名前のない愛の話

海沈生物

第一話

 愛が定義するものについて考えている。そういうと、会社の人たちは「変わっているね」と私のことを笑う。それでも、私は考える。考えている内にいつの間にか、私の部屋の中には存在しない”彼女”が生まれた。名前もないし私の脳みそから生まれたような存在なので、無難でありふれた”ナナシ”と呼んでいる。


 ナナシは人嫌いだ。とにかく人が嫌いで、主である私さえ触れることを拒んでくる。その癖、私が寝ている時には猫のように脚の生み出したカーブの中に綺麗に収まってくる。寝返りをうつことができなくて厄介だが、一応は私が生んだような存在だ。これで蹴り飛ばすような行為をすれば「児童虐待」として私は彼女と引き離され、残るのは服一枚とマトモな社会からの追放だけだ。ヤの付く職業かホの付く存在になるしかない。


 そんな彼女との奇妙な生活を過ごしていたある日、言葉すら喋ってくれなかった彼女が「あのさ」と話しかけてきた。食べていたバニラアイスを容器に戻すと蓋をして、「あげないよ?」と返答する。ナナシは顔をしかめさせると「そんなものいらないよ」とそっぽを向いてしまった。結局、何がしたかったのか分からない。ただそれを追求するほどの元気が私にはなかった。


 翌日もバニラアイスを食べていると、「あのさ」とまた話しかけてきた。まったく残業後の唯一の楽しみを邪魔するなんてと思っていると、そんな感情を察したのか「別にいい」とふらりと去っていく。結局、何がしたかったのか分からない。ただそれを追求するほどの元気が私にはなかった。


 その翌日もバニラアイスを食べていると、「あのさ」とまたまた話しかけてきた。そしてまた、「別にいい」とふらりと去っていこうとする。今日は若干の元気が残っていたし、なにより、これ以上に私の唯一の楽しみの邪魔をされると、私の精神が狂気に呑まれて発狂死してしまいそうだと思ったのだ。


「別に良くないよ。言葉にしないと、伝わるものも伝わらない」


「そうかな? 言葉の裏側に意味を持たせる方が伝わる時もあるよ」


「伝わらなかったら、それは無意味になるんじゃないの?」


「伝わるよ。伝えたいという意思があるなら、伝わらなくても伝わるはずだから」


「そんな感情論じみた答えだと答えになってなくない?」


「愛を考えている貴女には言われたくないなぁ」


 あぁ、もう。別に論破するとか論破しないとか、そういう事をしたいわけじゃないのに。言葉がうざったるい、伝わらない。いっそ、キスでもしたのなら合体して”本当の思考”を取り戻せないかな。そもそも、私の脳みそから彼女が分裂した存在なのだ。キスをして取り込めば愛について理解ができるかもしれない。なにやら達観しているようだし。強い矛盾を抱えた衝動が身体を突き動かした。


 嫌がる彼女に近付くと、私は彼女の唇を奪った。自分で自分にキスする、なんて同人誌で見るタイプのニッチでマイノリティな性癖だ。それでも、こういうの好きな人は狂うほど好きなんだろうな、と思う。思うだけで別に私自身はこの行為に興奮するわけでもないが。

 キスをすると案の定、私の中にナナシは戻った。もちろん、魔法少女にはなれていない。そんな素質があるなら、愛について考える前に魔物とか強大な敵と戦っていたはずだし。


 私は二つが一つの存在に戻った思考で”愛”について考えてみると、ナナシとのキスの感触が思い浮かんだ。そのことに際して心臓がドキドキすることはなかったが、なんだかんだであれがファーストキスだったことを思い出す。それはとても「私」という純粋無垢な存在を汚したようで、そういう点では胸が高鳴った。自分で自分を破壊して、その背徳感に溺れていく。なるほどなぁと完全理解の声を漏らすと、もうバニラアイスはいいかなぁと溶かして水に流してしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

名前のない愛の話 海沈生物 @sweetmaron1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ