第14話

診察室に入るとあゆむは担当医に会釈をし、丸椅子に腰かけた。


「こんにちは」


「……こんにちは」


「あれっ、もう夏休みじゃなかった?」


 担当医はあゆむを見ると言った。


「なんで制服着てるの」


「補習です」


「そうか、補習か。そりゃあ大変だ」




 声の調子からは本当にそう思っているとは思えなかったが、あゆむにはどうでもいいことだった。




 担当医はカルテを見ながら、


「怪我はどう? 痛いとか、ない?」


「ありません」


「脇腹が痛むとかは?」


「いえ、特には」


「ちょっとガーゼとるから」


「……」




 すでに色々な器具や薬の類いが用意されていて、看護師があゆむの横に来ると「それじゃあ、はずしていきますよー」と声をかけた。




 ガーゼを止めているテープを剥がし、いくらか汗のしみたガーゼを取り去るとあゆむは恐ろしい縫合のされた頬に新鮮な空気が触れるのを感じた。思わずほっと息をつく。




 担当医があゆむの顎先を捕えながら傷の具合を見る。傷の周辺の肌を押えては「痛くない? 違和感とかは?」と尋ねる。あゆむはその度に「いいえ」と答えた。




「心療内科を受診したいんだってね」


「えっ」


 傷に薬をつけたり、新しいガーゼに取り換えたりといった処置の後、担当医は言った。




 あゆむは思いがけない言葉に驚き、それから、無断でカウンセリングめいたことをしたのを詫びなければいけないのかと思い「すみません」と言おうとした。




 が、それより先に担当医はカルテに書き込んでいた手を止めてあゆむに向き直った。


「傷のことは気にしなくていいんだよ。今はまだ大きな怪我だけど、整形の専門を紹介するし、ちゃんと元に戻るんだから」


「……」


 あゆむは医者が気休めを言っているな、と直感した。この怪我がかなりの傷跡を残すことをあゆむが知っているのも医者は承知しているはずなのに慰めのつもりなのだろうか。




 気持ちがささくれているのは分かっている。人の優しさを素直に受け止められないほどに。でも、もう、何度も繰り返し思ったことだ。誰にも自分の気持ちを推測されたくもないし、理解されたくもないと。




「私のことは、いいんです」


「え」


「私の怪我とか、そういうのはどうでもいいんです」


「……」


「先生」


「うん」


「あの、私の彼氏は、藤井は」


「……ああ、君の彼氏」


「死ぬんですか」




 あゆむの言葉に医者は目を見開いた。目の前の女子高生は真剣な目をしている。彼女の気持ちは、分かる。この年齢でこんな目にあえば不安や傷ついた心を癒したいと思うのも当然だ。それが医学の手を借りてでも。




 しかし、担当医はあゆむに違和感を覚えていた。一緒に事故にあった少年がICUにいるのは分かっている。ずっと意識が戻らないことも。もしかしたらこのまま植物状態になるかもしれないということも。でも、可能性という点ではまだ五分五分なのだ。




 普通は「助かるのか」と聞くだろう。似たようなものかもしれないが、口にすると大きく違う。言うなれば、助かるのかという質問は生に対して前を向いているのに対し、死ぬのかというのは生に対し背を向けているようなものだ。ましてや自分の彼氏だというのに。




 担当医はあゆむの目を覗き込んだ。十七歳にしては落ち着いていると思う。受け答えもしっかりしているし、丁寧だ。入院中も看護師たちから聞いたところによると、頭のいい子だということだが……。彼はふむと一息ついた。




「正直に答えた方がいいんだね」


「はい」


「そうか。じゃあ、言うよ。死ぬかもしれない」


「……」


「でも、助かるかもしれない」


「え……」


「頭を強く打っているんだ。脳っていうのはね、その機能はまだ医学では半分も解明されてないんだよ。出血はほとんど止まっている。脳圧も下がっている。生命反応としてはむしろ落ち着いていると言ってもいい。でも、意識が戻らない。無責任な言い方に聞こえるかもしれないけど、なぜ目が覚めないのか分からないんだ」


「……」


「だから、可能性はあるということだよ。僕はその可能性を信じている。医者というのはそういうものだから」




 もしあゆむが死神の存在を知らなければ、医者の言葉は信じられただろう。いや、彼が嘘を言っているわけではないのは、分かる。しかしあゆむが確かめたいのは可能性の有無ではないのだ。




「会えますか」


「え?」


「面会」


「……それは……」


「ちらっと覗くだけでもいいんです。駄目ですか」


「……」




 ICUへの入り口ががっちりとガードされているのは知っている。特別な受付を通らないとそこへ立ち入ることはできない。けれどちらとでも覗き見れば、今のあゆむには知ることができるのだ。医者が言うところの可能性を。




 医者が困惑しているのはありありと見て取れた。出入りしていた看護師もどうしたものかと思案しているのが分かる。




 駄目なのだな。あゆむはため息を吐きだしながら、わずかに微笑んだ。




「すみません。もう、いいです。無理言ってごめんなさい」


「……」




 今度は黙りこむのは医者の番だった。あゆむは新しいガーゼを頬に貼り付け、立ち上がった。


「ありがとうございました」


 そう言って一礼すると、診察室を出た。




 医者とてあゆむを可哀想に思わないわけではなかった。会わせてやれるものなら、見るぐらいならと思わないでも、ない。でも、決まりは決まりなのだ。




 それに、あの気の毒な、孤独な目をした少女は自分が彼氏の家族から憎まれていることを知っているだろうか。医者もICUの前で少年の親兄弟が涙まじりに、やり場のない怒りを滲ませて少女の回復をなじっていたのを聞いた。それだって心情は分かるのだ。同じ十七歳の子供のうち、一人は助かり、一人は死に瀕するというのを運命だとか仕方ないだとかでいきなり受け止めろというのが無理なのだ。でも、しかし。




 医者はカルテをファイルに戻しながら、眼鏡をはずして机に肘をつき大きく息を吐きながら両手で顔を覆った。背後で看護師が同じくため息まじりに、


「先生、あの子……」


「可哀想だとは思うけど……」


「ですよね」


「僕の立場でこんなこと言うべきじゃないのは分かってるけど、でも、二人とも助かるんじゃないなら、生き残るのも酷かもしれない……」


「彼氏が死んだら、あの子、自殺だってしかねませんよ」


「……」


 看護師はガーゼや脱脂綿をゴミ箱に捨てながら窓の外に目を向けた。そこにはあの制服の少女が病院を出て、炎天下を早足に歩いて行く姿があった。


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