梔子、鯨の声で歌う
声が聞こえる。風のような声だった。心の隙間にささらかに吹くような少し渇いた声。ふとした瞬間に逃してしまいそうなその声を聞くのは久々だった。声の主はどうやら上機嫌らしい。
その声の元を辿って家の中をめぐる。音が少しくぐもっているから浴室だろうか。脱衣場の前までやってくると、たしかにここから声が聞こえてくるようだった。
戸の横の壁に背を預けて天井を眺める。その声は歌声らしかった。注意して聞かなければ取りこぼすほどの音量で、あるんだかないんだかわからないような抑揚をつけて謡ってるのは僕の伴侶の梔子だ。彼女は謡うことがいっとう好きだった。
風の囁きのような。透明な煙のような。鯨が謡うような声。きっとこの声は天井から染み出して世界に渡り、同じく52Hzで謡う同志の元へと届くのだ。
歌詞の聞こえない歌。音程のない歌。ただの空気の通る音にも聞こえるそれを、鯨の声と喩えてやったら彼女は大変喜んだ。今はここにいない仲間のためにと他の誰にも聞こえない声で謡う鯨のようだと言ったら、彼女は目を細めて優しく笑った。
まだみないはらからのために謡う彼女は、最後には決まって涙を流した。その涙を、すくってやりたくて、一緒になったはずなのに。どうだろう。ぼくは、それを一度たりとも成功させた試しはない。
「梔子。そろそろ上がらないと。茹蛸になってしまうよ。」
ぱしゃん、ぱしゃん、と2回水面を叩く音がする。『了承』の合図だ。
ぼくはその場から静かに去り、居間へと戻った。
彼女のことを救えなくても、涙は掬ってやりたいだなんてそんな傲慢は許されるのだろうか。
三題噺 朶稲 晴 @Kahamame
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