなかったな」

 くすりとひとつ笑みを零して、アウリスはゆっくりと何かを誓うように口づけを落とす。

 長い夜のはじまりだった。




 白いシーツの上に赤い鱗がまるで花びらのように散っている。

 シュルヴィが起き上がると、銀の髪にもいくつか鱗が絡みついていた。昨晩のうちに剥がれ落ちた鱗のひとつだ。髪に絡まる鱗をつまんで陽の光に翳してみる。龍花の赤のように鮮やかでありながら、シュルヴィには世界にひとつしかない赤に見える。

「きみは本当に物好きだな」

 隣で眠っていたアウリスがシュルヴィを見つめながら笑った。その頬を覆っていたはずの鱗は剥がれ落ちて、健康そうな肌が見えている。まだ手足にはわずかに残っているものの、龍の鱗は一晩でそのほとんどが剥がれ落ちた。

「そうですか? 私はこの赤よりも美しい色を知りませんよ」

 どんな宝石よりも綺麗だと思う。すべてを、大事にとっておきたいくらいには。

 アウリスは「そうか?」と笑いながらシュルヴィの髪についた鱗を一枚取り上げる。そしてそんな小さな鱗さえ欲しがるシュルヴィの手のひらの上にそっと置きながら、細い肩を抱き寄せた。

「俺はそれよりもとびきり美しい赤を知っているよ」

 甘く囁きながらアウリスはシュルヴィの瞼に口づけを落とした。



 ナーラライネン、龍が去る。

 ナーラライネン、花が散る。


 千年王国の千年目の王様は、呪いを昇華し国を豊かにした。

 王が生涯愛したただ一人の王妃は、それはそれは美しい赤い瞳をしていたのだという。


 

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ナーラライネンの花巫女 青柳朔 @hajime-ao

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