光の暈

宇土為 名

光の暈




 一目見たときから予感がしていた。

 この子は俺にないものをすべて持っているのだと。




 所属していた部活にひとりの新入生が入部してきたのは、三年に進級した春だった。

「あ、水戸岡です。水戸岡真琴…」

「へーかわいい名前」

 遊びに来ていたOBの高橋が部室の入口で話している声が聞こえる。岩谷尊はまだ途中だった作業の手を止めて、声のする方へ向かった。

「あー、俺は在校生じゃなくてOBだよ」

「OB?」

 声は高橋の向こうから聞こえていた。新入生は小柄なのか、大きな高橋の体で隠れてしまい、足しか見えない。

「高橋っていうんだ、よろしくな」

 はい、と素直に頷く声。

 岩谷はふたりに近づいて高橋の隣に立った。ふわりと柔らかそうな髪をした新入生が目に入る。その目が岩谷を見上げ、視線が合った。

(──)

 その瞬間、息が止まった。

 何だ?

「で、こっちが部長の岩谷」

 高橋が横にいる岩谷を見た。

 その声に我に返る。

 岩谷は動揺している心の内を悟られないように、にこりと水戸岡と名乗った彼に笑いかけた。

「ようこそ。部員が少ないんで嬉しいよ。ええと、水戸岡くん?」

「はい、よろしくお願いします」

 はにかんで笑う彼に、なぜか心がざわついた。



 真琴は素直で人懐っこかった。

 岩谷が教えるすべてを聞き逃さないようにと真剣に聞いてくれるところがたまらなくかわいく思えた。慕われるのは気持ちがいい。お互い同じ学年の部員がいないこともあり、おのずと一緒に行動した。理想の後輩として、真琴のことは気に入っていた。

 ただひとつを除いては。



 真琴が写映部に入ってから、高橋が顔を出す回数も心なしか増えていた。

「あれ、今日は真琴は?」

 部室のドアを開けるなり高橋は言った。

「遅れて来るよ。委員会の会議だって」

 昼頃三年の教室までわざわざ来てそう言っていた。

「ふうん」

 つまらなそうに呟いて、高橋はどさっと岩谷の前に座った。他の部員は皆外で撮影をしている。仲の良いことだ。古い長テーブルの上には現像が出来上がった写真がいくつも並べられていた。どれも自分でやってみたものだが、思うような出来にはならなかった。投稿するのにどれにしようか迷う。

 もう一度撮り直すか。

 構う相手がおらず、高橋は手持ち無沙汰にしていた。

「用事?」

「んー別に」

「暇なんだ?」

「そうね」

 写真を一枚手に取って高橋は答えた。大学生がこうも頻繁に母校を訪れるのは、暇意外の何ものでもないと思うが、案外優秀な彼が本当の意味で暇を持て余しているわけではないのだと岩谷は知っている。

 つまり結局は何か真琴に用があって来ているのだ。

 それを高橋は岩谷に言わない。

 ふたりの間で通じるもの。

 時折高橋が真琴を遊びに誘っているのは気づいていた。

「……」

「お、これいい」

 高橋がテーブルの上の一枚の写真を指差した。モノクロの写真。

「──」

 ぴくりと岩谷の手が跳ねた。

 部室の窓の外に広がる欅の木の、何の変哲もない枝の重なりを下から覗き込むようにして撮っただけの──

 なんの変わり映えもない一枚だ。

「葉っぱの間から陽が差してて、ハレーションしてる」

 光でぼやけた葉の輪郭、葉脈が透け、初夏の日差しの強さをそれだけで切り取っている。

「おまえの?」

「いや、──真琴の」

 カメラに残った最後の一枚を、撮っていいよと言ったものだ。

「へえ…やっぱ凄いなーあいつ」

 心から感心している声に、腹の底がじくりと痛む。

 目の前の顔は自分の事のように嬉しそうに笑っている。

 岩谷の中で何かが音を立てた。

 自分が目の前にいるのに、別の人間の名を口にする、その気安さが腹立たしかった。

 俺の前で俺以外のものを褒めるのか。

 それは俺のじゃないのに。

 ──人の気も知らないで。

「本当、そうだね」

 岩谷はテーブルに目を落としたまま言った。

 笑顔を顔に貼りつける。そうすることにはもう随分手慣れている。

 実際、真琴の撮るものはいちいち人の目を引きつけた。

 それが癇に障る。

「これ欲しいなあ」

「聞いてみたら」

「ん」

 そうだな、と高橋は呟く。

 真琴はきっと嫌とは言うまい。

「あとで聞いてみるか」

 ぎゅう、と心臓が捩れる。

 痛みを無視した。

 貼り付けた笑顔が落ちないようにする。

「もう来るよ」

 見えない場所で手を握りしめた。

 そんな自分を高橋が知るはずもない。なのに、知っていてもらえないことが静かな苛立ちに変わる。

 高橋が知らない歌を口ずさむ。

「──」

 こんなのはどうかしている。

 どうして、こうなってしまったんだろう。



 家に帰ると、教育熱心な母親がいつも岩谷を待ち構えていた。

 彼女は専業主婦で、有り余る時間の全てを自分の息子に捧げるような人だった。学習塾、英会話、絵、スポーツ、ピアノ、自分がいいと思ったもの、自分が理想とする子供を作り上げるために、ありとあらゆるものを習わせた。遊ぶ時間などない。岩谷はそれが嫌でたまらなかった。好きなことが出来ない。それが好きだと言い出せない。彼女が気に入らなければ、口もきいてもらえない。思うようにいかないもどかしさや発散されない欲求は、やがて岩谷の性格をも変えた。表向きは従順に、そして裏側は誰にも見せない顔を持った。

 実際岩谷は何でもできる子供だった。

 どんなこともこなせてしまう。それは一種の才能だった。

 けれど、どれもある程度まで。

 頂上へは昇れない。あと少しが届かなかった。

 どんなことも一番にはなれない──岩谷尊の順位はいつも、二番か三番にとどまっていた。

 ピアノの音色がドアの向こうから聞こえてくる。

 近所のピアノ教室の廊下、呼ばれるのを待っている間、いつも岩谷は窓の外を眺めて過ごしていた。早く帰りたい。この檻に閉じ込められたような窮屈な毎日は、いつまで続くのだろう?

 あれは、いつの春だったか。

 ピアノの音が乱れ、大きな音がした。

「あーもう! やってらんねえ、おれはっ、おれの好きなのが弾きたいだけなの!」

 ばん、と内側からドアが開いた。

 強い目をした子供がそこから飛び出してきた。岩谷と目が合うと、一瞬驚いたような顔をしたが、そのまま廊下を走って教室のあるビルを出て行ってしまった。

「歩くん!」

 慌てて先生が追いかけたが遅すぎた。

 ドアの隙間から見えた教室には、「歩くん」が撒き散らしたらしい譜面が床の上にいくつも散らばっていた。

 好きなものを好きなように弾きたいだけ。

 ああ、あの子も自分と同じなんだと思った。

 同じなんだ。

 あんなふうに飛び出して──

「……」

 それが高橋との出会いだった。

 強烈な、忘れられない思い出。

 その数日後に「歩くん」が同じ小学校に通うふたつ年上なのだと知った。

「あ」

「あ?」

 学校の廊下で出くわして思わず声を上げた岩谷を、高橋は覚えていた。

「あーごめん! あんとき、びっくりしたろ? ごめんな?」

 にこりと屈託なく笑う顔からどうしようもなく目が離せなかった。

 すぐに友達になった。

 二歳の年の差など感じさせないほど、高橋の傍は居心地がよかった。

「おまえすごいんだなあ」

 何をしても程よくこなせてしまう岩谷に、高橋は事あるごとにそう言った。

 母親に褒められるよりも、誰に認められるよりもずっと、その言葉が心に沁みた。

 高橋は自分を見てくれているのだ。

 歳の分だけ先に行く高橋の後ろを岩谷は追い続けた。

 今までは先の見えない暗闇の道を歩いている気がした。けれど高橋の通った後ならば、光の粒が落ちているように、追いかける足下はいつもほのかに明るく見えた。

 だが、二年という歳の差は微妙な距離だ。

 同じ場所にいるようで違う。追いついたと思ったらまた離れる。それの繰り返しだ。中学・高校と学年が上がっていくほどに、離れている時間も距離も物理的に多くなる。

 それを思い知らされた。

「──」

 ある日。

 偶然会った学校の帰り道、高橋の隣に知らない女の子がいた。

「歩くん」

 高橋は高校に入ったばかりだった。見慣れない制服に身を包む彼は見知らぬ人のようだった。

「おう、今帰りか?」

「歩くん──」

 それ、誰?

 隣で笑ってるその女、誰?

「あ、俺の彼女」

 岩谷の訊きたいことが分かったのか、高橋は事もなげに笑ってそう言った。

「かの、じょ──」

 彼女?

 彼女って?

 その女が好きなの?

 ──好き?

 好きってなに。

 何言ってんだよ。俺が──

 俺がいるのに。

「付き合ってんの、じゃあまたな」

 その瞬間、岩谷の世界が色を失くした。

 遠ざかるふたりを見ながら、死ねばいいのにと呟いた。

 ぞっとした。

「──」

 ──俺、今何言った?

 高橋を慕う気持ちが執着じみたものになっていると気がついたときには、すでに手遅れだった。

 どうしてこうなったんだ。

 考えても分からない。

 はじめからだったのかもしれない。

 はじめから、ずっとそうだったのかもしれなかった。

 ただ、自分だけが気がつかなかっただけで。



 季節は過ぎ、夏の日差しが少し和らいだ日の放課後。

 ぱたぱたと遠くのほうから足音が聞こえてくる。

 息せき切って部室のドアを開けた真琴に岩谷は顔を向けた。

「真琴、そんなに走るとこけるぞ」

 乱れた髪に少しだけ笑う。

 そんなに慌てて来なくてもいいのにと思う。

「みんなは?」

 静かな部室を見回して真琴は言った。いつもは二年生が騒いでいるころだった。

「ああ、外。野球部の試合を撮影してるよ」

 戸棚の奥から岩谷はカメラを取り出した。

 誰かが使ったまま、手入れを怠ったそれはレンズカバーが外れ、汚れていた。

 綺麗にしておかないと。

「先輩、あのね、俺」

「ん?」

 真琴の声に、岩谷は返した。

「俺、出版社から連絡来たんだ」

 岩谷はゆっくりと振り向いて、真琴を見下ろした。

 照れくさそうに笑っている。

 嬉しさの滲む声で真琴は言った。

「いつも投稿してる出版社で、昨日、歩先輩と話聞いて来て…」

「──先輩と?」

 真琴の言葉を遮るように岩谷は呟いた。

 うん、と真琴は頷いた。

「へえ、──そう」

 腹の底から込み上げるこの感情はなんだ。

 薄い皮膚だけを残して内臓を全て焼き尽くす、この感情は。

「──」

 開いた窓から風が吹き込んだ。グラウンドで部活をする生徒たちの声が。

 うるさい。

 岩谷は真琴に背を向け、窓を閉めた。

 閉じた瞬間、真琴が息を呑んだ。

 

 その気配にゆっくりと岩谷は振り向いた。

 戸惑った目で真琴は岩谷を見ている。

 憎いと思った。

 憎い。

 高橋に相談したことが。毎日顔を合わせているのに自分だけが知らない出来事、ふたりでいることが。

 高橋が真琴を気に入っていることが。

 なにもかも、なにもかもだ。

 自分たちは真逆の場所にいる。

 奔放な親、厳格な両親。努力を積み重ねてもあと一歩というところで届かない手、何もせずとも、いともたやすくそれを掴んでしまう手。

 岩谷が欲しいと思っているものを、真琴はその手の中にすべて持っている。その価値さえ知らないくせに。

 いい気なものだ。

 いつか──

 いつかその手からすべてを奪ってやりたい。

 浮かんだ自分のその考えに、岩谷の怒りは静かに凪いでいった。そのかわりに歪んで捩じれた思いが胸の中を満たしていく。

 岩谷は微笑んだ。

「よかったね」

「う、ん…」

 ぎこちなく真琴が頷いた。

 見上げてくるその顔は、西日に照らされ輝いている。

 白い光のかさが真琴の輪郭をぼかす。

 眼鏡の縁に弾ける眩しいほどのハレーション。

 その残像は岩谷の網膜に焼き付いて、いつまでも消えなかった。


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