第15話
照義が宿を出て歩き始めたのは七時半を過ぎた頃だった。宿の主人に声を掛けないで出てきたことが彼は気になっていた。帳場の方に出て行けば宿の誰かに会うだろうと思ったのだが、玄関を出るまで人の姿を見なかった。まぁ、いいやと思って宿の人を呼ぶことはしなかったのに、門を出て道を歩き始めると気になりだした。宿泊客として信頼される行動を取りたいという思いのせいだった。宿に応接セットの置かれた一角があって、テーブルに数冊のアルバムが置いてあった。そのアルバムには宿泊客から送られてきた手紙や写真が貼られていた。照義は十分ほど覗いただけだが、この宿の歴史やアットホームな雰囲気、主人夫婦の人柄の良さなどが伝わってきた。民宿として実績のある宿ということが分かると、宿泊客としてそれに応えたいという気持が自然に動いていた。保安のことも気になった。部屋は鍵がかかるようにはなっていなかった。声をかけておけば注意してくれるだろうと思われた。さらに門限も未確認だった。こうした顧慮を飛ばして、彼は逸る心のままに宿を出てきたのだ。
宿まで歩いた道を逆行して、照義は阿武川に架かった大橋まで戻った。川面は闇に没しており、岸辺の明りがわずかに映っているだけだった。彼は橋の袂に佇んでどの方向にいくか周囲を見回した。ネオンの輝きが見える所が彼の目指す場所だったが、そんな賑やかな光りは見当たらなかった。彼は橋は渡らず、川に沿って歩きだした。そして次の橋の袂で曲った。見た感じからその方向に盛り場があると照義は推測した。商店街の入口にさしかかった所に電話ボックスがあったので、彼は宿に電話を入れた。今、街に出てきていますが、門限は何時ですかと照義が尋ねると、門限は一応十一時だけれども、宵っ張りだから一時くらいまでは起きていますよ、と宿の主人は少しおどけた調子で答えた。照義はそう言われると反射的に、いや、十一時までには帰ります、と言って電話を切った。
道の両側に並ぶ店は多くが萩焼きを売る店だった。その間にポツポツと赤提灯の店が混じった。照義は急かされるように歩いた。享楽の思いがコミック誌で刺激されて彼を駆り立てていた。二十分ほども歩いたが、彼が思い描くような歓楽街には行き当たらなかった。今夜は居酒屋で飲んで終りだなと彼は思った。苦笑が浮かんだが、それはそれでいいような気もした。ゆっくり飲んで寛げれば悪くはなかった。その前に腹拵えをしようと彼は近くにあった中華料理店に入った。そこでビールを飲むと、酔いが少し回った。
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