∋『義経』試読版

柊 佳祐(紡 tsumugi)

第1話「腰越状」


第1話「腰越状こしごえじょう


「私がもっとも先に思い出す古い記憶は、決まって あの夜のことだ」


「新しい住処すみかへと移り、新しい暮らしが始まり、丁度ちょうどそれが慣れてきた頃のことだった……」


 兄(頼朝)に「一番古い記憶は何ですか?」と、問うと「そんなものはない」と一蹴いっしゅうされた。

 しかし私(義経よしつね)は、その兄の口調と表情に……ある種の苦々しさを覚えた。

 私はそのことに安堵した。兄も私と同様に、屈辱くつじょくを受けたのだ。


 と、ますます親近しんきんの念を覚えたものだ。


 兄と酒を飲みわし、兄弟として言葉をわしたのは、初めてお顔を拝謁はいえつした、あの夜だけだったように思う。


 しかし我々(源氏)にとって、それだけで『全ての事は足りているのだ』……少なくとも、私にとっては、そう、今まで思ってきた。


 だが……


 義経は何事かを逡巡しゅんじゅんしているようだった。


弁慶べんけい、すまない。話が逸脱いつだつしてしまいそうだ……」


 義経は自嘲じちょう微笑えみを浮かべた。


 この素朴そぼくかつ、あどけないを表情を浮かべる青年が、とても『一軍の将として何千何万という兵』を指揮し、『何百千万という敵(平氏)を、女子供も関係なく無慈悲むじひほろぼくした者』とは、到底とうてい見えない。


 だから、私(弁慶)はこう言った。


「その含めて私がここに記しますので、どうかありのままの九郎(義経)様の心をお話しなさってください」


 弁慶は、岩のようにゴツゴツした肌を繊細に動かし、極めて適切に穏やかに、破顔はがんした。もう十余年じゅうよねん近く長く仕えながらも、そういった表情一つまでを絶えず、丹念に配慮はいりょし、接する理由は明確だった。

 なぜなら弁慶の内には、義経へのあふれんばかりの敬意と畏怖いふがあるからだ。それは今もなお、刻一刻と強まるばかりで、少し気をゆるめれば涙が抑えられなくなってしまう程であった。


「わかった、続きを話す」


 義経は、真っ白な死装束のような薄い寝衣姿だった。

 正座から脚を組み替え胡座あぐらをかき、すーっと一度だけ美しい息を吐いて目を閉じた。


 そしてそこからまた少しだけ間を空けて、肩の力を抜き再び語り始めた。


「私はあの夜、いや……あの頃はいつも……いや、しかしあの夜は……私をなお一層いっそう 寂しくさせた……。私は母が恋しかった。だからあの夜、私は寝室を抜け、あの広い平氏の家の中で。他のどの女より、母の匂いは……ほのかに甘くやわかったから、私には余程よほど 距離がない限り、母が何処どこにいるのか、わかったのだ」


 そこで一度唇を閉ざし 義経は眉をひそめた。呼吸が震えると心拍も乱れ始めた。弁慶は不覚にもその姿に見入ってしまった。


(美しい)


――これが、この方のなのだ。


 と、ある種の感動を覚え 息を飲む。


 そのなんの言語性もない『間』は、義経と弁慶との間にしか成立し得ないものだった。


 そんな尊いひとときは、義経の開口によって断ち切られる。


「……しかし私は その心地良い母のにおいに近づく度に、『混じるはずのないくささがある』ことに気づいたのだ……」


固く閉じた瞼は 否が応にでもそれを口に出そうとする信念が感ぜられた。


「そして、母がいるはずの部屋の前に着いた……その部屋の障子は、まるで私をねらいすませたかのように……丁度 中をのぞけるような……いや、恐らくその、部屋内のした空気をただ、にも逃すためだったのだろう……」


「私はあの時ほど、体 全ての筋と骨が、硬直こうちょくしたことはない」


 『壇ノ浦だんのうら』で女子供、あの幼き安徳天皇でさえも死に追いやった、このお方が、今それを口にしているのだ。


 弁慶の筆がわずかかにブレた。



第1話「腰越状」――了――



※これはパイロット版です。


続きは書いてありますが……時と、一定の品質に達したら投稿します。

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