第16話
中華料理店を出て、照義はよさそうな飲み屋を物色した。二、三軒をやり過ごした後、外観が白壁の土蔵に似た割烹に、その外観に引かれて入った。入口の引き戸を開けると、正面の奥の壁に貼ってある生ビールのポスターが目に飛び込んできた。日に焼けた肢体にビキニの水着をつけた娘がジョッキを片手に微笑んでいる。それは燻っていた彼の享楽の思いを一瞬掻き立てた。
客は居なかった。カウンターに座ると、女将がいらっしゃいと言った。紺色の筒袖の上衣を着た四十前後の女だった。照義は熱燗を先ず注文した。それから壁に貼られた品書きを眺めたが、これという肴が決まらなかった。女将が待っていると思うと彼は変に焦ってなおさら決め辛くなった。彼は惑乱を覚え、それを脱したい気持で、「馬刺し」と言った。ほっとすると同時に、〈何でもいいんだ〉と胸の中で呟いた。女将は黙って作業をした。沈黙の時が流れた。照義は何か話さなければいけないような圧迫を感じた。他に客がいないことを負担に思った。
「萩はどうですか、今の時期は」
照義は口を開いた。女将は背中を見せて刺身を切っていたが、返事をしなかった。照義は鼻白んだ。聞こえていないのかな、と思った。気難しい人なのかなとも思った。すると、
「えっ、何か言いました」
と女将は振り向いた。照義は苦笑して、
「いや、萩は今、人出は多いですか」
と言い直した。
「今はだめですよ。桜が咲いてからですね、人出が増えるのは」
女将はそう言って、また向うを向いた。照義はどうやら会話ができそうなのでほっとした。
「長門峡に行ってきましたよ」
「長門峡、ああ、そうですか」
「今、シーズンオフなんですね。誰にも会わなかった」
「ああ、そうでしょうね。もう少し経たないとね」
馬刺しと熱燗が照義の前に並べられた。盃を傾けると、旅に出て初めて飲む酒が胃に泌みた。
「奥さんは長門峡に行ったことはあるんでしょう」
「それがないんですよ」
「へえー、そうですか。地元の人は却ってそういうふうなのかな」
どうやら会話は軌道に乗ってきたようだ。照義は女将の出身が萩であることを確かめ、山陰に残っている自然や人情の純朴さを讃えた。電車の窓から見た風景や、ピーナツをくれた青年が頭に浮かんでいた。
「ここらあたりの川はまだきれいでしょう」
「そうですよ」
「奥さんなんか小さい頃よく川で泳いだでしょう」
子供が泳ぎそうな長門峡の淵の印象が照義の頭にあった。「泳ぐのは海でしたよ。学校が終わったら毎日泳ぎに行きよったね」
「へえー。海って日本海ですね」
「ええ」
ここは海が近いのだと照義は改めて思った。
引き戸が開いて、五十年配の男が入ってきた。これで一人でしゃべらなくてすむなと照義は思った。男はためらわず照義の隣に腰を下ろした。
「早いね」
女将が男に声をかけた。
「今日は仕事行ってない」
男はぶっきらぼうに答えた。
「景気悪いね」
と女将が言うと、男は照義の顔を見てニヤリと笑い、
「サッパリですよ、近頃は」
と嘆いてみせた。そのおどけた言い方に照義も微笑を返した。男は何も注文しなかったが、お湯割りと小鉢が出された。彼はグラスを一口なめると、
「何か面白い話ないかね」
と女将に声をかけた。女将は微笑しただけで答えなかった。照義は男の気さくな様子に話しかけてみる気になった。「萩の産業と言えば何ですか。観光と…」
「そりゃ、ここは漁業ですいね」
「漁業ですか。それじゃ、漁師の方が多いわけですね」
「そうです。私もそうだけど」
男はそう言うと女将を見てニヤリと笑った。そう言えば男の顔は浅黒く日焼けしていた。
「へえー。僕は萩は観光地とばかり思ってました。仙崎などは仙崎かまぼこなんかで漁業の町とは思っていたけど」「下関のフグはここら辺りの漁師が持っていくんだよ」
「フグが獲れるんですか、ここで」
「いや、東シナ海まで行くんだけどね」
「東シナ海まで。へえー」
照義はこれはなかなか面白くなったと思った。
「じゃあ、下関のフグは東シナ海産なんですか」
「そうだよ」
「へえー。しかし何ですね、下関のフグは日本海産というイメージがありましたけどね。そうあって欲しいような気もしますが」
照義は盃を傾けながら、いい男が隣に座ってくれたと思った。こういう出会いが旅の楽しみなのだと頷いた。
「ここでは何が獲れるんですか」
「ここも色々獲れるよ。タイ、イカ、アジ、ブリ、カニ、…六十種類ぐらい獲れるんだから」
照義はまた〈へえー〉と言わなければならなかった。
「だけど、この二、三年景気がよくない」
と漁師は苦い顔をした。それは最初の会話と繋がるようだった。
照義の酒肴が切れた。腕時計を見ると九時を回ったところだった。彼は肴を一品と、隣の男に合わせて焼酎の湯割りを注文した。それが無くなったら帰ろうかと思っていた。「おたくはどこから」
漁師の男が照義に尋ねた。
「北九州です」
「ほう。仕事ですか」
「いや、ちょっと休みで」
男は照義の言葉に頷きながらグラスを傾けた。
「ーーちゃん、今日は飲まんのか」
男が女将に言った。そして照義の方を向いて、
「このママ、飲ましたら面白いんよ」
と笑った。
「つまらんこと言いなさんな」
女将は苦笑を浮かべて遮った。
「こう見えても昔は鳴らした人だから」
男は構わず面白そうに続けた。照義は改めて女将の顔を見た。唇は薄紫色に塗ってあり、耳朶には金色のイヤリングが光っていた。ショートカットの髪の毛は茶色に染まっていた。大きめの目の光は穏やかだったが、最初の注文が手間取ったとき、その目に閃いた苛立ちの険しさを照義は思い浮かべた。どう鳴らしていたのか男は言わなかったが、照義はこの女将の気性の激しさを推測できた。男は女将に酒を勧め、女将は自分のためのお湯割りをつくった。男のおごりになるようだった。
引き戸が開いて、ゴマ塩頭の老人と若い女が入ってきた。二人は照義達の後ろを通ってカウンターに座った。照義は二人連れと漁師の男に挟まれる形になった。若い女はピンク色のスーツを着ており、化粧は濃く、耳には大きな白いイヤリングを付けていた。若い女の登場で雰囲気は華やいだ。二人とも既に酒が入っているようで、陽気に女将に話しかけ、照義や漁師の男ともすぐ話を交わすようになった。老人は千葉県で会社を経営しているが、現在は社長職を息子に譲って隠居の身の上ということだった。年に二回は夫婦で旅行をするらしく、今は山陰地方を下関まで南下している途中だと言った。若い女は宿泊しているホテルの中にあるスナックのホステスで、遊び場の案内も兼ねて連れてきたらしかった。夫人はホテルに残っているらしい。照義は老人を結構なご身分と思うとともに、老いても若い女を連れ歩く姿に享楽の思いもくすぐられていた。
「この辺りにどこか面白い所ありませんか」
照義は面白半分に漁師の男に訊いてみた。
「面白い所って、ストリップか」
「まぁ、そんなものですが」
露骨に言われて照義は苦笑した。男の物言いは歯切れがよかった。軽快で澱みがないのが彼には好ましかった。
「それは川棚辺りまで行かなないよ」
男はそう言って、ニヤリと笑うと、
「ここでもストリップ見られるよ。ねえ、ーーちゃん」
と女将に声をかけた。
「このママ、このカウンターの上で踊ったことあるもんね。裸で」
と男は言って笑った。照義は「えー」と言って女将の顔を見つめた。彼は既にお湯割りを何杯か重ねており、かなり酔いが回ってきていた。男の言葉が聞こえたのかどうか、女将は薄く笑っているだけで何も言わなかった。照義は女将の下半身に目をやった。足首を絞った細身のパンツを穿いていたが、小太りであるだけ臀部の膨らみは充実を感じさせた。これは楽しくなったと照義は思った。求めていた享楽の世界が開けてきているように思えた。
「この二階は寝れるようになってるんだよ。俺も何回か泊めてもらったけどね」
と男はさらに照義を煽るような言葉を続けた。
「あんたもママに気に入られたら二階に上げてもらえるよ」
「それは有り難いね」
照義はおどけた声を出した。彼は愉快だった。楽しかった。不吉なものを見るように腕時計に目をやると、もう十一時が近かった。体裁を作って門限までに帰ると言ったことが悔やまれた。彼はこの場を去りたくなかった。あと一週間もすれば逃れられない苦しみがはじまるのだ。それを思う度に、座を立つ力は何かに吸い取られるように抜けていくのだった。照義は宿に電話を入れることにした。カウンターの端に電話器があった。民宿のマッチを見ながら番号を押すと、宿の主人ののんびりした声が耳に入った。もう少し時間がかかりそうです、と縺れだした舌で照義は言った。いいですよ、あまり飲み過ぎないように、と主人は応えた。どうも、と見えない相手に頭を下げて照義は受話器を置いた。
それからのことを照義はあまり覚えていない。記憶に残っているのは、老人と若い女の二人連れが次の店に行くような話をしていたこと、地下のスナックに下りていく階段、カウンターの上のキャンドルの明り、など断片的なものだけだ。
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