第15話
病院で自分が大人たちを思いがけないほど悩ませたことも知らず、あゆむは文左衛門の家に向かっていた。正確には文左衛門のうちではなく「服部さん」の家なのだが。
不法侵入に慣れたとでも言おうか妙な度胸がついてしまって、あゆむはちらちらと周囲を見ただけで初めて来た時と同じように人の気配のない服部家の塀沿いの通路を通って庭に出た。
「文左衛門」
不用心に開け放されたガラス障子。あゆむは縁側で寝ている文左衛門の隣りに腰を下ろした。
文左衛門はちらと顔をあげ、あゆむを一瞥すると大きな欠伸をした。
「文左衛門、昨日はありがとね」
「寝不足じゃよ……」
「猫って夜行性じゃないの?」
室内は今日も薄暗く静かだった。茶箪笥やテレビに埃がうっすらと積もっている。洋間の方を覗くと乱雑に散らかっていて、ここも床には埃の塊がほわほわと転がっていた。
「たいして役に立たなかったのう……」
文左衛門は寝そべったまま、顎を縁側の焼けた床板にぺったりとくっつけて呟いた。
「そんなことないよ」
「肝心なことには答えてくれんかったのう……」
「それは、まあ……」
「企業秘密なんじゃろうか」
「いや、企業じゃないでしょ」
「融通がきかんよ、まったく」
「頭固いのよね、きっと」
「そういうところが役所と同じじゃよ」
「文左衛門、役所行ったことあるの」
「ご主人がよく言うとった」
「ねえ」
あゆむは縁側から脚を垂らしたまま仰向けに寝転んだ。陽に焼けた木の匂いが懐かしかった。空は瑞々しい青で、吊りしのぶの鉢の濃い緑がよく映えて綺麗だった。
他人の家に勝手にあがりこんで手足を投げ出しているのがスリルを通り越して開放的だった。
「文左衛門のうちっていつも誰もいないのね」
「そんなことありゃせん。いつもは人がいっぱいじゃよ」
「へえ? 何人家族?」
「お客が多いんじゃよ」
「ふうん」
「友達がのう」
「ふん」
「毎日毎日来て、なにやら絵を描いたり、泥をこねくりまわしたり、飲んだり食べたりして騒ぐんじゃよ」
「なにそれ、学生?」
「そうじゃ」
「でも、なんかこの前も静かだったじゃない」
「夏休み。じゃろ」
「どっか行ってんの? 旅行? じゃあ、その間、文左衛門のごはんとかどうすんの」
「隣りの人が来て、いろいろ面倒みてくれとる」
「へえ。うちなんて絶対無理だよ。お姉ちゃんも板橋がいる時は外泊しなかったって言ってたし、旅行なんて絶対無理って言ってたもん。動物を飼うってそういうことよね」
そう言ってからあゆむは、なのにお姉ちゃんは板橋を置いて行ったのだと思うと板橋が気の毒で、また、姉を無責任だと思った。
あんなにも可愛いだのかしこいだの溺愛ぶりを披露しておきながら、結局自分の都合で飼えなくなって置いて行ったのだから、考えてみたらひどい話だ。そのことに板橋が傷つかないわけがないじゃないか。
今まではそんなこと考えもしなかった。板橋が傷ついているとは。言葉が通じなかったせいもある。でもそれよりも想像もしなかったのだ。板橋には人間の事情なんて関係ない。あるのは姉から「捨てられた」という事実だけだ。
姉は捨てたという言葉を否定するだろう。しかし板橋は置いて行かれてどんな気持ちだったろう。どれほど悲しかっただろう。うちに来た頃の攻撃的で圭角な様子も無理ないことだ。板橋が人間を憎んだとしても、それも仕方ないと思う。それなのに自分はなつかない板橋を憎たらしく思っていたのだ。それは板橋にとってどれほど理不尽なことだったろう。
「おうちの人いつ帰ってくるの」
「さあて、いつだったかのう……」
「いつも開けっぱなしで不用心じゃない」
「盗るようなものはなんもありゃせん」
あゆむは寝転んで空を見上げたまま、文左衛門の頭を撫でた。熱中症になるのではないかと思うほど、文左衛門の毛皮は熱くなっていた。
「死神、今はどこにいるの」
「どこって……」
「今度は誰が死ぬの? 死ぬ人のところにいるんでしょ」
「まあ、そうじゃが……」
「文左衛門、なんで人が死ぬのが分かるの?」
ごろりと横を向いて文左衛門の顔を覗き込む。スカートから突き出した脚で靴脱ぎ石をとんとんと蹴る。
「まだ生まれて間もない頃に死にかけたことがあってのう……」
「え? 病気?」
「儂は捨て猫じゃったんじゃよ」
「捨て猫? 野良猫じゃなくて?」
「いや、確か家はあったように思うんじゃが……。生まれたのは、どこかの家の床下で、兄弟が他にもおった」
「お母さんもいたわけね」
「あまり覚えておらんがのう」
「昔のことでもうあやふやじゃが……。気がついたら段ボールに入って寒くてひもじくて死にかけとったんじゃ」
「ああ、なんか、捨て猫のパターンね……」
「口べらしかもしれん」
「かもねえ」
「だから」
「え?」
「結局ここのうちに拾われたわけじゃが、一度死にかけたせいかもう物ごころついた時からずっと死神が見えるし話せる。あんたも一度死にかけて見えるようになったじゃろ。あれは、なんというか、死神の影がうつるようなもんだと思うんじゃよ。ただ、人の姿をしているから近くにいても気づかないし、彼らも別に用事がないから口をきくこともない」
「彼ら? 死神って何人もいるの?」
「あゆむさんよ、世界にどれだけの生き物がいると思ってるんじゃ。一人でまかないきれるわけがなかろうて」
「それで地域ごとに管轄があるのか……」
「今の担当は、固ブツでほんに融通がきかん」
「あ、前は違ったの」
「前はもうちょっと気の効くやつが担当じゃった。移動になったのは残念じゃったなあ」
「移動……」
本当にサラリーマンみたいなのね。そう言いかけてあっと思った時にはもう遅かった。庭に一人の男の人が入って来て縁側でパンツ丸見えになって寝転んでいるあゆむに困ったように立っていた。
くつろぎすぎたのか文左衛門も動物の聴覚を発揮せず「あ」と呟いた。
焦ったのはあゆむだった。慌てて飛び起き、スカートの裾を引っ張り、逃げるには退路は塞がれているし、この前のように塀の隙間に入り込んで逃げるようなことできるわけもなし、あゆむはパニックに陥って金魚が口をぱくぱくさせるように喘いだ。
「あゆむさん、大丈夫じゃから落ち着きなされ」
文左衛門が起き直って、言った。
「儂の言う通りにするんじゃ」
パンツを隠したせいか男の子はほっとした顔になった。
「こんにちは」
「こ……こんにちは」
あゆむはかろうじて挨拶を返すも動悸が激しく、口から心臓が飛び出そうだった。
「この子はうちの者じゃない。言ったじゃろ。友達がしょっちゅう来るって」
男の人はこちらへやって来ると、肩にかけていた鞄を下ろした。
「大胆に寝てるから焦ったよ」
「あはは……」
「服部さんは?」
「あ、えっと……旅行中で……」
「まだ帰ってないのかあ」
あゆむはその人に場所を譲るように立ち上がって縁側から一歩後退した。
青年はあゆむがいることになんの疑問も感じないらしく、なるほど文左衛門が言ったように人の自由な出入りが当たり前になっているのがよく分かった。
「課題も手つけてないのにいつ帰ってくるつもりなのかねえ、あの人は」
言いながら、鞄を開けて中からカメラを取り出す。立派なレンズが装着してある、重そうなカメラだ。
「あれ? 君、高校生だよね」
次々と鞄からファイルやら本を取り出していた青年が、はたと手を止めた。
まずい。あゆむはぎくりとして文左衛門に視線を投げた。
「リカの後輩だと言うんじゃ」
「リカさんの後輩なんです」
「ああ、そうなんだ。リカさんも服部さんと一緒に旅行してんじゃなかった?」
「そうじゃ」
「そうです」
「今日は他に誰か来た?」
「いいえ、誰も……」
「リカさんの後輩ってことは、コウゾウさんの後輩でもあるわけか」
「そうじゃ」
「そうです」
「コウゾウさんって、昔からあんなん? オープンなゲイ?」
「あんなって……」
文左衛門が縁側から飛び降りた。あゆむもその動きに伴ってまた一歩後退する。
「コウゾウのカミングアウトは高校を出てからじゃ」
「あの、コウゾウさんのカミングアウトは高校を卒業してから……」
「へえ、そうなんだ。あの人いつもガーリーだから昔からそうなのかと思ってたよ」
あゆむはふふふともへへへともつかない間の抜けた笑いを浮かべて、さも愛想よさそうに振る舞いながら、その実、腋が冷たい汗でびっしょり濡れるのを感じていた。
「あの、私、もう帰るところだったんで」
「あ、そうなの? え? もしかして俺が来たから?」
「いえ、そういうわけでは」
「ならいいんだけど……。このうちに誰もいないなんて珍しいから」
「ええ、まあ……」
怪しまれることはなかったらしい。本当に、知らない人が出入りするオープンな家なのだなと思った。でもこれ以上いるわけにはいかなかった。これ以上いれば必ずボロが出る。あゆむは「それじゃあ」と頭を下げると小走りに玄関へ駆けて行った。
その時、咄嗟にあゆむは、
「文左衛門、行くよっ」
と、他人のうちの猫をまるで自分の猫のように、または忠実な犬のように呼びつけた。
すぐにしまったと思ったものの、口をついて出たものは仕方がない。後ろを振り向くことはできなかった。振り返れば青年がきょとんとしているのを見ることができたのだが、そんな勇気はなかった。
あゆむと文左衛門は通りを走って、路地を抜け、小さな漁船が係留されている船着き場に出た。
息を切らして脇腹のあたりを押さえる。まだ少し痛む。でもその痛みよりも心臓がどうかなってしまいそうで、脚はまだ震えていた。
打ち寄せる微かな波が船を揺らしている。
「びっくりしたのう……」
「焦ったわ……」
「油断しとったのう」
「ほんとに……」
あゆむと文左衛門は顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。一体なにをしているんだろう。猫と二人で。人の家に侵入し、訳の分からない嘘をつき、冷汗たらたらで逃げ出して。
笑いながら、あゆむは今日病院で出会ったひどく不愉快な出来事も、内臓を抉り出すような痛みも薄れていくのを感じていた。
「変に思われなかったかしら」
「大丈夫じゃろ。あの家にはしょっちゅう色んな人が勝手に出入りしとるから」
「ねえ、服部さんってどんな人なの」
「絵を描く学校に行っとる」
「美大なの」
「浪人した上に留年までしとる」
「駄目じゃん」
「そうじゃのう」
「でも、いい人みたいね」
「なんでそう思うのかね」
「いい人じゃなかったら、友達集まってきたりしないよ」
「……そうさのう……」
「羨ましい」
あゆむは小さく呟くと防波堤に沿って歩き始めた。文左衛門も隣りをついて来た。
こんな風に藤井と散歩した。あの時、藤井は子供の頃のことや部活のことを話していた。あゆむは藤井に手をとられながら海ばかり見ていた。照れくさくて、藤井が眩しくて目をそむけてしまったのだ。でも、はっきりと思いだすことができる。瞼に残る残像よりも鮮明に。藤井の表情だとか声だとか何度だって巻き戻し再生できる。
また二人でこうして歩くことができるのだろか。あゆむは胸苦しい不安に息が詰まりそうになり、気を紛らせるように文左衛門に話しかけた。
「文左衛門、いい人に拾ってもらったんだね」
「いや……、儂を拾ったのはその子じゃないんじゃよ」
「え? 違うの?」
「儂のご主人はじいさんなんじゃよ」
「え、どういうこと」
「瀕死の儂を拾ったはいいが、自分の家では儂を飼うことはできなくてのう。じいさんが儂を家に置いてくれたんじゃよ」
「じゃあ、あのおうちは」
「じいさんの家」
「そこに勝手にみんな集まってんの? それって、いいの?」
「いいんじゃよ」
「オープンな家なのねえ……」
「ご主人は海の男じゃったからのう」
「あ、漁師?」
「そうじゃよ」
「藤井のうちと一緒ね」
歩きながらあゆむは鞄からミネラルウォーターを取り出し、一口飲むと「暑いね」と額の汗を拭った。
防波堤の切れ目にくると二人はまた家並みの路地に入りこみ、宛てもなく歩き続けた。
「あゆむさん」
「なに」
「死神にまだ会うつもりかね」
「いけない?」
「人間が知るべきことじゃないと言うとったが」
「そうね。あの人の言うことも理解できないわけじゃないのよ。でも、それとこれとは別問題よ」
「……」
文左衛門は少し思案するように黙り込んだ。あゆむは尚も真っ直ぐに前を向いて歩いて行く。シャツから出た腕が陽に焼けて、熱を持っている。それでもあゆむは帰ろうと思わなかった。このまま歩き続けていなければ思考のすべてが死へと束ねられてしまう。自分に与えられた生命よりも、死の側のことばかりを考えてしまうのだ。
死神の影がうつるというのはそういうことなのかもしれない。未来へ向かうものの事は何も考えられないし、自分の時間が前向きに進んでいるとも思えない。自分も含めて世界のすべては滅びに向かっているとしか考えられないし、それが当然のことに思える。
怖いのはそれを絶望とか厭世的とか考えるのではなくて、初めから希望と名のつくようなものは世界には存在しないと思うことだった。
生まれたものが死に向かうのは当然のことだ。とすれば、死は悲しむべきことではないのかもしれない。死を避けることはできないのだから、死神が言ったように人間が関知することではないのも当たり前だし、関知しようもないことだ。
それでは、なぜ、なにを恐れ、悲しむことがあるのか。それは、一人じゃないからだ。
もしも人間が一人きりで誰とも心通わすことなく生きていれば、死は誰の何も奪いはしないし、恐れることもないのではないだろうか。死ぬのも死なれるのも耐えがたいのは、自分以外の人間のことを思うからだ。
あの洋館の老紳士。彼に心残りを尋ねた死神。あれは、そういうことなのだ。あゆむはぱっと脳裏に閃く老人の最後の姿を反芻する。死神が正しく人の魂を導かんとするのも、相手が人間だからではないだろうか。それほどに人間は弱い生き物なのだ。
「この先の大森さんのお宅に死神が来とる」
「え」
「おばあさんが明日亡くなる」
「病気?」
「……突然死ということになるんかのう」
「分かるの? 文左衛門、それ、死神に聞いたの?」
「ふむ」
「今日ももう来とるはずじゃ」
「この先ね? 大森さんね?」
あゆむは方向を確認すると急いでそこへ向かおうとした。が、文左衛門はその場で足を止め、もう着いてこようとはしなかった。
「どうしたの?」
「行ってきなされ」
「文左衛門は……」
「あゆむさんには見えるんじゃから、儂はいなくてもいいじゃろ。あんまり年寄りを働かせるもんじゃない」
「……ごめん」
「儂は帰ってもうちょっと寝させてもらうよ」
「文左衛門」
言うが早いかすでに歩き始めた文左衛門の背中にあゆむは声をかけた。
「ありがとう」
文左衛門はちらと振り向き、訳知り顔に頷いた。
板橋は文左衛門を百年ぐらい生きているとか仙人のようなことを言ったけれど、実際彼が何年生きているのか知らないが、死に出会う回数で言うならあゆむよりも文左衛門の方がより多くを知り、多くを経験している。文左衛門があゆむを見る目には憐れみがある。彼は自分が猫であることを充分に理解し、同時にあゆむがあくまでも人間で自分とは対等ではないのを知りながら、彼女の方が小さくか弱い生き物であるかのように振舞っている。そしてあゆむはそのことに微かな安堵を覚えていた。
あゆむは今、文左衛門の前で心弱さを許されている。どんな悪意や非難を浴びても泣くまいと背筋を伸ばしていなければいけないようなせつない緊張を文左衛門の前ではしなくていいのだ。それがどれほどあゆむを慰めているか文左衛門は知っているのだろうか。
そこを通るのが近道なのか、文左衛門の姿が民家の塀の下に消えてしまうと、あゆむは示された方向へ歩き出した。
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