第14話


 駅の待合い所の椅子には中学生くらいの少年が三人腰掛けていた。三人ともスウェットスーツを着ていたが、顔付きには田舎育ちの純朴さが表れていた。これから街にでも出かけるのか少年達の会話は弾んでいた。照義は空いた椅子に座って、少年達の屈託のない会話を聞きながらパンを食べ、牛乳を飲んだ。飲み食いしている間は物憂さを忘れていられた。

 食べ終る頃、一両だけの電車がホームに入ってきた。ワンマンカーで乗客は後ろの入口から乗って整理券を取り、前から降りるようになっていた。照義は缶ビールを手にして電車に乗り込んだ。入ってすぐの、通路を挟んで向き合う座席に腰を下ろした。奥は二人掛けの席が向き合う形の座席になっていて、十人余りの客が乗っているようだった。 照義と向き合う座席には紺色のセーターを着た若い男が座っていた。この形の座席には他に客はいなかった。照義は腰を下ろすとすぐにこの男の視線が気になった。こういう場合の神経症的な反応は彼の習癖のようになっていた。照義は視界の端にこの男を意識しながら缶ビールを飲んだ。早く酔いが回ってこんな意識を消し去ってくれればいいと彼は思った。男はピーナツの袋を持っていた。缶ビールは既に飲んでしまったのか見当たらなかった。        

 これから終着の益田駅までは一時間半かかる予定だった。照義は缶ビールを倒れないようにシートに置くと、時刻表を取り出して萩までの各駅の到着時刻を調べてみた。益田で一時間半ほどの待合いがあり、山陰本線に乗り換えて萩までは更に一時間半ほどかかるようだった。長いなと彼は思った。萩につくのが夕刻になるとすれば、日帰りはやはり難しいかなと思った。

 場に慣れてきたのか、ビールで神経が鈍ってきたのか、照義は前に座っている男の顔にも自然な視線を当てることが出来るようになった。強面のように感じたが、落ち着いて見れば、むしろのんびりとした顔付きの青年だった。その青年が不意に席を立つと照義の前に来て、「どうぞ」とピーナツの袋を差し出した。照義は戸惑ったが、ビールのつまみにという相手の好意が分かったので、「あ、どうもすいません」と受け取った。男はそのまま奥に入っていき、二人掛けの座席に腰を下ろした。照義は思いがけない出来事に苦笑を漏らした。ピーナツは彼の好物で有り難かったが、気になってできるなら視界から除きたいと思っていた相手から好意を示されたことが、彼を妙に落着かない気持にさせた。

 ビールを飲み終ってもビニール袋の中にはまだピーナツが三分の一ほど残っていた。袋は口の部分を閉じることができるようになっていた。口を閉じて照義は少し迷った。残りを男に返そうかと思ったのだ。しかし、一度やったものを返されるのは彼にとって不愉快なことかも知れないとも思われた。ビールのつまみとしての用が終った以上持っている理由はないという考えに落着いて、照義は腰を上げた。礼を言って返すと男は素直に受け取った。照義は元の座席に帰らず、近くの二人掛けの席に座った。男は間もなく電車を降りていった。旅行者ではなく地元の人のようだった。

 電車は多く山裾を走っているらしく、窓の外には削られた斜面や林が続いた。時折、満開の紅梅や白梅が姿を現して、流れ去った。ビールの酔いに任せて照義はできるだけ寛ごうとした。旅の解放感に浸ろうとしたのだが、心の底にある緊張は解けなかった。彼は何度か眠気に襲われウトウトした。が、目覚める時はいつもこの緊張に脅かされるようにして目覚めるのだった。思うように寛げない旅に彼は苛立ちと疲れを感じていた。

 山陰本線に入ると窓の外に日本海が見えるようになった。二両編成の列車は海に沿って走っていた。海が見えなくなると山村の侘しい風景が現れた。それは戦後数十年の間何の変化も被っていない風景のように思われた。山陽本線沿いの風景との落差を照義は思った。

 三本目の缶ビールを彼は飲んでいた。萩と名の付く駅は萩と東萩と二つあった。照義は通りかかった車掌にどちらが賑やかなのか尋ねた。都会の方が宿泊場所を見つけやすいという思慮もあったが、それはむしろ盛り場を求めての問いかけだった。酒が飲めてちょっと遊べる所という思いが彼の頭にあった。旅の解放感や寛ぎを求める気持は享楽の方向に傾斜していた。萩の手前の東萩の方が都会のようだった。彼は東萩で下車することにした。萩は一度訪れたことがあり、松下村塾や武家屋敷なども見ていたので、捨てることにさして抵抗はなかった。

 東萩の駅前に立つと、なるほど都会らしくすぐ前に大きなホテルが建っており、他にも幾つかのビルが目に入った。駅前には民宿の案内所もあった。照義は先ず久美子に電話を入れた。萩で一泊することを告げると、ゆっくりしてきなさい、と久美子は言った。旅の様子を訊かれることもなく会話は簡単に終った。照義は久美子の労りの気持を感じながら受話器を置いた。彼は歩き始めた。時刻は五時半を過ぎていたが、周囲はまだ明るかった。阿武川に架かる大きな橋を渡った。とりあえず宿を見つけなければならなかった。ホテルと民宿のどちらにするか照義は迷っていた。ホテルとすればビジネスホテルで十分だった。それは駅から五、六分歩くうちに二、三目に付いたが、いざ泊るとなると味気無い気がした。照義は大通りから、交叉する街路に入った。トラックが横を勢いよく通り過ぎていく。表示を見るとそれは山口市へ向う道路のようだった。しばらく歩くと、電柱に取付けられている「民宿朧月ろうげつ」という看板が目に留まった。その名に照義は風情を感じた。看板は並びの電柱に続けて取付けられていた。照義は看板の下に書かれている矢印に従うことにした。街路から離れると、看板は曲り角など要所に立てられていて照義を導いた。

 着いてみると、旧家を思わせる木造の二階家だった。生け垣に続いている門から中を覗くと、玄関まで白砂利を敷いてあり、玄関の左右には手入れをされた松が植えてあった。雰囲気としては照義の気持に合う宿だった。料金が合えば泊ろうと思って彼は門を潜り、玄関の戸を開けた。

 玄関は土間になっていて、両側には大きな下足入れがあった。「ごめんください」と照義は黒い板張りの廊下の奥に声を掛けた。返事はなく、人の動く気配もなかった。もう一度声をかけると、間延びした男の返事が返ってきた。そして、ポロシャツにセーター姿の頭の薄くなった初老の男が出てきた。男は照義を見ると笑みを浮かべたが、何も言わなかった。「泊れますか」と照義が訊くと「いいですよ」と答えた。一泊二食の料金は手頃だった。照義は夕食はいらないと言った。外に飲みに出るつもりだった。宿の主人らしいその男は、「そこに名前を書いてね」と下足入れの上に紐で結んで置いてある帳面を目で示した。照義が住所、氏名を書き込んでいると、板張りの上に立っている男は上から覗きこんで、「北九州からね」と言った。歓迎しても疎んじてもいない、それでいてどこか馴々しい主人の物言いに照義は妙に気圧されるものを感じた。

 案内された部屋は一階の一番端の八畳ほどの部屋だった。入口はドアになっていて、開けると一畳ほどの沓脱ぎがあり、框から畳に続いていた。障子が部屋と沓脱ぎを仕切っていた。

 照義は畳に腰を下ろした。部屋には座卓、テレビ、鏡台などが置いてあった。小さいながら床の間があり、草書で書かれた軸が掛かっていた。調度や畳などは古びており、くたびれた感じのする部屋だったが、料金から言えば相応と思われた。

 彼はテレビを点けた。宿に落ち着いたという気分は少しもなかった。むしろ彼の気持は夜の街に出かけていくことを思って逸っていた。楽しまなければという享楽の思いが彼を落着かせなかった。しかし一方で疲労感はあるのだった。それは静かに一晩を過ごしたらどうだと囁いていた。彼は一人部屋で過ごす自分を考えてみた。新学年に対する不安と緊張に閉ざされそうな気がした。長門峡で味わったような孤絶感は再び味わいたくなかった。

 宿の主人が湯の入ったポットを持ってきた。照義は入浴について尋ねた。「風呂は七時から」と主人は答えたが、「早い方がいいですか」と訊き返した。照義が「そうですね」と言うと、「じゃ、今日はあなたに先に入ってもらおう」とにこやかな顔で言った。準備ができたら声をかけます、と行って彼は出て行った。

 照義は入浴してから街にでることにした。それまでにはまだ時間があった。テレビの台の中に雑誌が重ねられていた。取り出すと週刊誌や漫画本だった。漫画本は女性向けのコミック誌だったが、ページを捲ると、どのページも男性誌顔負けのセックス漫画と記事で埋められていた。女性向けの雑誌の内容が近年過激になっているとは知っていたが、その通りの内容だった。照義には好都合だった。それは彼の心理的欲求に合致していた。暗い興奮の中で彼は雑誌を読み耽った。

 早めに仕度をしてくれたようで、宿の主人から声がかかったのは七時前十分くらいだった。浴室は浴槽が少し大き目だが、作りや内装は普通の家庭のものと変らなかった。照義は浮ついていながら、どこかが沈んでいる妙な気分で湯に漬かった。


   

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