第18話
今日二度目の海辺の町。海岸沿いの国道から見える夜の海はドス黒く広大な闇で、波の気配も感じられない。
バスを降りる時、運転手が何か言いそうに、咎めるような目であゆむを見たがあゆむはその視線を振り切るように乗降口から板橋を抱いて飛び降りた。
板橋を下ろすと二人は小走りに路地へ入って行き、板塀に囲まれた服部さんの家へ向かった。
夜ともなれば文左衛門の飼い主も家にいるかもしれないが、そこは板橋がいるから大丈夫だと思った。自分が不法侵入しなくても、板橋を送り込むことができる。
あゆむは服部さんの家の前に来ると「ここだよ」と板橋に言った。
「家の人はいないのかな」
「家の中、暗いね」
「見てこようか」
板橋はそう言うと玄関の格子戸の奥を窺っているあゆむを残して塀の下から庭へとごそごそと入りこんだ。
室内に灯りはなく、玄関灯の黄色い光だけがあゆむを照らし出している。静かな、静かな夜だった。
「あゆむ」
暗い庭から声がした。板橋があゆむを呼んでいる声だった。
あゆむが真っ暗な庭へ入って行くと、そこにはやっぱり開け放された縁側に文左衛門が座り、靴脱ぎ石の上に板橋がいて、どちらも目を宝石のようにきらりきらりと光らせていた。
「一体なにごとかね」
文左衛門が欠伸をしながら言った。
「よかった。文左衛門いてくれて」
「おじじさま、聞きたいことがあるんです」
「二人揃ってなにを、そんな……」
「あの死神、嘘ついてない?」
あゆむは庭に立って文左衛門と向かい合ったまま、口を開いた。
部屋の中には洗濯物を干すロープが渡っていて、そこには何枚もの白黒写真がぶら下がっていた。昼間の学生が撮ったものだろうか。今どき白黒とは珍しい。卓袱台には缶ビールが一本取り残されている。
文左衛門は不意を突かれて丸い目をさらに丸くし、
「どういう意味かいのう……」
と板橋とあゆむを交互に見比べた。
「昨日死んだおじいさんの奥さん。自殺したそうよ」
「……」
「文左衛門も聞いてたでしょ。あの時、死神のヤツはおじいさんの遺言を聞いてたじゃない。おじいさんは、おばあさんが悲しまないですむようにしてくれって頼んでたでしょ。で、死神は善処するとかなんとか言ってたじゃない」
「ふむ……」
「でも、おばあさんが死ぬなんてそんなの話し違うじゃないのよ」
「まあ、待ちなされ待ちなされ。死神は嘘をつけんよ」
「どこがよ、嘘ついてるじゃないのよ」
「おばあさんが死んだのはさておき……。死神はその仕事の内容はともかく、神と名がつく以上嘘はつけんようにできとる。彼らのいうことは全部本当のことだけじゃ。おばあさんが死ぬことは知っていたかもしれんが、方法はともかくおばあさんの苦痛は死をもって取り除かれたことになる」
「そういう理屈って、アリなの?!」
「あゆむ、声でかい」
板橋があゆむの足元で牽制するように、うろうろとまつわりつく。
なるほど確かに死神は直接嘘はついていないかもしれない。が、本当のことも言っていない。それとも失う辛さに耐えることはできないから死がおばあさんを救ったというのか。
「おばあさんが死ぬことも、初めから決まっていたの? 文左衛門は知っていたの?」
「そんなことまで儂は知らんよ。分かるはずもないじゃろう。寿命だったんじゃないのかね」
「自殺は寿命じゃない」
「原因は関係ないんじゃ。その人が選択するなら、それだって寿命じゃよ。そういう運命だったんじゃ」
「寿命は変えられるって話しだった」
「あゆむさんよ」
「……」
「一体、死神に会ってなにを聞いてきたのかね」
なにを聞いたか。あゆむは昼間の出来事を思い返し、息苦しさを感じて空を仰いで深呼吸をした。夜空には黄色い月が浮かんでいた。目を閉じると微かに潮の匂いがするような気がした。
「……私には誰も助けられない。大森さんが明日死ぬのも分かってても、どうにもできない。藤井が……藤井が死んでもなにもできない」
「……」
「文左衛門は、そのこと知ってたの?」
「……」
「ねえ」
「……」
「知ってて、私に死神を会わせたの? 死ぬと知ったら、私には助けることができないって」
「……そんなことまで話すとはのう……」
文左衛門はため息まじりに、困ったように、前脚を舐めて毛づくろいをし始めた。
その呑気たらしい様子にあゆむはかっとなり、思わず怒鳴りつけた。
「なんで教えてくれなかったのよ!!」
「あゆむ、声が大きいってば」
板橋がぴょんとあゆむの膝に飛びついた。
しかしあゆむは昂ぶる声を押えることができず、
「どうにもできないなら、なんで教えてくれなかったの? 人の生き死にはどうにもできないって、なんで言ってくれなかったの? 寿命は変わるとか運命は変わるとか可能性だけ見せといて、期待させて、本当はどうしようもないなんてひどすぎる!」
「あゆむさんよ、あんた、全部聞いてしまったんじゃな」
「そうよ、死神は嘘つかないんでしょ? 嘘つかないまでも、黙ってることはできないわけ? 全部本当のことを言うのが正しいとか思ってんじゃないでしょうね? 冗談じゃないわよ。必要悪とか、人を傷つけない為の嘘ってものもあるんじゃないの?」
「……まさか、死神があんたに話すとは思わんかったんじゃよ……」
「……」
文左衛門はそう言うと毛づくろいをやめて、がっくりとうなだれた。
その姿はいつもよりぐんとしょぼくれて小さく見え、これまでそうとは思わなかった文左衛門の老齢を露わにしていた。
「あんたの言う通りじゃよ……。すまんことをしたのう……」
「……」
「でも、わざとじゃなかったんじゃ。儂はあんたが可哀想になってしもうて。だから死神に会わせてやったんじゃ。でも、まさか、本当のことを言うてしまうとは思わなんだ……」
「なんで……」
「あゆむさん、儂もあんたの気持ちがよう分かるんじゃ」
文左衛門は力なく呟くと、「まあ、座りなされ」とあゆむを縁側に誘った。
あゆむは気が抜けたように縁側に腰をおろすと、洗濯ロープの写真を見上げた。月灯りと街燈だけでは写真の内容までは見えず、それらは黒い不吉な蝙蝠のように闇の中を吊り下がっているだけだった。
板橋は激昂をやめたらしいあゆむにほっと胸をなでおろし、自分は靴脱ぎ石のひやりとした感触の上に落ち着いた。
文左衛門がほうとため息をついた。
「儂は子供の頃からずっと死神が見えとった。だからいつ誰が死ぬのかも、知っとった。けど、儂にとってそれは大したことじゃあなかった。最初から死神と話しができとったし、世界は死で溢れとる。どんな生き物も死から逃れることはできんということを、当たり前のものとして知っとったんじゃ。だから、なにも感じたことはなかった」
「……」
「まあ、儂も若かったということかのう」
「私には無理だわ。平静でいられない。大森さんのことも、全然知らないけど、やっぱり死ぬと分かって平気ではいられないわ」
「それはあんたが優しいからじゃよ」
優しい。それは違う。あゆむは思った。他人が死に瀕するのを無視できないのは、無視することで罪の意識を背負うことになるからだ。
風が出てきたのか、縁側に吊るした風鈴が微かな音を立てた。板橋の視線が風鈴に下げた短冊の揺れるのを追っている。
「みんないつか死ぬ。儂はそれをずっと知っとった。分かっとった。悲しいこととも思わんかった。けど、あゆむさんよ、あんたなら分かるじゃろう? 大事な人のこととなると、話しは別じゃということが」
「……」
「儂はここのうちへ来てから、そりゃあもう幸せじゃった……。大事にしてもろうて。儂のご主人は漁師で、夜中のうちに起き出して漁へ出て、朝に帰ってきてまず風呂に入る。冬は儂を抱いて湯船に浸かる。ちゃあんと耳に水が入らんように注意しもってなあ。肩まで浸かれ言うて笑うんじゃ。それから、御寮人さんと朝ごはんを食べる。朝だけど、仕事は終わったから酒を飲む。そりゃあもうたんと飲む。儂を膝に乗せてくれてなあ。お猪口を舐めさせてくれたりもしたもんじゃ。御寮人さんは猫にお酒はええことないからやめるよう言うとったけども、酒というのはなかなか旨いもんでのう。儂は好きじゃったよ」
「ごりょうにんさんて誰」
「なんじゃ、知らんのか。奥さんのことじゃよ」
「ああ、おばあさん」
「若い頃は美人だったとかで、年をとっても品のある人じゃった。仲のいい夫婦で評判じゃった」
板橋が目を輝かせながらあゆむに訴えかけた。
「あゆむ、俺もお酒飲んでみたい」
「飲まなくていいよ」
「だって旨いんだろ」
「体に悪いんだよ」
二人のやりとりに文左衛門はふふと笑った。
なんとも不思議な娘さんに出会ったしまったと文左衛門は思った。猫と言葉が通じるとかではなく、この傷ついた少女は文左衛門がもうとうに忘れていたような昔のことや、忘れたいとも思っていたせつない事を思い出させる。そして、忘れ難い大切なことをも浮き彫りにする。
恋人の生死の行方を知りたいと懇望した時のあの真剣な眼差しに文左衛門はかつての自分を見たような気がして、死神に引き合わせる決心をしたのだった。
近隣の猫たちはみな自分を神のように崇め奉り、尊敬してくれている。しかし、文左衛門自身は決して彼らの言うような猫ではないと思っていたし、言われれば言われるほど心のどこかで重い責めを負っているような気がして申し訳ないような気がしていた。
確かに多くの生命の行方を見つめてきた。でも、それに対して自身が何かをしたことは一度もなかった。ただ傍観しているだけで、それこそ猫たちが言うような神のような力を奮うことなどあるはずもなく、いや、初めからできるわけがないのだから仕方ないのだけれども、そんな期待をこめたような目が文左衛門を息苦しくさせていた。自分はただの年老いた猫。それだけだというのに。
文左衛門は改めて目の前の少女をまじまじと見た。顔に傷はあれども、この少女は美しい目をしている。真摯な目だ。文左衛門は初めてそのことに気が付き、
「あゆむさん、あんた、猫みたいな目をしとるのう」
と言った。
「なにそれ」
「あゆむ、暗いとこでも見えんの」
「見えないわよ」
板橋とあゆむは顔をおかしそうに笑いあった。そして笑ってからあゆむははっとした。
「待って待って。文左衛門。おじいさんの話し」
「なにかね」
「さっきから、なんで全部過去形なの?」
思い出が過去形なのは当然だが、文左衛門の言い方ではまるですべてが遠いもののようだとあゆむは心づいた。まるで、そう、まるで失われたもののようだと。
「文左衛門。その、あんたのご主人と御寮人さんはなんで家にいないの」
「……」
文左衛門の目が人間のように悲しい色に曇り、人間のように瞼を伏せた。それはあたかも耐え難い痛みが去来するかのように。あゆむと板橋はまさかという気持ちで息を呑んだ。
「それはのう、二人とももうこの世にはおらんからじゃよ」
「なんで教えてくれなかったの!」
あゆむはまた同じ叫びをあげた。
文左衛門は涙をこらえる時のように口元を微かに歪めて微笑んだ。
「あんたはなんでもあらかじめ知っておきたがるんじゃのう」
「そういうわけじゃないけど……」
「初めから答えが用意されとるような人生は面白くないじゃろう」
「そんな話ししてるんじゃないわよ。……いつ? いつ亡くなったの?」
「御寮人さんが亡くなったのは、もう、七年ほど前になるかのう……」
「……病気?」
「ふむ」
「……おじいさんは?」
「去年に、な」
「去年……」
「ぽっくりとな」
「……」
あゆむはこの雑然とした古い家に今一つ生活感を感じなかった理由が初めて飲みこめた。ここは主を失った家なのだ。出入りしている孫やその友達はここに生活感を与えるほどには馴染んでいない。まだ一年足らずでは。
「儂は、知っとった」
「……」
「御寮人さんが死ぬのも、ご主人が死ぬのも」
文左衛門は金色の丸い目を懐かしい思い出を語るように細めた。
「その頃のこのあたりの管轄は定年を控えた中年の死神でのう」
「定年ってあるんですか」
板橋が口を挟んだのをあゆむが「しっ」と制した。
「まあ、言うなればその道のベテランじゃった」
今度はあゆむが口を挟んだ。
「ベテランって……」
今度は板橋が「しっ」と制する。
文左衛門は静かに続けた。
「御寮人さんが死ぬのは、ある意味、家族のみんなが知っとることじゃった。末期癌じゃったからのう。それでもご主人の嘆きようときたら、傍で見ていても辛かったよ。あの豪快で屈強な海の男だったご主人があんなに泣くとは夢にも思わなんだ」
「仲良かったんでしょう。無理ないよ」
「でものう、あゆむさん。ご主人は御寮人さんが死ぬことを知っておったはずじゃよ。儂とおんなじにな。それなのにあんなに悲しむなんて儂はびっくりしてしもうたよ」
それは昨晩の磯崎さんのおじいさんの言葉を思い出させるものだった。末期と分かっていても、死はすべてを奪っていく。おばあさんが自殺したというのがあゆむの胸に突き刺さる。と、同時に、奥さんの死を嘆き悲しんだことに驚いたという文左衛門の言葉に苦いものを感じてもいた。
それではあゆむはどうだろう。藤井が死んだら。自分の顔に残った傷痕を見る度に彼を思うだろうし、また、彼を思いだなさい日はないだろう。自分だけ生き残った罪悪感に苛まれ、後悔の念に駆られながら生きて行くことは想像に難くない。
もし、自分が死を選ぶとしたら。それは悲しみに耐えられないからではない。もちろん、藤井を好きでこの恋を永遠にするためでもない。一人で生きて行くことから逃れるための死だ。今や生きて行くこともエゴなら死ぬこともあゆむにはエゴでしかない。
胸の中に猛烈な砂嵐が吹き荒れている。
「ご主人は本当に急じゃったよ」
「……」
「死ぬ前の日までぴんぴんしとった。でも、夜になって死神が来てのう」
「どうにかできなかったの?」
「あんたも聞いたじゃろう? 初めから知っていたら、そこに触れることはできんのだと」
「……。私、それは死神が嘘ついてるのかと思って、それで……」
「嘘ではないんじゃよ。さっきも言ったが彼らは嘘はつけないんじゃ。でも、儂がそのことを知ったのはその時が初めてじゃった」
「え?」
「あんまり急にご主人が死ぬことになったもんだから儂はびっくりして、焦ってしもうてのう。どうにかして助けられんもんかと思って、それこそあんたみたいに死神に頼みこんだんじゃよ。どうしたらいいのか聞いたし、なんでもするとも言った。それこそ必死で頼んだんじゃ。けど、その時の担当者はどうにもできんの一点張り。とにかく急なことで、誰にもどうにもできんのだと終いには頭まで下げて勘弁してくれと言うてのう……。そこが今の死神の若造と違うところじゃ」
「……」
「ご主人は夜中に寝ている時に心筋梗塞で、そのままぽっくり逝ってしもうた。まあ、苦しまなかったのが幸いといえば幸いかもしれん」
「それで、死神はおじいさんに心残りはないか聞いた?」
「ああ、聞いたよ」
「おじいさんは、なんて?」
「……先に死んで申し訳ないと」
「……」
「動物より飼い主が先に死ぬのは申し訳ないと言いなさった。最後まで看取ってやる責任があったのに果たせなくて申し訳ない、と。後の事は孫のユキオに頼むから、長生きするようにと言うてくださった」
文左衛門の言葉に思うところがあったのだろう、板橋は沓脱ぎ石の上に突っ伏すように体を小さく固くした。あゆむは板橋が何を考えているのか分かる気がしてせつなかった。
夏の夜に涼風が立ったかと思われた風鈴の音が、次第にちりちりとうるさくトレモロを打つようになっていた。気がつくと風は雲を押し流してきて、月は隠れ、空気に湿った匂いが混ざりつつあった。
雨でも降るのだろうか。あゆむは夜空を再び仰ぐ。低い雲に街の灯りが映り込み、不気味な暗赤色に染まっている。
「死神が本当のことを教えてくれたのは、ご主人の魂を連れて行ってしまった後じゃった。彼はなかなかいい人で、儂を気の毒に思ってくれとった。儂は、その死神に思いやりがあると思うたよ。彼は、儂が知らなくていいことを知っているし常に誰にもなにもしてやれないのだと思い知らねばならんのが可哀想で言えなかったのだと言うた」
「……文左衛門……私、どうしたらいいの」
「……」
「もし文左衛門が私と同じ立場だったらどうする? どうしてた?」
「……」
文左衛門は黙り込んだ。簡単に答えられる質問ではないのは分かっていた。あゆむは文左衛門が自分の気持ちが分かると言ってくれた優しさに泣きそうだった。と同時に、あゆむもまた文左衛門の気持ちが痛いほど分かって彼を抱きしめてやりたかった。
彼は失うということを知っている。彼の優しさはその経験によるものなのだ。大事な人を失うということ。それに対して何もできないということ。その喪失感は心に巨大な穴を穿つ。その傷が癒えることは永遠にないのだ。
あゆむは板橋の言葉も思い出していた。どんなに大事な人を失ったとしても、腹は減るし眠くもなるし、結局は今までとは変わらずに生きて行くに決まってる。あれは、板橋が自分の事を言っていたのだ。板橋もまた失うということを知っている。
あゆむだけが何も知らずにいた。ずっと。今日まで。あゆむは自分のことで手一杯で何も考えていなかった自分が恥ずかしかった。尊敬だとか思いやりなんて言葉は具体性がなければただの流行りの歌みたいなもので、上っ面だけの耳触りのいい言葉にすぎないのだ。優しさも、手段を持たなければただの綺麗事だ。自分はちっとも優しくなかった。誰にも、自分にさえも。
「死神は命を大事にしろって言ったけど、私は藤井の命も自分の命も大事だと思ってる。ううん、大事じゃない命なんてない」
「運命を受け入れるより他ないということかのう」
「……」
「あゆむさんよ、儂は思うんじゃが、生き物なんてのは無力なもんじゃ。人も猫も関係ない。生き物はみんなおんなじじゃよ。儂はご主人を尊敬していたし、大好きじゃった。儂があの時ご主人を助ける方法を知っていたら。その為に自分の命を差し出すことができたじゃろうか? 何度考えてみても儂には分からん。できると思うこともあるし、できないと思うこともある。何度考えても答えはでないんじゃ」
「……」
「でも、一つだけ分かったことがある」
「なに?」
「儂はそれまで考えもしなかった死ぬということが、どういうことかを分かるようになった。結局死ぬというのは、悔いなく生きるということなんじゃないかのう」
「文左衛門、お孫さんはよくしてくれてるの? 今は幸せ?」
「ああ、ユキオは小さい頃はずいぶんやんちゃでろくなことせんかったが、心根は優しい子なんじゃ。儂を大事にしてくれとる。ありがたいことじゃ」
「お孫さん、ユキオって言うのね」
「男のくせに長い髪して、何日も風呂に入らんこともあるけども、いい子じゃ」
「おじいさんの遺言が効いてるのね、きっと」
「そうさのう」
庭の隅の八手の葉にぱさりと物音がしたと思うと、ぽつりと雨粒が縁側にシミを作った。
「雨だ」
板橋が顔を上げた。
あゆむはそれを潮に立ちあがった。もう文左衛門に何を尋ねることもできなかった。
「帰ろう」
あゆむは板橋を促した。
「えっ? いいの? どうすんの? 死神にまた会いに行く?」
「もう会ってもしょうがないわ」
「でも……」
「今どうするべきか考えても分からないもん。たぶん、そういうことなのよ。その時がきたら、その時の判断に委ねるしかないのよ。そんで、後悔しないように今を生きるしかないんだわ。人はそういう風にしか生きられないのよ。そうでしょ、文左衛門」
「……」
雨の匂いが濃くたちこめ、風はますます風鈴を打ち鳴らす。
「これ、うるさいね。はずしておくね」
あゆむはそう言うとぱっと靴を脱いで部屋にあがり、茶の間にあった踏み台を持って来るとそれに乗って軒先の風鈴をはずした。
「文左衛門、ありがとう」
「……」
「何度も押しかけてきてごめん」
「あゆむさんよ」
「なに」
「儂はこの年になって、あんたみたいな娘さんに会うことがあるとは思わなんだ」
「うるさくしてごめんね」
「儂はずうっと密かに人間と言葉が通じたらええと思うとった。なんと言うても、儂らは猫であんたらは人間じゃ。言葉が通じるはずもない。儂は生まれて初めて儂の気持ちを分かってくれる人間に会うた。儂はもうずうっと誰かに言いたかった。誰かに聞いてほしかったんじゃ。ありがとうよ」
「……」
「それ、雨がひどくなってきたぞ。はよう帰りなされ。夏風邪はなんとかが引くというが、あんたはどうかのう」
「ね、また来てもいい?」
「ああ、またな」
「板橋、行くよ」
次第に雨が庭の土を黒々と濡らしていく。
「おじじさま、ありがとうございました」
「ふむ」
「文左衛門、またね」
「ふむ」
こんな風な結論はあゆむの心を平坦にはしなかったけれども、絶望よりはましは気持ちだった。前向きとも言い難いが、諦観はあゆむの心に芯をいれたようなものだった。
人間の関知することではないのならそれも仕方がない。実際、自分には触れられない、見えざる力で動かされているのだから手の施しようもない。でも、ただ一つだけ確かに言えることがある。あゆむは藤井が好きだということだ。藤井の存在だけがはっきりとしていて、確かで、手を伸ばせば触れられる。そしてそれに触れたいと願っている。理由などそれだけで十分なのだ。
あゆむは運命に真っ向逆らう気持ちだったのが、受け入れるよりは受け流すような強いものがあればと思った。しなやかで柔軟な力があれば。立ち向かうことができるのに。
板橋を連れて雨の中を走りだす。バス停で濡れながらバスを待つ間、あゆむは雨に煙って見えるスターバックスの灯りにふと今からでも死神にコーヒー代を返しに行こうかと思いつつ、腕に抱いた板橋に「お母さん怒ってるかな」とその小さな頭に唇をつけながら囁いた。
「大丈夫だよ」
「そうかな」
「そうだよ」
湿った毛皮のぐんなりした感触が気持ちよくて、あゆむは一度だけぎゅっと板橋を抱きしめた。板橋が腕の中でくすぐったいかのように笑っていた。
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