第17話


 明確な意識は翌朝の目覚めとともに始まる。照義は民宿の布団の中で目を覚ました。彼は虚ろな目で部屋を眺めて、無事に帰って来たんだな、と思った。頭を廻らして周囲を見た。枕元に服が脱ぎ捨てられていた。彼は半身を起こして財布を捜そうとした。それは捜すまでもなく座卓の上にあった。照義はそれで安心して、もう一眠りしようと布団の中にもぐりこんだ。が間もなく、ある予感のようなものが彼の脳裏で閃いた。照義は撥ね起きて財布の中身を調べた。空だった。小銭入れに硬貨が数枚あるだけだった。頭が棒で殴られたように痺れた。宿の払いはもちろん済んでなかった。帰りの交通費も必要だった。愕然として座りこんだ彼の目に、敷き布団の足のほうに付着した嘔吐物が映った。昨夜何が起こったかが見えてきた。照義は布団に崩れ落ちたくなる体を何とか支えるようにして座っていた。岩谷にやられたという思いが彼を促えていた。新学年の闘いが始まる前に、そのプレッシャーに負けてしまった自分を彼は感じていた。

 凝然と座している数分間が過ぎた。いつまでもそうしているわけにもいかなかった。事態はすでに明白であり、自分が今からしなければならない行動も明らかだった。照義は大きく吐息をつくと腰を上げた。シャツを着て、ズボンを穿こうとする時、二度ほどよろけた。

 照義は帳場の方に出て行った。帳場には誰もいなかった。彼は帳場の隣の主人夫婦の居間になっているらしい部屋に戸越しに声をかけた。小さな声しか出なかった。二、三度繰り返すと中で返事がした。引き戸が開いて、宿の主人が顔を出した。彼は照義の顔を見ると、しかめ面とも苦笑ともつかぬ表情を浮かべた。

「きのうはどうも遅くなりまして、ご迷惑をおかけしました。」

 照義はそう言って頭を下げた。普通に言ったつもりだったが、やはり消え入るような声しか出ていなかった。

「どうしたの、いい年をして。びっくりしたよ。二時頃タクシーで帰ってきて、大声出すんだから。寝かせようとしても寝ないで、廊下は大きな音を立てて歩き回るし」

 主人の言葉が照義には身を貫く針のようだった。昨夜の自分の振舞いが浮かび上がり、身の置き所のないような面目なさを彼は感じた。

「どうもお恥ずかしいことで、申し訳ありません」

 照義はもう一度頭を下げて、その場はそれだけで部屋に引き返した。所持金がないこと、布団を汚してしまったことなども告げるつもりだったが、恥じの上塗りで、とても口に出せなかった。

 部屋に戻った照義は落着かなかった。未練気にもう一度財布の中を覗いてみた。昨夜出かけた時には一万五千円ほどあったはずだった。ここに一万円札一枚があれば全ては0Kなのに、と思いながら照義は空の財布の底を眺めた。あの店で有り金全部取られたのではないかという思いが浮かんだ。そう思うと昨夜の女将や漁師の男がとんでもない食わせ者のように思われた。彼は最後はどうなったのか昨夜の店に確かめに行ってみようかと思った。その考えが孕む不穏さを自分でも感じながら、それでも今なら場所も分かるはずだと思った。しかし、あの店を出てからスナックに行っているらしいこと、タクシーで帰ってきたことなどを考えると、その時まで金はあったと考えられ、女将達を疑うのはお門違いのようだった。宿の主人に言われた「いい年をして」という言葉も彼の頭の中で反響を起こしていた。実際いい年をして、高校生に翻弄されている感じの自分の不甲斐なさを彼は思わざるを得なかった。俺は年相応に持つべきものを欠いているのかも知れないと照義は思った。

 あれこれ考えていても仕方のないことだった。結論的には自分の愚かさに帰着するのだった。今、実際問題として彼に迫られているのは、宿の主人に金がないことを告げ、善後策を講じることだった。照義は重い腰を上げた。そして刑場に向う受刑者のような気持で再び宿の主人の部屋に向った。             

「すみません」

 さっきと同じように照義は戸越しに声をかけた。主人が顔を出した。

「あの、実はお金がないんですが」

 照義は言葉に詰まりながら言った。

「え」

 主人は驚いた表情で照義を見た。何を考えているんだ、この男は、というような怪訝な色がその顔を流れた。

「お金がないって、あなた」

 主人はそう言って絶句した。

「いや、もちろん家に帰ればあるんですが」

 照義は慌てて意味のないことを口にしていた。

「そりゃそうでしょうが」

 主人は苦い表情でそう言い、一呼吸おいて、

「全然ないんですか。帰りの運賃なども」

 と訊いた。照義が頷くと、

「そりゃまた大変なことになりましたな」

 と苦笑を浮かべた。

「どこか連絡先はないんですか」

 少し考える様子をしてから主人は尋ねた。

「家に家内がいますが」

 と照義が答えると、

「それじゃあ、こうしてください。うちの銀行口座を教えるから、そこにお金を振り込んでくれるよう奥さんに連絡してくれませんか。あなたも帰りの運賃がいるだろうし、こちらもまだあなたがどんな人か分からないし」

 宿の主人は少し笑みを浮かべて言った。そうなるのか、と照義は思った。彼は気持のどこかで、ここは支払いを猶予してくれて、家に帰ってから宿へ送金するというような展開を漠然と考えていた。しかしそれはやはり現実離れした考えで、初めて泊った彼を宿の主人がそこまで信用する理由はないし、行状を見ればむしろ不信感を抱いて当然なのだった。彼は主人の提案を承諾する他はなかった。     「振り込みが確認された時点で精算しましょう」

 と主人は言って話は落着した。

 照義には妻の久美子への連絡という心重い仕事が残されていた。彼は少し浮足立つ思いで電話台の前に立った。事態をどう説明すればよいのか彼には分からなかった。それは久美子には説明しようもないことと思われた。〈ゆっくりしてきなさい〉と彼女が言ってくれた晩にハメを外して、金を失ってしまった体たらくを告げる他はないのだ。照義は自分の弱さ、愚かさを顔面になすりつけられるように感じながら、電話番号を押していった。

                      

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萩の一夜 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711

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