第13話


 電車は約五十分後に長門峡駅に着いた。それは小さな無人駅だった。駅から国道に出て五分ほど歩くと、長門峡入口を表示する大きな塔が見えた。照義は横断歩道で国道を横切り、川の見える方に歩いていった。川には橋が架かっていて、橋の下の岩場には鴨が四、五羽いた。その羽の色が木彫りの鴨のそれと全く同じなのに彼はなぜか感心して、しばし見入った。橋を渡って曲ると鮎料理の店があり、そこを過ぎると、丁字川出合淵という長門峡の出発点となる渓流が視界に広がった。

 照義は歩き始めた。戻りの電車の時間まで二時間半ほどあった。一時間で行けるところまで行って帰ってこようと思った。幅一・五メートルくらいの小道が渓流に沿って続いている。道の片側は流れに下っていく斜面であり、反対側は山肌だ。渓流を見下ろすと、大小の白っぽい岩の間を緑色の水が緩やかに流れている。望見する山肌は緑が七割方を占めていたが、川べりの桜はまだ裸だ。人通りは全くなかった。これが桜や紅葉の頃にはたくさんの人出で賑わうのだろうと照義は思った。今はシーズンオフなのだ。所々、道の端に、「榧ケ淵」「大谷淵」などと記した標柱が立っていた。その辺りを流れる川がそう名付けられているのだ。淵には子供達が夏になれば泳ぎそうな所もあった。流れは淵になったり瀬になったりしながら続いていた。岩が迫り出して断崖になっている所には鉄とコンクリートで桟道が作られていた。

 歩き始めて二十分ほどが過ぎていた。行く手にも背後にも人の気配は全くなかった。こんな所で襲われたらどうなるだろうと照義は思った。三、四人の男に囲まれたら終りだなと思った。相手が一人でも若くて屈強な奴だったらやられてしまうかも知れないと思った。そんなことを思うと淡い恐怖感が生じた。その恐怖感は照義が抱いている来年度への不安感と通じるものがあった。自分を襲ってくる若い男の想像は、彼に岩谷を想起させていた。岩谷と改めて対峙する一年が間もなく始まろうとしているのだ。今度は担任という条件が外れた状態での対峙だった。それは岩谷にとってはプレッシャーが一つなくなることだと彼は思っていた。しかも今度は相手は岩谷だけではすみそうになかった。他にも手を焼きそうな生徒が何人もいることが予想された。そんなクラスに週に九時限も授業をしに行かなければならない。乗り切れるだろうか。どうせ岩谷とはまた衝突するだろう。その決着の仕方次第では、岩谷だけでなく他の連中からも馬鹿にされ、授業など成立しない状態になるかも知れなかった。そうなるとどうなるか。教師間でも力の無い教師と見做され、遂には退職しなければならない状態に追い込まれるかも知れない。肉体的にも不安があった。十二指腸潰瘍になったことは照義にはやはりショックだった。彼は鉄人でも不死身でもない自分を思わざるを得なかった。休みに入ってからの再検査では潰瘍は消えていたが、来年度のことを考えると再発は必至と思われるのだった。

 照義は緊迫してしまった気持を緩めるために一つ息を吐いた。我ながらつまらない心理状態にあると思った。気分を変えようと流れに目をやった。流れと道とが離れており、流れが概して緩やかなため、水音は聞こえず、川は静かに流れていた。見上げると山稜の上に白く光る空が続いていた。歩けば歩くほど孤独感が深まるような気がした。こんな精神状態でここを訪れたのは間違いだったのではないかと彼は思った。自分を苦しめにやってきたようなものではないかという思いが湧いた。

 間もなく鈴ケ茶屋に着くはずだった。そこでビールでも飲んで寛ぎ、引き返すというのが照義の心算だった。鈴ケ茶屋は出発点から三・五キロの地点にあり、五十分ほどで着く場所だったから、時間的にも折り返し点として適当だった。道が次第に低くなって川に近づき、渓流が大きく右に蛇行する地点にそれはあった。流れに面して建っている二階建ての木造家屋が樹間に見えた。思ったより大きいなと思いながら照義は近づいていった。建物の細部が見える位置まで来たが、人の姿が見えない。前に立つと果して休業中だった。シーズンオフであることをここでも彼は思い知らされた。一階は壁のない吹きさらしで、二階を支える太い柱が見えていた。テーブルや椅子の取り払われた空間には建築資材のようなものが積み重ねられていた。二階の板壁には、「長門峡の思い出に美味しい鮎をどうぞ」という文字に鮎と紅葉の絵を配した手書きのポスターが、シーズン中の賑わいの名残のように貼られたままになっていた。 彼は当てが外れた。ここで昼食を摂って、ビールを飲み、落ち込みがちの気分を休暇中の旅にふさわしいものに回復させるつもりだった。それが肩すかしを食って、彼の心の平衡が少し崩れた。自動販売機もなく渇きさえ癒せないのも辛く思えた。照義は建物の前の、流れに張り出しているテラスに出た。テラスの前で流れはV字形に屈曲しており、そこに立てば流れの来し方行く末が見通せた。自分が人生の壁に逢着していること、この壁を越えなければ教師としての人生は挫折を迎える他はないことを照義は心の中で反芻していた。これまでの生き方への死刑執行が迫ってきているように彼には思われた。彼は緊迫感と寄る辺のない孤独感のなかに佇立していた。

 戻りは行きより時間がかからなかった。出発点に戻った時、帰りの電車の発車時刻までまだ一時間ほどの時間があった。照義はこのまま家に帰る気にならなかった。このまま帰ったのでは嫌な思いをするために出かけて来たようなものだと思われた。旅の楽しさや解放感は殆ど味わっていない。これで帰ってしまうのでは余りに物足りない気がした。もうすぐ休みが終り、どうせ苦痛の多い日々が始まるるのであれば、せめて旅に出た時だけでも楽しんでおかなくてはという気持になった。萩まで行ってみようと彼は思った。それは突然浮かんだ考えではなかった。この旅を思い立った時から萩まで足を延ばそうかという気持はあったのだが、日帰りでは無理だろうと外したのだ。確かに日帰りは難しいかも知れないが、妻の久美子には予定を変更して一泊することになるかも知れないとは言ってきていた。時刻表を取り出して益田行きの電車の発車時刻を調べると十分ほどしか余裕がなかった。彼は長門峡の入口近くの雑貨屋で昼食のパンと牛乳、それに缶ビールを買って、長門峡駅に急いだ。


   

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