第17話

うちに帰ったあゆむは憔悴しきって、まっすぐに自分の部屋にあがるとベッドに倒れ込んだ。




 大森さんは明日死ぬ。でもあゆむには何もできない。人が一人死ぬというのに、どうすることもできない。その無力さがあゆむを深く傷つけていた。




 ようするに人間には過去にも未来にも触れることは許されないのだ。SFじみた話しだけれど、もしもタイムマシンがあったなら。過去に干渉すれば歴史が変わってしまうというではないか。それと同じく、未来に干渉するならばやはり同じく重大な何かが変わってしまうのだ。時間も人の生き死にも神の領域で、人間が直接手を下していいものではないのだ。




 斎藤が言ったように世界がそんなに単純ではないというのは、恐らく、あゆむにはとうてい想像もつかないような大いなる力が森羅万象すべての均衡を量りつつ世界を守っていて、なんの宗教観だか知らないけれど、人が死んだり生まれたりすることのサイクルも、いつどこで誰と出会い、何が起きるかもすべて神様が複雑で込み入ったスケジュールを組んでいるのだろう。運命とか奇跡と呼ばれるものもすべて、神様の予定調和の中にあるのだ。




 だから、あゆむごときが触れていいはずもないし、触れられることでもないのだ。




 世界の秘密を知ってしまったあゆむは、今度こそ本当にどうしようもない絶望感で押し潰されてしまいそうだった。




 結局、斎藤と会ったことは生命の秘密に迫ることであったのと同時に、何もできずに事態を見守り、受け入れるより他ないという事実を知らされたに過ぎない。


 あゆむはここへきて、まだ斎藤に食らいついて藤井の生命の行方を聞くことに初めてためらいを覚えていた。




 あんなにも痛烈に知りたいと思ったのは、一体なぜだったのだろう。知ることが怖いのと同時に、知らずにはおけなかった理由はなぜだったのか。




 あゆむは今まで考えようとして避けていた結論が自分の中に浮かび上がるのを、もう抑えることはできなかった。




 藤井が死ぬのかどうかを知りたかったのは、死を待つ恐怖から逃れたかったからだ。死ぬかもしれない、助かるかもしれないという振れ幅の中を嵐の中の羽ように翻弄されるのに疲れたせいもあるし、希望は次第に絶望に浸食され、もう内心藤井は助からないものと思い、ならばその死がいつ訪れるのかを知って安心したかったのだ。




 安心。その言葉にあゆむは自分で愕然とした。自分は藤井の死を決して望んでいるわけではない。あの優しい手にまた触れられるならと思うと、考えるだけで鼻の奥がつんと痛み涙がこぼれる。でも、こうして一人で藤井の死を受け止めるべく身を小さくして時が来るのを待つのは拷問にも等しい。あゆむは藤井を失う恐怖に晒され続け、すっかり疲弊していた。早くこのせつない地獄から抜け出したかった。


 死んでほしくないのに。生きていてほしいのに。それなのに、どうしてこんなにも藤井の死を待っている自分がいる。




 吐き気のような嗚咽が襲ってきてがばりと起き上がると、あゆむは自分の膝をがっちりと抱きしめて絞り出すように泣きだした。




 気が狂う。耐えられない。ただひたすらに死なないでと祈っていたいのに。なぜそれができないのだろう。




 どのぐらい泣いただろう。ふと気付くと部屋のドアをがりがりと引っ掻く音がしているのに気付いたあゆむは、涙を拭い耳をすませた。




「開けろー。開けろよー」


 声の主は板橋だった。




 あゆむはのろのろと立っていってドアを開けた。


 苦悶のあまり憔悴しきったあゆむを見るなり、板橋は「なに一人で泣いてんだよ」と怒ったように言うと中へと入ってきた。




「なんだよ。どうしたんだよ」


 板橋はあゆむの目を覗きこんだ。


 いつのまにこの猫は自分の友人になったのだろう。あゆむはベッドに腰をおろした。




 今、心配そうに温かい目で自分を見つめる小さな瞳は、かつてあんなにも反抗的で警戒心を剥き出しにした野生の瞳ではなかった。




 あゆむはティッシュの箱を手繰り寄せて洟をかむと、


「死神に会ってきた」


 と、呟いた。




「えっ、どこで」


「文左衛門に居場所聞いてきた」


「……それで……?」


「……」


「……彼氏、死ぬの?」


「それを私が知ったらいけないのよ」


「なんで。知らなきゃどうにもできないじゃん」


「知ってもどうにもできないんだって」


「なんで」


「……」




 板橋は腑に落ちないという表情であゆむの足元に座った。




 二人は向かい合うような格好になり、あゆむはあゆむでなんと説明していいのか黙り込み、板橋もまた泣き腫らした目のあゆむが哀れそのもので黙っていた。




 結局どうにもできないのだという結論だけが黒い雨雲のように胸いっぱいに広がり、今にも大粒の雨を涙に変えて降り出しそうだった。




「どうにもできないって死神に言われたのか?」


「そう」


「本当にどうにもできない? 死神だからわざと意地悪言ってるんじゃないのか?」


「……」


「死神がなんて言ったか知らないけど、お前は死神の言う事を信じてるわけ?」


「死神が嘘つく理由ってあるの?」


「だって、相手、死神だろ」


「なんで死神だったら嘘つくのよ」


「死神って、いいヤツなの?」


「……やな感じであることは間違いないわね」




 そこまで言ってあゆむは自分がスターバックスで飲んだ飲み物の代金を払っていないことに気がついた。




「ほらー! だったら嘘かもしんないじゃん! 死神って人の魂を連れて行っちゃうんだろ? お前がそうやって彼氏助けようとするのが邪魔なんだよ、きっと!」




 板橋は憤慨したように叫んだ。そしてそのままの勢いで興奮して部屋中をぐるぐると歩きまわり始め、


「やっぱ死神だもんな! 悪いやつなんだよ」


「でもコーヒー奢ってもらったわ」


「コーヒーぐらいで騙されんなよ、返してこい!!」


「怒らなくてもいいじゃないのよ」


「怒らない方がどうかしてんだよっ」


 あゆむはふと板橋の怒り方が前にも見たことがあるような気がして、はっとした。




 この口吻。前にあゆむはこうして板橋に責められたことがある。あれは、姉の玲奈と電話で話した時だ。




 尻尾を怒りにそそり立て、しゃあしゃあと鋭い息を吐きながら、ぶつぶつ文句を言っている板橋。あの時も板橋は姉の為にあゆむに怒りをぶつけてきた。姉をかばう為に。心配してくれた姉に反抗的な言葉を返したあゆむに、謝れと息巻いた。あれは板橋が姉をどれだけ大切に思っているかの表れだった。そして、今、板橋はあゆむの為に死神に対して怒りを露わにしいる。




「おじじさまにもう一回相談しよう!」


「え? 文左衛門に?」


「おじじさまならどうしたらいいかお分かりになるよ」


「……」


「夜、また会いに行こうよ」


「でも猫集会に行くと迷惑かかるし、みんな怒るよ」


「家知ってんだろ」


「……」




 そういえば、文左衛門は知っているのだろうか。人の死期を事前に知ってしまうと、その運命に手を出すことはできないということを。




 板橋は熱心にあゆむを説得し、文左衛門のところへ行こうと繰り返した。




 二人は夜を待った。時計を睨み、暮れてゆく空を睨み、台所で食事の支度をする母親のところへ行き、まだかまだかとわざとらしくうろついて、あゆむは普段はしたこともないような手伝いを買ってでて、板橋は先にそそくさと自分の餌皿から餌を食べた。




 不思議に思ったのは母親だった。あゆむが台所を手伝うことが皆無ではないにしろ一年に数回のことだったし、なによりもあの事故以来塞ぎこんで無口になり、不機嫌な顔をしていたのに今は明るさを取り戻したとは言わないまでもとりとめもなく喋り続けている。




 補習のこと、テレビのこと、庭で作っているトマトの成長、アメリカの姉のこと。でもそれは朗らかさではなく、あゆむのいてもたってもいられないはやる心の現れだった。




 文左衛門にもう一度聞きたいことがある。あゆむは皿を食卓へ運びながら、沈黙が怖くてぺらぺらと次から次へと話題を変えていく。そして先日亡くなった町内の磯崎さんのおじいさんのことをあゆむは口にした。




「磯崎さんのおじいさんが亡くなって、おばあさんはどうしてるのかな」


「あら、なんで磯崎さんが亡くなったの知ってるの」


「えっ。なんでって。……お母さんが言ったんじゃない」


「言わないわよ。そんなこと」


「言ったよ。忘れてるんじゃないの」


「……なんで急に磯崎さんのことなんて心配してるのよ」


 母親は挙動不審な娘に視線を向けた。




「なんでって、時々見かけてたし。仲良さそうだったじゃない。だから、おばあさん気の毒だなと思って」


「……」


「あっ、お母さん、板橋の猫草がもう枯れてるじゃない。新しいの買ってきてよ」


 いつもなら父親の帰宅を待つのだが、あゆむは「お腹すいたから先に食べるね」と言いおいてそそくさと自分の茶碗にごはんをよそって席についた。


「いただきます」


 テレビのリモコンで夜のニュース番組にチャンネルをあわせ、著をとった。




「あゆむ、いつからそんなに板橋を大事にするようになったの?」


「え? なに言ってんの。私、前から可愛がってるよ」


「よく言うわよ。ぜんぜん世話してないくせに。板橋、なつかないから可愛くないって言ってたじゃないの」


「そうだっけ?」


「そうよ」


「それは、あれよ、最近板橋も心開いてきてるしさ。仲良くなってきたからよ」


「なんで急に仲良くなるのよ」


「知らないわよ。板橋に聞けば?」




 あゆむは味噌汁をずるずると啜った。板橋は部屋の隅で知らん顔をして、水を飲んでいる。




 母親は尚も不審な顔で、あゆむの向かい側に腰かけた。




 何度見ても心の痛む大きなガーゼ。この下の傷を見た瞬間、母親は貧血のように目の前が真っ暗になった。が、娘を傷つけない為にかろうじて正気を保って、倒れることだけは免れた。




 年齢を問わず娘の顔に傷ができるなんて親としてはとても耐えられないし、悲しくてやりきれなかった。娘のうち、姉の玲奈は近所でも褒めものの綺麗な顔をした娘で、あゆむはどちらかというと平凡な娘だった。が、黒目勝ちの澄んだ美しい瞳をしており、母親はあゆむはきっと将来姉よりも聡明で美しい娘になると信じていた。それをあたらみすみす無にしたと思うと娘を直視することが辛かった。




 整形外科で傷を目立たなくさせることはできると聞いたけれど、それでも拭ったように元通りにはいかないだろうと考えるとため息が漏れる。それに、一緒に事故にあった男の子。あゆむに付き合っている男の子がいるのはうすうす分かっていたけれど、こんなことになるなんて。




「板橋がなついてきたなら、それはよかったわ」


「ふん」


「やっぱり、なんと言っても板橋はお姉ちゃんに置いて行かれちゃったんだものね」


「……」


「なつくわけないのよ。お母さんは最初そう思ってたわ。仕方ないこととはいえ、板橋は大事な人を失ってしまったわけでしょう?」


「……でも、お母さん、なつかせようとしてたじゃない」


「当たり前でしょう。でも、それはお母さんの為じゃないのよ。板橋がかわいそうだったからよ」


「……」


「根気強く可愛がってやればいつか心開いてくれると思ったし、板橋だってこのうちで家族になついて仲良くやっていかないとかわいそうじゃないの。あんたは気付かなかったかもしれないけどね、板橋、最初はずいぶん悲しそうな顔してたわ。お母さん、それが辛くてね。お姉ちゃんが恋しいんだろうなと思って」


「そりゃあ、板橋の飼い主はお姉ちゃんだもん」


「だから、よ。大事な人がいなくなる悲しさは猫だって同じなのよ」


「……」




 母親は急須から湯呑みにお茶を注いで、熱い湯気をふうふう吹きながらいい匂いのする緑茶を飲んだ。




「あゆむ」


「なに」


「磯崎さんのおばあさん、亡くなったのよ」


「え!!」


 あゆむは驚いて茶碗をひっくり返しそうになった。


「いつ?!」


「今日の夕方にね。町内会の芹沢さんが知らせにきたのよ」


「なんで!」


「おじいさんが昨晩亡くなったあとにね……。自殺らしいわ」


「……そんな!!」




 そんな馬鹿な。あの時、死神はおじいさんから託された言葉があったはず。おばあさんが悲しまないようにしてやってくれと頼まれていたのに。なぜ。どうして。




 衝撃のあまり言葉を失ったあゆむを、母親は、母親の勘とも言える鋭さで見つめていた。




「あゆむ、あなたやっぱりおかしいわよ。磯崎さんが亡くなったのは昨夜で、お母さんだって今朝聞いたとこだったのよ。それもあゆむが学校に行ってから、電話で聞いたのよ」


「……」


 あゆむは母親の目を避けるように著を置いた。


「ごちそうさま」


「あゆむ」


「……」


「磯崎さん、ご夫婦仲良かったわね」


「ふん……」


「だから、きっと、おじいさんが亡くなって耐えられなかったのね。ううん、もしかしたらおばあさんは初めからそのつもりだったのかもしれない」


「……」


「でもね」


 母親はすでに腰を浮かせかけているあゆむの目を強く見つめ、一言ずつ重く吐きだすように、


「死んじゃ駄目なのよ。絶対に。そんなことしたらおじいさんがかわいそうよ。いくら辛くても、おばあさんはおじいさんを看取ってその後にまだやることはいくらでもあるのよ。なのに。自殺なんて」


「……」


「人は絶対に、神様がもういいよっていうまでは生きなくちゃいけないの」


「……」


「あゆむ、覚えておきなさいよ。いいわね。何があっても、絶対に生きなくちゃいけないんだからね」




 お母さんの言う神様っていうのがどんなものか分からないけども。あゆむは母親の泣きそうに真剣な眼差しに射られながら、心の中で呟いた。神様は人の気持ちも知らないで生き死にを勝手に操作して、死神なんてやつはもっとひどくて、残酷なのよ。神様に縋って一体なんになるっていうの。神様が何かしてくれると思ったら大間違いだわ。自分の命も大事な人の命も、救うことはできない。神様とやらに翻弄されるだけなのだ。そんな権利、神様にあるのか。




「分かってる」


「……お姉ちゃん、来週帰ってくるって」


「来週? お盆前後とか言ってなかった?」


「とりあえず、自分だけ先に帰ってくるんだって」


「なんで」


「あんたが心配だからでしょう」


「……」


「あゆむ。そういうことも、忘れちゃダメよ」




 あゆむは曖昧に頷いて食卓を立った。今食べたものがお腹の中でめちゃくちゃに渦を巻いているようで気持ちが悪かった。




 のろのろと自分の部屋へ引き上げると、板橋がその後に続いて走って行く。その様子を母親は見守った。板橋があゆむになついたなら、その心を癒す存在になってくれるといいのにと密やかに願う。母親は顔の傷以上にずたずたになったあゆむの心の方が心配だった。




 部屋に入るとあゆむは即座に板橋に言った。


「死神はやっぱり、悪いやつなのよ」


「やっぱりか!」


「あいつ、嘘つき野郎よ。磯崎さんのおじいさんを騙したのよ」


「おばあさんまで連れて行くなんて話が違うよな」


「そうよ」


「あゆむ」


「なに」


「まさか、彼氏が死んだらあゆむも……」


「……そんなわけない」


「行くなよ」


「え?」


「絶対に、彼氏と一緒に行くなよ」


「……」


「そんなことしたら、みんな泣く。れいちゃんも泣く」


「……分かってる」




 あゆむは板橋から視線を逸らしジーンズのポケットに財布をいれ、腕時計を嵌めた。今の今で家を出て行くのは母親に余計な心配をさせるのは分かっている。でもここで夜更けを待つことはできない。




「行こう」




 あゆむは板橋にそう言うと再び階下へ降り、居間を素早く通り抜け、テレビを見ている母親の背中に、


「お母さん、早苗たちからカラオケの誘いきたからちょっと行ってくるね!」


「えっ?!」


 久しぶりに口にする友達の名前、遊びの誘い。無論嘘だったけれど、あゆむはわざと明るい声を出し、母親が何か言う前に玄関を飛び出した。




 磯崎さんのおばあさんが自殺。死神はなぜおじいさんにあんなことを言ったのだろう。いや、それよりも死神なら知っていたはずだ。おばあさんが死ぬことを。なのに、どうして。おじいさんの魂を正しく導く為の方便だったのか。それこそ自分の職務を滞りなく遂行するためにあんなことを言ったのか。ひどい。ひどすぎる。生きている者への冒涜。生命への冒涜だ。あらかじめ決まっている運命だからといって自らの命を絶つものをそのまま逝かせるなんて。




 あゆむは奥歯を噛みしめバス停に立った。板橋が追ってきてあゆむの横に立つ。


「文左衛門、まだ家にいるよね」


「たぶん」


 通りの向こうからバスが来るのが見えると、あゆむは板橋を抱き上げた。


「おとなしくしててよ」


「分かってるよ」


 あゆむは板橋をしっかり抱きかかえ、バスの後ろからこそこそと運転手の目に触れぬように開いている座席に座った。




 帰宅途中のOLやスーツ姿の中年男が猫を抱いているあゆむを不審そうに見る。板橋はぬいぐるみのふりでもしているつもりなのかあゆむの腕の中で息をこらして体を固くしていた。

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