第20話
何らかの計器の電子音が切羽詰まったような音を立てている。専門的な言葉がほとんど怒鳴るように交わされる。あゆむは静かに目を閉じた。
「あなたは本当に執念深い」
さっき田中先生が出て行った仕切りの向こうから、死神が姿を現した。
あゆむは目を開けた。そこにはもうお馴染みになった黒いスーツ姿があって、憮然とした表情であゆむを見下ろしていた。
「藤井を連れて行くのね」
「……」
「答えなくていいわ」
「……」
「あなたが言ったこと、たぶん正しい。生き物の生き死にを人間がどうにかするなんて、それは人間の驕りだと思う。でも、人間は神様の領域に踏み込むとかそういうんじゃなくて、もちろん挑戦しているつもりもなくて、ただ、弱い生き物なのよ。死ぬことが怖いし、大事な人を失うのも怖いだけなのよ。だって、私達には死んだらどうなるのかなんて分からないじゃない。分からないことは、怖いのよ」
「……」
「でもね」
「……でも?」
斎藤は、あんなに昂ぶって頼りなげで、泣きそうだった少女がどうしてこんなにも変貌を遂げたのか理解できなかった。今日の午後に会った時とはまるで別人だと思った。まるで生まれ変わったかのように。そのぐらい目の前の少女は強い眼差しを澄んだ瞳に宿し、なんの邪念もなく、純粋な意思の塊となって立っていた。
「私は怖くない」
「え?」
「私は死ぬのが怖くない」
「……それは……」
「だから、私を連れて行けばいい」
「あなた、本気でそんなこと言ってるんですか」
斎藤は驚きよりも戸惑いを隠せなかった。
「自分の言ってることの意味が分かってるんですか」
「分かってるわ」
「分かってるって……そんな単純なことじゃないでしょう」
「単純なことなのよ」
「私は命を大事にするように言ったはずです」
「してるわ。あなたの言ったこと、全部、本当だと思う。私は私の人生を生きて行く。それ、本当にそうよ。だから藤井の代わりに私を連れて行ってよ」
「それがあなたの生き方なんですか」
「……正直、生き方とかそんな難しいこと分からない。でも、やっぱり、私は藤井に生きていて欲しいの。そこに私がいなくても」
「なんでそんなことできるんですか。相手は他人ですよ。あなたにとっては今は彼氏かもしれないけども、自分の年齢も考えてみたらどうです。今の彼氏は来年もあなたの彼氏ですか? 三年後は? 五年後は? 十年後は? あなたは恋愛に酔っているだけなんですよ。それも、こう言ってはなんだが、恋人の生死を賭けたドラマチックな恋愛に。もうちょっと冷静になるべきだ」
二人の会話、いや、死神の姿そのものが今ここでは他の人間には見えないようになっているのだろう。恐らくあゆむだけが一人でぶつぶつ呟いている姿があるだけで、それは仕切りの向こう側に微かに漏れ出し、田中先生が戻って来て顔を覗かせた。
あゆむは他人には見えざる死神と対峙しつつ、田中先生をちらっと見やった。
「今、田辺先生がご家族と話してるから」
「……はい」
あゆむは頷く。
斎藤が、
「だから、命を大事にしろと言ってるんです。馬鹿なこと言うのはやめなさい」
と叱りつけるように言った。
が、あゆむも引かなかった。
「バカで結構よ。自分の命が大事だから使うんじゃないのよ。あんた、誰かを好きになったことある? 自分よりも大事だと思える人に会ったことある? 心残りはあるかもしれないけども、今、私にできることがこれしかない」
「それはエゴじゃないですか」
「そうよ、人を好きになるなんてエゴに決まってる。でも、だから、なんなのよ。人間ってそういうもんじゃないの」
「なんでそこまでできるんですか。彼があなたにそんなことさせるような、特別な何かをしてくれたんですか」
「私には神様のことは分からないけど、あなたも人間のことなんて分からないよ。分かるわけないよね。だって、あなたは人間じゃないんだから。人の気持ちなんて分かるわけない」
あゆむは、きっぱりとした口調で言い放った。
田中先生がまた戻って来てあゆむを呼んだ。
「入って」
あゆむはもう斎藤を見なかった。すっと一歩踏み出して、招じいれられた明るい場所へ入って行った。
深刻な状態に取り巻かれたベッド。田辺先生があゆむを見て、目交ぜをする。べッドサイドには藤井の両親と二人の兄。
あゆむは彼らの視線を受け、猛烈な緊張に吐き気がするほど胃が痛んだ。藤井の母親はハンカチで口元を覆い嗚咽をこらえ、父親もまた涙目であゆむを見つめていた。二人の兄は藤井によく似ていて、あゆむの顔に貼られた大きなガーゼに視線を注いでいるらしく、言葉を失っていた。
田辺先生がその場を切り崩すように口を開いた。
「お父さんお母さん、彼女もみなさんと同じ気持ちです。責めないであげてください」
あゆむの視線はベッドに横たわる藤井に注がれていた。
伏せられた睫毛があっと思うほど長く、呼吸器をつけられている姿はあゆむの知っている藤井からは遠いような気がした。でも、藤井だ。あの事故以来あゆむはどれだけ藤井に会いたかっただろう。会って、言いたいことが沢山あって、でも言葉にしようとすればするほど陽炎のように遠ざかってしまって、胸が苦しくてたまらなかった。
「呼びかけて」
あゆむは田辺先生の言葉が自分に向けられたのだと気づくと、藤井の家族の顔にさっと視線を走らせた。
なぜここにいるのか、なぜ呼ばれたのか、彼らは困惑と怒りを感じてはいないだろうか。あゆむの存在が彼らを傷つけてはいまいか。せっかく田辺先生が自分のために一肌脱いでくれたのに、それが仇になったりはすまいか。あゆむの怯えたような目が田辺先生に戻される。
と、藤井の二人の兄のうち一人が、あゆむの背を押した。
「頼む」
「……」
「こいつがあんたのこと好きだったの、俺知ってる」
あゆむの視線が今度はICU内を彷徨った。斎藤はどこへ行ったのだ。姿が見えない。
電子音が藤井の心拍数を計測している。脈拍がグラフになって伸びていく。あゆむは藤井の側にかがみこんだ。
「藤井」
呼んだ瞬間、涙が溢れた。その名を口にするのは久ぶりだった。声にするのが憚られて、ずっと喉の奥に塞がれていた大切な名前。会いたくてたまらなかったのだ。ずっと。
「藤井、起きて」
堰を切ったようにあゆむに続いて家族全員がほとんど怒鳴るようにして名前を呼び始めた。
誰もが必死だった。藤井の命を繋ぎとめようと、懸命に名前を呼んで意識を呼びもどそうとした。
その中にあってあゆむは一人、藤井の耳元に囁くように、
「藤井、起きて。お願いだから。藤井」
と訴えた。
どのぐらいそうして名前を呼んだろう。あゆむは涙と洟水でぐしゃぐしゃになり、ベッドのシーツを鷲掴みにしていた。
その時だった。藤井の閉じられた瞼が痙攣したかと思うと、指先が虚空を掴むようにごそごそと動いた。
田辺先生が家族を押しのけるようにして藤井へ駆け寄った。
あゆむは体を起すと、ベッドから後ずさった。意識が戻った。藤井が生き返った……!
「斎藤さん」
手足がすうっと冷たくなるような錯覚が走った。
間断なく処置が続き、家族が号泣する中、あゆむは一歩一歩ベッドから離れ、死神の姿を探した。
「斎藤さん、どこ?」
辺りを見回しても斎藤の姿はなく、その場を離れて行こうとするあゆむを田中先生が保護するように背後から両肩を支えた。
「大丈夫?」
「……私、行かなくちゃ……」
「えっ?」
「すみません、私、行かなくちゃ」
あゆむは田中先生の手を逃れると、まだ混沌の最中にある藤井の家族にぱっと頭を下げ、踵を返し、やって来た通路を猛然と駆け戻りだした。
「斎藤さん! どこにいるの!」
あゆむは暗いロビーへ出ると叫んだ。
備え付けの自動販売機の灯りだけが白々として、非常灯が緑の光をぼんやりと頭上から落としている。
目を凝らすとずらずらと並んだ待ち合いのベンチの一つに斎藤が座っているのが見えた。
あゆむは激しく波打つ心臓に手を当てるようにしながら、斎藤へと近寄って行った。
斎藤に話したように、怖くはなかった。このまま連れて行かれてたとしてもあゆむは覚悟ができていた。ICUを飛び出す最後の瞬間、藤井の目が微かに開いたのが分かった。
「ありがとう。藤井を助けてくれて」
「……」
「……さあ、連れて行っていいよ」
斎藤の前まで来るとあゆむは足を止めた。
心残りについて聞かれたらなんと答えよう。藤井が回復してまた剣道をやれるようになってほしいし、自分のように周囲の責めを負わないようにしてほしい。両親の為に姉の玲奈が帰国して同居してくれたらいいと思う。板橋も喜ぶだろう。形見分けなら、自分が大事にしていた服もアクセサリーも全部友達みんなで持って行ってくれればいい。そうして、いつか誰もが自分のことを忘れてそれぞれの人生を生きていけばいい。
しかし、そんなあゆむの覚悟をよそに、斎藤はおもむろに立ち上がると思いもよらないことを口にした。
「あなたを連れて行くことはありません」
「えっ?」
「あなたの命に用事はありませんから」
「どういうこと? 藤井の代わりに誰かが死ななきゃいけないんでしょう?」
斎藤の言っていることが分からなくて、あゆむは眉間に皺を寄せた。斎藤も険しい表情で、
「あなたの他に、魂の代替えが必要なことを知っている者がいるでしょう」
「……え……」
「誰がいつ死ぬかを知ることができる者がいるでしょう」
「……それ、文左衛門のこと言ってるの?」
「……」
あゆむの全身からみるみる血の気が引いていき、ふうっと貧血のように眩暈が襲って来た。
斎藤はスーツのポケットから手帳を取り出した。
「彼からの遺言があります」
「嘘!!」
あゆむは両手で口元を覆い、愕然として、もう一度手のひらで言葉を受けるように「嘘……」と力なく吐きだした。
まさか。そんな。文左衛門が。どうして。言葉にならない言葉が喉元からせりあがってくる。頭の中を疑問詞が激しく駆け巡るが、どれも声にならなかった。
斎藤はぶるぶると震えだすあゆむには目もくれず、手帳を開くと静かに言った。
「服部文左衛門。享年十七歳。死因は骨髄性腫瘍……所謂、白血病です」
「……白血病……」
「あなたに自分と同じ思いをさせたくないとのことです。何もできない無力さと後悔の中で生きなければならないような、孤独で悲しい目にはあわせたくないと。あなたに会えたことは最後の奇跡だった。だから自分を責めないでほしい。最後に自分が人の為に何かできるというチャンスをくれたことに感謝している。できれば遺灰は主人と同じく海へ散骨してほしいそうです」
「……なにそれ……」
「文左衛門のご主人の遺骨はお墓に入っていますが、お孫さんが一部をこっそり散骨したようですね」
「なによ、それは!」
あゆむは我慢できずに斎藤につかみかかった。
「なんで文左衛門が死ななくちゃいけないのよ!」
斎藤はあゆむにスーツの襟を両手で掴まれ、体当たりで揺すぶられるのに抵抗することもなく、黙ってされるがままになっていた。
あゆむは斎藤の胸を拳で殴り付け、
「幸せだって言ってたのに! 私、文左衛門に代わりに死んでくれなんて言ってない!」
「……」
「あんた、騙したのね?! なんで文左衛門連れて行くの! ひどいよ! あんたにそんなことする権利あんの?」
「……文左衛門が望んだことです」
「嘘!」
斎藤があゆむの拳を大きな手のひらでがっちりと受け止めた。動きを封じられたあゆむは抵抗し、嗚咽を漏らしながら斎藤の脚を蹴った。
二人は揉み合いになり、壁にぶつかり、自販機にぶつかりしながら、激しく格闘した。
あゆむには到底信じられなかった。文左衛門が死ぬ理由など一つもないのに。また会う約束もしたのに。
「連れ戻してよ! 文左衛門じゃなくて、私を連れて行けばいいのよ!」
そう怒鳴ったあゆむに、とうとう斎藤は渾身の力をこめてあゆむの両手首を捕まえロビーの壁にどしんと自分の身体ごと押しつけた。
「文左衛門は自分が死ぬことを知っていました!」
斎藤の身体に抑えつけられひやりとした壁の固い感触を背にしたあゆむは、抵抗することをやめ、荒い呼吸をしながら激しくしゃくりあげた。
「文左衛門は、自分が死ぬことを知っていたんです」
斎藤は同じことを、今度は静かに諭すように言った。
「……誰がいつ死ぬか分かるように、彼は自分の命がもう長くないと知っていた。そして、私に自分の死期を自分で決めたいと申し出たのです」
「……」
「彼は、あなたの中にかつての自分を見たのでしょう。大事な人が死ぬと分かっていても何もできない無力さが、どれだけ辛いか。その後に後悔を携えて生きて行くことがどれだけ苦しいか。彼は知っていた」
「だって、そうしたら、あんたも知ってたんじゃないの」
「斎藤です」
「……斎藤さん! 斎藤さん、ほんと、ひどいよ! 中途半端に本当のこと言って、人を振り回すなんて!」
「そんなつもりありません」
「つもりなくても、実際そうじゃないの。あなたが一番命を弄んでる」
「私にはなんの権限もありません。私は自分の職務を全うしているだけで、人を傷つけようなど思っていない」
「あなたはどうだか知らないけど、私達はいつか必ず死ぬわ。だから、命が大事で、守りたいんじゃないの。自分の命も大事な人の命も。どんな手段を使ってもそうしたいと思うに決まってる。あなたには仕事で、人の死がよくあることの一つだとしても、私たちにはかけがえのない一つだけの命なのよ」
あゆむは斎藤の身体を押し返した。斎藤はあゆむから一歩退いた。
「文左衛門はどこにいるの」
「彼はもう……」
「死んだんでしょう?! だったら! 遺体はどこにあるのか聞いてるのよ!」
「……自宅に」
斎藤はあゆむの厳しい口調に幾分気圧されるようだった。あゆむもまた、どうしてこんなに強く自分を保っていられるのか不思議なほどだった。
行かなければ。あゆむはまだ眼の前に立ちはだかっている斎藤を押しのけるようにして、ロビーを大股に横切って行った。
「どこへ行くんですか」
「服部さんちよ」
「なにしに」
「斎藤さん」
「なんですか」
「あなたが馬鹿じゃないなら、分かるでしょう。それとも、本物の馬鹿なの?」
イライラとあゆむは吐き捨て、夜間受付の前を通り斎藤を残して病院を走り出た。
まだ夜は明けておらず、しかし雨は止んでいて街は静かな眠りの中にあった。
通りの先にタクシーが一台停まっているのが目に着いたあゆむは「おや?」と足を止めた。あれはここへ来る時に乗って来たタクシーだ。
あゆむはゆっくりタクシーへ近づいて行くと、運転席でうたたねをしていたドライバーを起こすべく二度ほど窓ガラスをノックした。
運転手はすぐに目を覚まし、あゆむの姿を見ると微笑んで後部座席のドアを開けた。
運転手は、来た時と違って何か糸の切れたような、それでいて傷ついた表情の少女をバックミラー越しに見た。そしてはたと気がついたのはこの少女の目が猫のようによく光る、美しい目だということだった。
あゆむは行き先を告げるとシートに身体を預け、目を伏せた。あんな相談をかけなければ。しつこくつきまとわなければ。自分がしたことは一体なんだったのだろう。文左衛門の過去をほじくりかえし、傷に塩を塗り込み、自責の念でがんじがらめにして死へ導いただけのことではなかったか。
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