第16話

慎重に表札の名前を読みながら前進する。時々、家の様子を窺ったりもして。あゆむは空き巣が盗みに入る家を物色しに来ているようだなと自分がおかしかった。


 而して、あゆむは大森さんの家がちょうど路地の突きあたりに位置しているのを見つけ出した。




背の高い夾竹桃が塀の上から何本も覗いて赤い花を咲かせ、文左衛門のうち同様に古い家だった。玄関にはクレマチスの鉢が置かれ、玄関の引き戸は風通しの為か細く開けてあり、中を窺うと上り框に建てた仕切り障子も少しだけ開けてあった。




 表札をもう一度確かめて何の気なしに玄関先から家を見上げたら、控え目に未生流家元と書かれた看板があがっていて、なるほどお花の先生かとあゆむは納得した。




 もうこんな風に他人の家を覗いたりうろうろと様子を窺うことに慣れてしまって、あゆむは人気のない路地ではあるけれどもあたりに気を配りながらその家にいるであろう死神の姿を探そうとした。




 大森さん。明日自分が死ぬとは思いもよらないんだろうな。あゆむは自分が見知らぬ人の死を知っていることが申し訳ないような気がした。と同時に、教えるべきなのかと考えた。




 こうして看板をあげるぐらいだから生徒もいくらかいるのだろう。何歳だか知らないけれども働けるぐらいなら元気に違いない。それを突然死。気の毒なことだ。しかも、それを赤の他人のこんな小娘が知っているなんて。けれど、仮に明日に忍び寄る「死」を知らせたところで信じるとは到底思えない。それではいったいこの事を知る自分にはなにができるだろうか。……そうだ、誰かのために自分は一体なにができるというのだろう。




 玄関が開いているのだから留守ということはない。あゆむは辺りを憚りながら、小声で家の中へ呼びかけた。




「おーい……、いるんでしょー……? 来てるんでしょー……?」




 返事は、ない。あゆむはもう一度呼びかけた。




「斎藤さーん……」




 両腕に鞄を抱きしめるような格好で、一歩一歩玄関へと忍び寄って行く。




 人の生死の行方など確かに人間の関知することではない。するべきではないのも、分かる。大森さんの死を聞いて決していい気持ちはしなかったし、むしろ知っていながら何をするでもないことがまるで命を弄んでいるような気さえしている。


 いや、待てよ。あゆむははたと気がついた。寿命は変化すると言っていた。決まっていても変わることもある、と。それではあゆむが大森さんに突然死の危険性について注意をしたとしたら? 明日に迫る死を回避することもできるのか?




 あゆむの胸の中に言いようもなく荒い風が吹き始めていた。興奮した動悸が熱い呼吸となって口から漏れる。




 人間の関知することではないのは、関知することで運命を変えることができるから……? それは神の領域、即ち運命を侵すことになるから……?




 だとしたら。それならば。あゆむは死神に真っ向勝負を挑むことになる。あの融通のきかない役人みたいな死神に。いや、あの死神ならば勝負ではなく業務妨害とでも言いそうだけれど。




 あゆむはおもむろに呼び鈴に手を伸ばした。今呼ぶのは斎藤さんではない。大森さんだ。




 そう思った瞬間だった。半分空いた引き戸ががらりと全開になり、斎藤があゆむをじろりと睨んでいた。




 あゆむは驚きのあまり飛び上がり、小さく声をあげた。それと同時にしまったと思った。




斎藤はやはり黒いスーツ姿で三和土に立ち、あゆむを見下ろしていた。あゆむは負けてはならじと平静を取り戻しつつ、同じように斎藤を睨みかえした。




「文左衛門ですね」


「……」


「文左衛門に聞いて来たんでしょう」


「いけない?」


「あなた、しつこい性格ですね」


「悪かったわね」




 斎藤は呆れたようなため息をつき、玄関を出て後ろ手に引き戸をぴたりと閉めた。


「ここではなんですから」


「……どこ行くの」


「お茶でも飲みましょうか」




 お茶! 死神とお茶! さっきまでの張りつめた空気がしゅうと音をたてて風船が萎むかのように、あゆむは拍子抜けしてしまった。




 斎藤は国道へ抜ける道を歩き出しながら、まだ大森さんの家の前でぐずぐずと迷っているあゆむを振り返り、


「なにしてるんですか」


 と、手招きをした。




 従うのが運命なのだろうか。あゆむは死神の手招きに意を決して後をついて行った。




 斎藤の黒いスーツは見ているこっちが鬱陶しくなるほどで、この強い日差しの中普通なら耐え難いだろうと思うのだけれど、着ている本人は汗ひとつかいていなかった。




 国道沿いのスターバックスに来ると斎藤は「ここでいいですか」と尋ね、けれど返事はまたずに扉を押し開けて中へ入った。




 店内は軽快なボサノヴァが流れていて、談笑する人々で混み合っていた。斎藤はあゆむに、


「何にしますか? 買ってきますから席を取っておいてください」


 と言った。




 妙なことになったな……と思いつつ、あゆむは窓際の席が開いていたのでそこに鞄を置いて腰かけた。




 ガラス越しに臨む国道は車の行き来が激しく、時折轟音を響かせてトラックが駆け抜けて行く。排気ガスに満ちた濁った空気がそこにある。




 斎藤はあゆむのモカフラぺチーノにストローを突き刺してテーブルに置くと、自分も腰かけた。斎藤は炎天下のスーツが暑くないばかりか、飲み物まで熱いコーヒーだった。




「この暑いのにそんなスーツ着て、さらに熱いもの飲むの?」


 思わずあゆむは尋ねた。


「暑いからといって冷たいものばかりとってると体を冷やしますから」


「……」




 あゆむは文左衛門が言った「融通がきかない」という形容を思い出した。ほんと、融通がきかない。あゆむは鼻白んでストローを咥えて、勢いよく半分凍った液体を啜った。




 斎藤はテーブルに両手を軽く組んで思案げにあゆむを見つめていた。それからおもむろに、


「あゆむさん」


「なに」


「あそこで何をしてたんですか」


「……なにって……」


「大森さんとお知り合いですか」


「……」


「文左衛門から聞いたんでしょう」


「……」


「大森さんが明日死ぬって」


「大森さんに華道習おうと思って」


「は?」


「大森さん、お花の先生でしょ」


「……」


「だから」


「だから?」


「だから、よ」


「……あなたねえ……」


 斎藤は呆れたように椅子の背に体を預け、大仰なため息をついた。


「人間が関知することではないと言ったでしょう」


「別に何もしてないわよ」


「……」


「私、何かした?」


「……いいですか、あなたがしていることは人間の領域ではないんです」


「……」


「仮にあなたが本当に大森さんにお花を習いに来たとしましょう」


「……」


「でも、大森さんが明日死ぬことに変わりはない」


「……寿命は変わるって言ったじゃない……」


「だから」




 不意に斎藤が厳しい口調でテーブルをどんと叩いた。あゆむはびくっとして軽くのけぞった。




 斎藤は眉間に皺を寄せ、


「あなた一体何様のつもりなんですか。神様ですか。それとも大森さんが死ぬと知っているからそれを助けてやるなんて思ってるんですか。あなたのしていることは傲慢でひどく身勝手なものなんですよ」


「まだなにもしてない」


「寿命が変わる。それは確かに本当です。でもその変わるというのは偶然の重なりであって、それこそ天の配剤です。人為的なものじゃない。医術だってすべてが人間の手によるものじゃなく、奇跡の側面もあるでしょう。私が言った寿命が変わるというのは、そういうことなんです。いいですか、私は変わると言ったのです。変えられるとは言ってないし、変えていいとも言ってない」


「……」


「あゆむさん、世界はね、そんな単純なものじゃないんですよ」


 そう言って斎藤は紙コップに口をつけ、外へと目を向けた。




 よく考えてみたら、今、斎藤の姿は周囲の人にも見えているのだろうか。死に近く接した者だけが死神を見ることができるようになるのだと言っていたけれど、こうしてスターバックスでコーヒーを買い、普通の人と変わりない姿で座っている。


 人間の姿をしているのになぜこいつには分からないのだろうか。あゆむは斎藤と同じようにガラスの向こうを睨んだ。




 死を回避したいと思うのは当然じゃないのか。なぜその気持ちが分からないんだろう。失うことの辛さや恐ろしさをどうして察してくれないのだろう。それとも知ったところで職務に忠実である為には無視しなければいけないのだろうか。




 テーブルの上であゆむは拳を握りしめた。斎藤は外を眺めながら続けた。




「生き物にとって死は必ず訪れるものです。誰にも止められない」


「じゃあ、もし、私が大森さんを助けたらどうなるの?」


「助けるってどうやって?」


「例えば……、注意するとか。すぐ病院に運ぶとか。ううん、今からすぐに病院へ行かせるとか……」


「……それで大森さんが助かったとしましょう」


「……うん」


「それだけですむと思ってるんですか?」


「どういう意味?」




 斎藤は再びあゆむに向き直った。


「大森さんが死ぬという事実を知った上で、あなたが大森さんを助けるというのは神の領域を侵す行為です」


「……」


「あなたが大森さんを助けると、大森さんの代わりに誰かが死ななければならない」


「……そんな……」


「もしあなたが本当に大森さんに純然たる目的で、そう、華道を習いにやって来て、たまたま大森さんの健康状態を気遣ったとしましょう」


「……」


「その結果、大森さんが心不全を回避したならそれが偶然の重なりであり、寿命が変わるということです。あなたにはもうその資格がない」


「じゃあ……それじゃあ……」


 あゆむは喘ぐように、


「私が藤井が死ぬかどうかを知ってしまったら……」


「あなたに彼は助けられない」


「……」


「それとも彼の命と引き換えに誰かを殺すんですか」


「殺すなんて、そんな!」


「あなたのしようとしていることは、そういうことなんですよ」


「どうしても誰かを連れていかなければいけないの? そうやって命の均衡を保っているの? あなたが言ってる単純じゃない世界ってそういう意味なの?」


「あなたじゃなくて、斎藤です」


「斎藤さん」


「なんですか」


 斎藤はコーヒーを飲みながら睫毛を伏せた。思いのほか長い睫毛が彼の頬に影を落とす。




「それならどうして私の前に姿を見せたりしたの」


「……」


「斎藤さんには、黙っていることだってできたはずよ。今も、そう。私が身勝手で傲慢だって言ったわね。だったら、斎藤さんだってそうじゃない。人間が関知することじゃないって言ったわね。でも、あなた、私に何もかもを喋ってるじゃないのよ。それを聞いて無視することなんてできるわけないでしょう。斎藤さんが関知させてるんじゃないの」




 逆ギレしているのは分かっていた。でも言わずにはおけなかった。悔しくて、腹が立って、声が震える。




 二人の様子にちらちらと周囲の視線が集まり始めていた。まるで痴話喧嘩を演じているかのような二人を好奇の目が盗み見て行く。斎藤は困惑しつつ、しかし、憮然とした表情を崩さずに、


「これ以上話すことはありません。諦めてください」


「逃げるの」


「あなたは、あなたの人生を生きて行く。それでいいじゃないですか」


「バカにしないでよ!」


 あゆむは勢いよく立ちあがった。その反動で椅子が音を立てて倒れる。あゆむは興奮のあまり肩で息をし、涙声で怒鳴った。




「よくそんなこと言えるわね! あんたは人の気持ちを考えたことないの?! この前、あんたは磯崎さんのおじいさんに心残りはないかって聞いてたわね? そんな無神経な質問よくできたもんだわ。いつ死ぬにしても、どんな終わりがきても、後に何も残さないような人いるわけないでしょ。生きてる人間なら尚の事、なにもできないで黙って見てるなんてできるわけないじゃないのよ。人間が関知することじゃないなんてよく言えるわね。あんたに人間のなにが分かるのよ? 人の気持ちのなにが分かるの?」




 あんまり大声だったせいか、カウンターからグリーンのエプロンをかけた店員がこちらへ近寄ってくる。




 斎藤がそれを制するように片手をあげ「すみません、なんでもないんです」と忽然とした態度で言う。あゆむは溢れる涙を堪えることができず、それでもしゃくりあげるのだけはどうにか我慢して唇を噛みしめた。




 二人のコーヒーは半分かた残っていたが、斎藤は立ち上がり、


「出ましょう」


 と、あゆむを促した。




 あゆむは自分が倒した椅子を起こし、鞄を掴んだ。


「あなたみたいな人、初めてですよ」


 斎藤はそう言うとポケットからハンカチを取り出し、あゆむに差し出した。




 再び炎天下の屋外へ出た二人は、無言でどこへともなく国道沿いを並んで歩き始めた。




 あゆむは斎藤のハンカチで涙を拭き、ついでに思い切り洟をかんでからぐしゃぐしゃにしてハンカチを突き返した。


「大森さんを助けたいですか?」


「……」


「だったら、あなたが代わりに死にますか?」


「……」


「あなたの彼氏がどうなるか、知りたいですか?」


「……」


「あなた、彼氏の代わりに死ねるんですか?」


「……」


「命を大事にしてください。私が言えるのはそれだけです」




 斎藤はあゆむの洟水と涙のついたハンカチをポケットに押し込むと、その場に立ち止まった。あゆむの背中を見送るために。




 あゆむは今一度なにか言いかけたが、言えなくて、無言でバス停へと歩いて行った。




 今死神に見送られているこの命は偶然という奇跡で助かったものなのだ。それがどれほど幸運で尊いものかあゆむだってそのぐらい分かる。でも自分以外の人間の命だって同じように尊く大切だと思う。




それでは結局自分になにができるのか。あゆむは胸の潰れるような思いで一杯だった。死神を振り返ることはできなかった。振り返れば自分の無力さを見せつけられるようで。バスを待つ間、あゆむは奥歯をきつく噛みしめ、苦痛に耐えるように眉間に皺を寄せていた。その姿は傍目にはものものしい顔のガーゼの下の傷が痛みでもするかのようで、行き過ぎる人誰もがあゆむを気の毒そうに横目に見て行った。しかしあゆむはそんな視線少しも気にならないほど思いつめていた。

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