第21話

国道沿いでタクシーを下り、慣れた足取りで服部家の門をくぐり庭へ侵入する。而して、縁側で文左衛門は死んでいた。あゆむは誰もいない暗い庭で、死後硬直の始まりつつある文左衛門を抱き上げて、その毛皮に顔を埋めた。涙が後から後から溢れて、文左衛門の亡骸を濡らす。自分を責めるなと言われても、責めずにはおけなかった。




 あゆむは文左衛門に向かって、何度も「ごめん」と呟いた。一人ぼっちで逝かせてしまうなんて。孫のユキオとやらが憎かった。看取ってやるのが飼い主の義務で、おじいさんの遺言だったのではなかったのか。でもそれ以上に腹立たしいのは自分だった。




 文左衛門はご主人を救えなかったことがずっと辛かったのだ。彼が言うように寿命だったにしても、目の前で失われることが痛すぎたのだ。そして、それを誰にも打ち明けることができず、なんの慰めもなく生きてきた。あゆむに出会ったことが奇跡だったのは、文左衛門にとって贖罪であり、たった一つの希望だったのだろう。




 あゆむは文左衛門から命を託されたような気がしていた。あの年老いた優しい猫は自分の命を差し出したのではなく、あゆむの中に遺していったのだ。




 文左衛門を縁側に横たえたまま、あゆむは幾度もその亡骸を撫でた。そうしているうちに東の空が明るくなり、朝焼けの海をかもめが飛来し始めていた。このまま文左衛門を連れ帰るわけには行かず、かといって誰を呼んでいいかも分からず、心は千々に乱れた。




 それでも文左衛門を置いてその場を去るより他なくて、あゆむは何度も心の中でごめんと呟いた。


 




 家に帰りつく頃にはすっかり夜は明けていて、あゆむはくたびれきって玄関のドアを開け「ただいま」と小さく言った。




 途端、居間から両親と板橋が飛び出してきて、ボロ雑巾のごとく疲弊したあゆむを見るや、


「どこ行ってたの!」


 と怒鳴った。




「夜中に勝手に抜けだして、なにしてたの!」


 母親が怒り狂ってあゆむに詰め寄ろうとしたのを、父親が割って入った。


「落ち着きなさい。あゆむ、あがって」


「……ごめんなさい」




 あゆむは両親の顔をまっすぐに見つめた。


「病院に行って来たの」


「病院?」


「藤井が危篤で」


「えっ……」


「でも意識戻ったから」




 その言葉をあゆむは両親を見つつも、板橋に向けて報告しているつもりだった。


「助かったのよ」


 両親は唖然として、怒りを忘れ、立ち尽くしていた。




 誰があゆむを呼んだのか、少年はどうなったのか、家族には会ったのか、責められなかったのか、病院であゆむは何をしたのか、膨大な質問が堤防を決壊させるような勢いで湧き上がって来る。




 しかし、あゆむはそのどれひとつ言わせなかった。恐らくは両親がこれまで一度も見たことがないような、厳しい目で彼らを一瞥し、


「心配かけてごめん。でも私は大丈夫だから。私、生きてるから。ちゃんと」


 両親はあゆむの言葉の意味が分からずきょとんとしていた。が、それに構わずあゆむは繰り返した。




「私、生きてるから」




 彼らは一体あゆむはいつからこんなにも物静かで力強い精神を湛えた娘になったのだろうかと、俄かには信じがたい気持で一杯だった。




 あゆむの背中には誰も寄せ付けないバリアのようなものがあり、父親と母親は顔を見合わせた。少年の命が助かったことが、もうあゆむを傷つけないのだと思うと安堵と共に、ではこの先の二人がどうなっていくのかという新たな心配が生まれ、知らぬ間に両親は手を握り合っていた。




 あゆむは二人の前をすっと通り過ぎ階段を上がった。




部屋に入ると真ん中に立ち尽し、しばし無言でいた。後を追ってきた板橋がその背中に向かって、


「死神に会った? なんで助かったんだよ? 運命が変わったのか?」


 とか、


「やっぱり医者のおかげ?」


 と性急に問いかけた。




「でも、良かったな! 彼氏助かって! 心配してたんだよー。あゆむがもう帰ってこないんじゃないかと思ってさあ」




 言いながら板橋はベッドに飛び乗った。そして「あっ」と小さく叫んだ。あゆむが黙ってぼろぼろと大粒の涙をこぼし、歯を食いしばって泣いていた。




「ど、どうした? どっか痛いのか? なに泣いてんの?」


「……文左衛門が」


「おじじさま?」


「……死んだよ」


「え!」


「遺言きいてきた」


「なんでおじじさまが……」




 板橋は驚きのあまり全身の毛が逆立ったようになり、訳が分からず喚いた。




「おじじさま関係ないじゃん! 死んだってどうして? 死神か? あいつ、やっぱり悪い奴だったのか!」


「……」


「どこで死んだんだよ! なんで死んだんだよ!」


「家で。死因は……白血病だって」


「病気だったの? おじじさまが?」


「そう」


「そんな……そんな……」




 あゆむは言えなかった。文左衛門が自分に代わって命を差し出してくれたということを。言えば板橋が自分を憎むようになると思ったのと、板橋がどれだけ傷つくかと思うととても本当のことは言えなかった。




 他の猫たちもどれほど嘆き悲しむことか。そしてあゆむを呪うようになることか。考えるほどせつなくてやりきれない。自分が憎まれるのはもう仕方ないにしても、彼らの大切な人が失われたことがどんなに大きな痛手かは嫌というほどよく分かるから、あゆむはそれ以上は何も言わずしっかりと唇を引き結んでいた。




 板橋は布団に顔を押し付け、咽喉の奥を苦しそうに鳴らし、時々「おじじさま」と嗚咽と共に漏らした。




 朝日が部屋中に満ちている。庭で蝉が命の限りを叫び始めている。昨夜の雨が嘘のような晴天で、空の色はどこまでも澄んだ美しい青だった。





 藤井の退院が決まった日。あゆむは連絡を受けて藤井の家に招かれていた。あゆむの補習は終わり、夏休みも半ばになっていた。




 あゆむの頬にはガーゼの形に日焼けがし、折れた肋骨はうまい具合に修復されたのかもう痛みはしなかった。




 あれから姉の玲奈は帰国してあゆむを見るなり泣きだしてしまった。あゆむは傷はいずれ治るだろうと姉に説明しながら、もう大丈夫だと言った。でも、傷は見ない方がいい、とも。




 姉は久しぶりの実家と久しぶりの日本をくつろいで過ごしている。板橋を懐かしく抱いて。




 あゆむは板橋が嬉しそうに姉に身を委ねているのに、ほっとしていた。


 猫と言葉の通じる不思議な力は消えそうもなかった。




あゆむは藤井の家に向かう炎天下の路地を、小さな花束を携えてこめかみから汗を垂らして歩いた。




 古い家並みと板塀がもはや懐かしく、それぞれに玄関先や家の周囲に並べた鉢やプランターに夏の花が鮮やかで、あゆむはそれを眺めながら目的の家に向かっていた。




 途中、路地の向こうから数人の中年女性グループが歩いて来るのに心づいたあゆむは、何の気なしにすれ違い、しかし、行き過ぎてから小さく「あっ」と声をあげて彼女たちを振り返った。




 その一団は皆新聞に包んだ花を抱え、明らかにお稽古帰りと知れる会話を交わしているのに気付き、あれはもしや大森さんのお弟子さんでは……と立ち止まって彼女たちを眺めた。




 賑やかに喋るのが、通り過ぎた後もまだ残像のごとく風にのって届く。




「先生が退院してよかったわ」


「あぶなかったわねえ」


「発見が早かったのがよかったのよ。今日もお元気そうだったじゃない」


「ほんとねえ」




 ……死ななかったのか? 大森さんは……。あゆむはじいっと彼女たちに目をこらした。新聞から突き出た長い枝ものがアンテナ線のように揺れている。




 寿命は変わる。運命は変わる。そういうことなのね。あゆむは彼女たちが見えなくなるまで待ってから、また歩き始めた。




 そうして訪ったのは藤井のうちではなく、服部さんの家だった。




 あゆむは一瞬迷ったが背筋をぴんと伸ばし、玄関のチャイムを鳴らした。黒ずんだ表札に格子戸。目を閉じて、庭の様子を思い出す。陽に焼けた縁側に吊りしのぶの鉢。ささくれた畳と古い卓袱台。時代がかった水屋。洋間の板敷きに積もる綿埃。文左衛門が幸せだと言った暮らし。




 五度もしつこくチャイムを鳴らしていると、ようやく家の奥から人の気配がし、格子戸にはまったガラスに人影が映った。




 それは緊張の一瞬だった。あゆむは自分が果たさなければならない使命を背負ってやってきたのだ。三和土に人が降り立ち、引き戸ががらりと開くまでのわずかな間にもあゆむは固唾を飲んだ。




「はい……」




 無愛想な声と共に、格子戸が開いた。




 中には背の高い若い男が立っていて、薄汚れたTシャツに破れたジーンズを履き、三和土に立つ足元は裸足だった。




 間違いない。この長髪。何日も風呂に入っていないような不潔な雰囲気と無精ひげ。こいつが文左衛門の話していた孫だ。




「こんにちは」


「……どうも……?」


「突然お邪魔してすみません。私、鈴木あゆむといいます」


「はあ……」




 部屋の奥にはまだ人がいる気配がしていて、なるほど文左衛門が言っていたように友達の集まる声が聞こえていた。




 あゆむはこの家に人間がいるのが初めてで、それは物珍しい新鮮な空気で、思わず中を覗きこみそうになった。




「あの……」




 さて、どう切り出したものか。あゆむは迷いながら言葉を継ごうとした。


 すると青年の背中で、


「ハットリさん、麦茶のパックってどこにあるんですかー」


 と、聞き覚えのある声がした。


 呼ばれた青年はくるりと振り向き、


「水屋の下の段!」


 と大きな声で返事をした。




「そこにないから聞いてるんすよー。なくなったら先に言ってくださいよ。来る時に買ってきたのにー」




 ぶつぶつ言う声がかぶさる。廊下から出てきたのは、庭で会った男の子だった。




 男の子は玄関に立っているあゆむを見ると、


「あれっ」


 と頓狂な声をあげた。


「今日は制服じゃないんだね」


「吉田、知り合い?」


「リカさんの後輩。だよね?」


「……リカの?」




 まずい。あゆむはこのまま嘘を重ねてもすぐにバレるだろうと思い、それ以上男の子が朗らかに、親しげに喋り出すのを阻止しようと「あの!」と切り出した。


「これを!」


 あゆむは持っていた花をずいと差し出した。




「……」




 孫のユキオは怪訝な表情を浮かべ、押しつけられた花に困惑というより怖いような様子で、あゆむをまじまじと見つめた。




「なに、これ。告白?」


「違います!」


「なになになに、どうしたの?」




 三和土に吉田と呼ばれた男の子が下りてくる。


「これ、お仏壇のお供えに」


「……なんで」


 ますますユキオは訳が分からないと言った顔になり、あゆむを探るように睨んだ。




 あゆむは一歩後退し、深呼吸をした。二人の男を前に、自分を奮い立てるようにことさらに背筋を伸ばし胸を張る。




「文左衛門の遺言があります」


「はあ?!」




 吉田がびっくりして声をあげ、ユキオの顔を見た。ユキオの表情がどんどん曇って行くのがわかる。




 あゆむもユキオが怒りだして、殴りかかってきはしないかとドキドキしていた。しかし、そこでやめたり逃げたりするわけにはいかなかった。




「文左衛門は……遺骨を、散骨してほしいそうです」


「……」


「海に」


「……」


「あなたが、おじいさんの遺灰を捲いたのと同じところにしてください」


「お前」


「……」




 逃げないと思いながらも、体が反射的に危険を避けるようにもう一歩後退した。ユキオは怖い顔で裸足のままあゆむに一歩迫って来た。そして深刻な声で、


「お前……じいさんの散骨のことなんで知ってんの」


「ハットリさん、散骨なんてしたんですか。あれ、役所の許可がいるでしょ」


 吉田も驚きと訳の分からない事態に目を丸くしている。


「だから」


「だから?」


「こっそり捲いた。なのになんでお前が知ってんの」


「……」




 文左衛門に聞いたから。そう答えようかと思い、あゆむは一瞬黙った。見も知らぬ小娘が突然やってきて猫の遺言だの散骨だの言いだして、不審どころじゃないのは分かる。頭がおかしいと思われてもしょうがない。でも、そうだ、おかしいと思うなら思えばいい。笑いたければ笑うがいいのだ。なんと言われても自分は文左衛門の遺言を執行する義務がある。少なくとも、彼の言葉を伝える義務が。




「幸せだったって」


「……」


「たぶん最期も苦しまなかったから」


「……」


「このうちで生きられて、幸せだったって……文左衛門が言ってました!」




 そう言い放った瞬間、ユキオの目にみるみるうちに涙がたまり、うっと小さく呻いたかと思うと、恥も外聞もなくぼろぼろと泣き始めてしまった。




 驚いたのは吉田で、二人の間をおろおろしながら、


「君、一体なに言ってんの? ハットリさんもなに泣いてんですか。大丈夫ですか」


「散骨してください、お願いします」




 あゆむはがばっと勢いよく頭を下げ、顔を上げると同時に路地へと駆け出した。


 走って、走って、走って。そして、文左衛門と来た海へ突き抜けた。




 いつか自分のところにまた死神が来たら。その時に自分は言えるだろうか。幸せだった、と。幸せな人生だった、と。と同時に、周りにの人にもそう言わせてあげられるだろうか。




 こんな小さな、無力な手で、誰にも何もしてやれなくても、それでも誰かを幸せにしてやることができるのだろうか。そしてその為に生きることが、この先にできるんだろうか。




 藤井の意識が戻り、さまざまな検査を経てICUを出て一般病棟に移り、許されて面会に行った時、あゆむは藤井の手に触れて泣いた。藤井が生きていて本当に嬉しかった。あれ以上の喜びはこの先絶対にないと思えるほど、嬉しかった。


 でも、その嬉しさは大切な命の代償を払っていると思うと喜んではいけないような気もした。




 藤井はあゆむの顔のガーゼにひどく傷ついた顔をし、あゆむに詫びた。自分のせいで申し訳ないと。あゆむは意外な言葉を聞いたようで、慌てて首を振った。




「藤井のせいじゃないよ」


「でも」


「事故だったんだよ」


「けど」


「いいの。私がいいと言ってるから、いいの」


「……俺、気持ち変わらないから」


「……」


「心配かけて、ごめん」




 病室のカーテンを引いてこっそりキスをして、二人はしみじみと生きててよかったなと互いの命を思い合った。




 そんなこともいつか遠い記憶になるんだろうか。死神が言ったように、彼は来年も、三年後も五年後も自分のものだろうか。もしそうでなくなったなら。あゆむはそれでも藤井を恨んだりはしないと思った。生きているだけで、それだけでよいのだから。




 海風があゆむの頬をなぶる。




 ふと思い立ってあゆむは携帯電話を取り出し、姉に電話をかけた。姉は家にいて、すぐに電話に出ると、


「どうしたの?」


「お姉ちゃん、板橋と代わって」


「は?」


「板橋、そこにいるでしょ」


「代わるってあんたなに言って……」


「じゃあ、いいわ。板橋を近くに……」


「板橋なら今膝の上に乗ってる」


「板橋、お姉ちゃんと一緒にアメリカ行きな」


「はあ?」


 電波の向こう側で姉の玲奈は意味の分からない電話にぎょっとしていた。




 あゆむの声が板橋の頭上に降り注ぐ。板橋は玲奈の膝で神妙な顔をし、あゆむの言葉を聞いていた。




「着いて行く方法あるよ、絶対。あんたの飼い主はお姉ちゃんなんだから」




 あゆむは本気だった。でも、声はなんだか妙に楽しげに弾んでいて、あゆむは自分が名案を言っていると思っていた。




「分かった? あんたはお姉ちゃんと一緒に行くのよ」




 最後にそう言って電話を切ろうとした。すると、聞き慣れた声が、答えた。




「いいよ」


 と。




「どこにも行かない。ここにいる。……死神がくるまで、ここにいるよ」




 水平線の先を行く船が汽笛を鳴らした。あゆむはそっと電話を切った。




 一際大きな船影が遠くに見える。遠すぎて停まっているように見えるが、じっと目をこらしていると確実に波をきって進んでいくのが分かる。あれはどこへ行くんだろうか。あゆむはしばらく太陽に焼かれながら、船の行き先を見つめていた。




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猫と死神(分冊版) 三村小稲 @maki-novel

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