第19話
結局、びしょ濡れになって帰って来たあゆむに母親は怒るよりも呆れかえり、しかし無事に帰って来たことに安堵して、
「早くお風呂に入りなさい。夏風邪はバカが引くものよ」
と、あゆむを風呂場へ追い立てた。
「バカは風邪ひかないっていうじゃないの」
「なにしょうもない理屈こねてんの。いいから早く入って」
「お母さん」
「私、この怪我治らなくても平気だからね」
「えっ」
「お母さんも気にしないで。傷が残るのが運命なら、それに従って生きる道もあるんじゃないの」
「……なにをそんな急に……。誰かに何か言われたの?」
母親の顔が急速に曇る。けれどあゆむはことさらににこやかに笑って見せた。
「別に、なにも。ただそう思っただけ」
あゆむは背中を押してきた母親の手をするりと離れて、脱衣所に入ると扉をぱったりと閉めた。
あゆむは顔の大きなガーゼをおもむろに取り外しにかかった。そうまじまじと見つめたことのなかった顔の傷を鏡に映す。縫合の痕が生々しい。まだ再生しきらない皮膚が生肉を連想させるような色合いで我ながら気色悪く、打撲の痕もまだ青く座取っている。
この傷と生きて行くのだ。それは自分にとってひどく険しい道になるのは想像に難くない。でもあゆむはその道がいかに厳しくとも歩けないものではないと思った。
風呂に浸かりながら、あゆむは意識不明の間に実は一度死んで底知れぬ運命の力で生き返ったような気がしていた。
風呂場の窓を風ががたがたと鳴らし、ざあっと激しく雨音が鳴る。この天気では猫集会は中止だろう。あゆむは他の猫たちを差し置いて今夜文左衛門を独占できて幸運だったと思った。
雨は深夜まで降り続けた。板橋はあゆむの部屋に来てごろごろとベッドに寝転び、久しぶりにくつろいだ気持ちになって漫画など読んでいるあゆむに、
「あゆむの彼氏ってどんな人?」
と尋ねた。
「どんなって……。普通の人だよ」
「普通の人ってどんな?」
「だから、普通よ。剣道部で背が高くて、優しくて、真面目で、男らしいタイプ。普段は無口な感じだけど、仲良くなると結構喋ってくれる。人見知りするのかもね」
「ふうん」
「なんで急にそんなこと聞くの」
「れいちゃんと彼氏の好みは違うんだなと思って」
「お姉ちゃんの好み?」
「れいちゃんは、顔で男を選ぶようなところがある」
「嘘よ、そんな」
あゆむは漫画を置いて笑った。板橋は寝転んだままあゆむを見上げ、
「本当だよ。男前で、エリートで、テニスとかするような奴が好きなんだよ」
言われてみると確かに姉の結婚相手は背が高くて男前で、大手企業のエリートでテニスが好きだった。
「たぶんあゆむの方が男の趣味はいい」
「なにそれ。板橋、啓一郎さんに嫉妬してるの?」
「あゆむの彼氏、いいヤツなんだろうな」
「……そうよ」
「助かるといいな」
事故のおかげというべきなのか、猫と言葉が通じるようになって、あゆむは初めて良かったと思った。友達の誰にも打ち明けることのできなかったことが、今、言える。言う相手がいる。一人ではないと思えることがこんなにも自分を支えてくれるなんて知らなかった。
もはや夜が長いとは思わなかった。時間をもてあまし、暗闇に目をこらして嘆きの中でのたうちまわるようなことはなく、静かに過ごすことができる。それも、猫のおかげで。
あゆむと板橋は遅くまでなんてことない日々のことや生活のあれこれを喋ったりして過ごした。
あゆむは板橋が近所の猫たちから「よそ者」と言われ「ちょっと都会から来たからって気取ってる」とか「生意気」と言われていることを聞き、あゆむは猫と言葉が通じるようになって頭がおかしくなったと思ってこっそり病院に行ったことや、藤井と同じ剣道部の子から生き残ったことに対する嫌味を言われたりしたことを話した。
その合間にあゆむは台所から容器ごと持ちこんできた麦茶を飲み、板橋はあゆむに持ってこさせた水の器からぴしゃぴしゃと水を飲んだ。あゆむは板橋の為にクーラーをつけず、窓を開けて扇風機をつけていた。
あの嵐のような風はやんだが雨はまだ激しく降っていて、土の匂いと雨の匂いの入り混じった空気が部屋中に充満していた。
湿気と暑さで皮膚がしっとりと汗ばんでいたが、それを不快には思わなかった。
二人が喋りながら寝落ちしてしまったのは一体何時だったろうか。そして眠っていたのはどのぐらいの時間だったろう。あゆむは傍らに置いた携帯電話の着信音がしつこく自分を眠りの海から引き戻そうとするのに、唸りながら目を覚ました。
一体こんな時間になんの冗談だ。あゆむは部屋の電気を煌々と点けっぱなしにしていたので、眩しくてすぐには目を開けられなかった。が、どうにか重い瞼をこじ開けて携帯電話を掴んだ。
ディスプレイに表示されているのた知らない番号で、あゆむは途端に面倒になって電話を切ろうとした。が、天啓とでも言うべきだろうか、普段なら知らない番号からの着信に出たりしないのだけれども、あゆむは訝りつつも電話をとった。悪戯だとか間違いの類いに違いないと思いながら、不機嫌な声で。
「もしもし」
着信音で同じく目を覚ました板橋が欠伸をしながら「誰から?」と尋ねた。
「もしもし? 夜分遅くにすみません、鈴木あゆむさんの携帯電話で間違いないでしょうか?」
「はい、そうですけど……」
「あゆむちゃん?」
「はあ……」
声の主は男だった。
あゆむはますます眉をひそめて、板橋に向かって首を傾げるジェスチャーをした。
「こんな時間に申し訳ない。えーと……中央病院の田辺です」
「あっ……」
電話はあゆむの担当医からだった。
「寝てたよね……? 君の携帯の番号は心療内科の問診に書いてあったから……」
「はあ……」
「……落ち着いて聞いてくれるかな」
「……」
「君に連絡するのは本当は僕の裁量ではないんだけども」
不意にあゆむの鳩尾にぐっと痛みが走った。咄嗟にあゆむは自分のシャツの心臓のあたりを鷲掴みにし、息を殺した。携帯電話を押しつけた耳の奥で、血流ががんがんと音を立てる。
「君の彼氏の容体が急変して、危篤状態です。今からすぐに来たほうがいい」
「……」
「彼の家族も今こっちに着いた。夜間の救急外来の入り口は分かるね?」
「……」
「受付で田中先生を呼んで貰って。君がカウンセリングを受けた心療内科の先生だよ」
あゆむは息ができなかった。苦しくて、吸いこもうとしても咽喉を塞がれてしまったように空気が入ってこなくて、言葉を吐きだそうにもそれも叶わずただ胸が締め付けられ、手足がぶるぶる震えていた。
「あゆむちゃん?」
医者があゆむの名を呼んだ。
「あゆむちゃん、しっかりして。今すぐに病院に来るんだ。いいか、タクシー飛ばして、急いで来てくれ。彼の為にも……君の為にも、来た方がいい」
動物の優れた聴覚で電話の内容を聞いていた板橋が突然躍り上がってあゆむの腕をばりっと引っ掻いた。
「いたっ……」
「あゆむ、早く!」
板橋に怒鳴りつけられたのと痛みで我に返ったあゆむは、担当医に向かって叫んだ。
「すぐ行きます!」
あゆむは寝巻に着ていたよれよれのTシャツの上から椅子に放り出してあった不断着のギンガムのシャツに袖を通し、ボタンを嵌めるのももどかしく、ジーンズに足を突っ込んだ。
あゆむが近づくよりも先に運命の方で近づいて来てしまった。藤井の命の行方が、今決まろうとしている。
「あゆむ、裏口から出て国道の方に行ったらタクシーすぐつかまるから」
板橋が部屋を出て階段を下りるあゆむに言う。あゆむは返事をすることができなかった。もう涙で目の前が滲み、足を滑らせないようにするだけで精一杯だった。
「あゆむ、金持ってんのか。台所の引き出しにお母さんが封筒にお金置いてるから」
あゆむは言われるままに暗い台所に入り、食器棚の引き出しから銀行の封筒を見つけ出してポケットに押し込んだ。
「早く、早く」
板橋が足元でせかす。
両親はすでに寝室に引き取って深い眠りの中にいる。が、あゆむは物音を立てないように注意を払うことはできなかった。手が震えて、どうしたって音を立ててしまう。板橋が寝室の扉の方を何度も見ながら、またあゆむをせかす。
あゆむは玄関からサンダルをとってきて、廊下を走って裏口の小さなドアを開けた。
「あゆむ!」
飛び出して行こうとするあゆむを板橋が呼び止めた。その声の切羽詰まった響きに、あゆむは板橋を振り返った。
「帰ってこいよ。絶対に。ちゃんと帰ってこいよ」
あゆむは板橋の真剣な眼差しにまともにぶつかった。あゆむの目になみなみと湛えられていた涙がぼろっと零れ落ちた。
返事ができなかった。あゆむはその時の判断に自分を委ねることにしたのだ。今約束はできない。何一つ明言することは、できない。そして嘘をつくこともしたくはなかった。友達に嘘をついたりしないのだから。
あゆむは板橋の視線をふりきるように「行って来る」と言い捨て、表へ出た。
外はまだ篠突く雨で、板橋に言われた通り国道へ出る道を走り、大通りを行く車の群れを前に息を切らせながらシャツのボタンをきちんと嵌めて、タクシーに向かって手を振った。
「中央病院まで。急いでください」
転がり込むように乗車し、せきこむように行先を告げると、タクシーの運転手はちらっとバックミラーであゆむを見たなり、重い口調で「中央病院。夜間入口の方ですね」と言って目指す方向へアクセルを踏み込んだ。あゆむの様子が尋常ではないのは一目瞭然だった。
雨に濡れて光る街燈や車のライトを見つめながら、あゆむはシャツの袖で顔を拭った。
このまま行けばそこには死神がいる。あゆむが藤井を助ける為にできるただ一つの方法が、そこにある。
車のフロントガラスをワイパーが規則的に拭う。道路は空いていてこのまま行けば病院まではあと十分もあれば着けそうだった。
不意にあゆむは頭の中にこれまでの人生のハイライトシーンが映画のように流れ出すのを意識した。
幼い頃のバースデーケーキ。蝋燭を吹き消すのが楽しくて、何度もしつこく繰り返したこと。自転車に乗れるようになるまで、姉の玲奈が根気強くつきあってくれたこと。小学校の絵画コンクールに入選したこと。初恋の男の子が転校していって号泣したこと。いじめの嵐が吹き荒れていた中学時代の殺伐とした風景。初めての告白と失恋。友達と盛り上がったカラオケ。ちっとも美味しいと思わなかった缶ビール。板橋がうちに来た日のこと。藤井と初めて話しをしたこと。好きだと言ってくれる時の熱っぽいかすれた声。制服の背中。そして、あの事故の瞬間、世界がスローモーションとなって破壊されていったこと。
このまま自分が戻らなければ、両親も姉の玲奈も、友人たちもきっとあゆむという存在の喪失に泣くだろう。あゆむは自分がこれまで与えられる愛情を当然のように受けてきたことが悔やまれた。当たり前なことなどなにもないというのに。
すべては小さな奇跡の積み重ねで自分へと繋がっている。あゆむはその奇跡を大切にすべきだったのだ。
このまま藤井が戻らなければ。彼の家族も友人もどれだけ嘆き悲しむだろう。そしてあゆむを恨み、憎むだろう。誰も理性で考えればあゆむに責任を負わせることなどできはしないはずなのだが、そうでもしなければ気持ちに折り合いをつけることはできないに違いない。あゆむは生きていることそのものを否定されるだろう。
学校で囁かれていたあの「自分だけ助かってもね」という言葉は永久に抜けないトゲのようなものだ。化膿した傷がじんじんと痛み、生涯あゆむを苦しめることになる。それもあゆむはすでに承知していた。
あゆむは膝の上で拳を握りしめた。
タクシーは病院の表玄関ではなく横手にある小さな入口の前に横付けになり、運転手はそこまでの金額を告げて後部座席の少女を振り向いた。
運転手は少女の固く強張った表情に、思わず「大丈夫?」と尋ねた。少女はこくりと頷くと、ジーンズのポケットから銀行の封筒を取り出して一万円札を差し出した。
こんな時間に一人で、泣きながら雨に濡れてタクシーに乗り込んできた少女にどんな事情があるのかは分からないが、彼にもそれが決して明るいものではないのだけは見てとれた。
このまま走り去ってよいものか。そんな風に思ってしまうほど少女は思いつめた表情で釣銭を受け取り、車を降りて行った。運転手は一瞬間思案し、病院へ入って行く少女を見送ってからエンジンを切った。
あゆむは夜間受付で、言われた通りに心療内科の田中先生を呼んでくれと申し出た。
恐らく彼らの間ですでに連絡がされていたのだろう。守衛は頷くとすぐに内線電話で心療内科医を呼んでくれた。あゆむが小馬鹿にしていた、あの若い心療内科医を。
あゆむはあの時の診断が今となっては正しいものだったなと思った。様子を見ようというのは間違いではないし、いい加減な回答でもなくて、本当に様子を見るより他なかったのだ。嵐が過ぎ去るのを身を小さくして待つようなものかとも、思う。ようするに医者は「大人」で患者であるあゆむは「子供」だったのだ。
電話を受けて田中先生はすぐにやって来た。そしてあゆむを見ると薄暗い廊下へ手招きをし、
「ここからICUに行けるから」
と、連れだって歩きだした。
非常灯だけで歩く病院の廊下は肝試しじみた不気味さがあったけれど、あゆむは怖いとは思わなかった。ただ、どこに死神がいるのかをきょろきょろと見回しながら突き進み、その間にも田中先生が、
「急に血圧が下がって、心臓が弱ってる。脳波は正常らしいけども」
「……」
「今、家族の人が来てる」
「……」
いくつかのドアを通り抜けたところで、二人は足を止めた。
「この向こうが、ICUになってる」
言われずともあゆむはバタバタと行き来する足音や医者や看護師の緊迫した声、そして藤井を呼ぶ家族の泣き声でそこがそうなのだと知れた。
「田辺先生に知らせてくるから、ここにいて」
田中先生はそう言うと、あゆむを残して仕切り一枚向こうへ出て行った。
あゆむは奥歯を噛みしめ、わずか数秒の間、仕切りの向こう側で藤井の生命を救わんとする、神の領域へ踏み込む人間の仕業に耳を傾けた。
それから、小さくその人の名を呼んだ。
「斎藤さん」
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