第13話

家を抜けだしたことはバレていなかったらしく、翌朝、あゆむはいつも通り母親の出す朝食を食べながら朝のニュース番組を見て「この暑いのにご苦労様ね、いってらっしゃい」と補習へと送り出された。




 昨夜の活躍のせいか板橋はまだリビングのソファでぐうぐう寝ていて、顔を覗き込んでも微動だにしなかった。疲れたのだろう。あゆむは今やこの小さな生き物だけが自分の友人のような気がしていた。




 今日は補習がすんだら病院へ行くことになっている。が、それは藤井を見舞うのではなく、顔の怪我の治療と経過観察の為だった。




 ふとあゆむは病院で心療内科医があゆむの訴えに対し休息が必要だとか様子を見ようと言ったことが思い出され、苦い気持ちで笑った。




今でも自分が狂っていると思う瞬間がある。今度こそもう一度、真剣に診察を受けようかと考えることも。でも、そうすることは板橋や文左衛門を裏切ることに思えて踏みとどまる。彼らと言葉が通じることが自分の狂気だとしても、昨夜自分が見たものを否定することはできないし、文左衛門が自分を憐れむように、労るように尽くしてくれたことをそれこそ無視することはできない。一体、今、誰があんなにもあゆむの為を思ってくれるだろう。誰にあゆむの気持ちが分かるだろうか。




 学校に着くとあゆむは校舎内の静けさにほっと息をついた。グラウンドでは部活の連中の張り上げる声がこだまのように響いている。




 補習を受ける生徒が教室で怠そうにに汗をかきながら、せっかくの休みに登校しなければならないこと不満をたらたらと言い合い、それが蝉の声に重なる。




 午前中、真面目に課題に取り組み数学のプリントを埋めていく。途中、分からないところがあれば監視役として教壇でこれも面倒そうに腕組みをして座る教師に尋ねにいく。提出して、採点して、また間違いを直して。そうして時間は静かに、確かに流れて行く。




 今この世界で確かなものは時間だけだ。悲劇的な怪我さえも日常に取り込まれていく自分自身でもなければ、変わらぬ愛情を注いでくれる家族でもなく、友人でもない。こうしているだけで確実に一秒ずつ刻まれていく時間だけがあゆむには信じられるものであり、同時に逃げ出したくなるほどの恐怖でもあった。




 事故からもうすぐ一カ月になろうとしている。いつの間にそんなにたってしまったのだろう。あゆむは軽い衝撃を覚える。意識不明だった時間が三日間だったことも驚いたけれど、意識があってもなくても時間が確実に過ぎて行くことが今更恐ろしく思えた。




 昨夜、死神は言った。藤井の生き死にを知ってどうするのか、と。それは文左衛門にも言われたことだった。しかしあゆむには彼らがなぜそんな質問を返すのかそっちの方が分からなかった。




 どうするのか、だって。どうにかできるなら、どうにかしたい。それだけのことじゃあないのだろうか。それとも死神が言うようにどうにもならないと彼らが知っているからこその「どうするのか」なのか。




 なんとかしなければ……。あゆむはペンを握る手に我知らず力をこめた。こうしている間にも死神は藤井のところのいるのかもしれない。そして聞いているかもしれない。心残りはないか、と。




 藤井は子供の頃から剣道をやっていて、部活での活躍も目覚ましく、あゆむは付き合い始めてから一度試合を見に行ったことがあった。




 県営の体育館で行われた試合は他校の生徒や観戦の父兄でざわめきに満ち、あゆむは二階席から一人で藤井を見ていた。




 袴に防具をつけ、竹刀を手に床を静かに進む藤井は表情こそ分からないものの、気迫というか、真剣さを漲らせていて、それはあゆむが知っている藤井とはまるで違っていた。




 あゆむの知っている藤井は決して饒舌ではないけれど、ちゃんと自分の考えや意思を伝えようとするだけの言葉は持ち合わせていて、そのくせ不意に自分が喋りすぎたのではと気恥ずかしくなるのか無口になって、照れた笑いを浮かべる男の子だった。あゆむは藤井のそういう側面がおっとりした口調と相反して幼いように感じ、男らしい無骨な手や逞しい肩も相まって、なんだ実はかわいい人なんじゃないかと思っていた。




 でも、眼下に見下ろす藤井は違っていた。手にしているのは竹刀であることに間違いはなく、しっかりと防具で鎧っているにも関わらず、藤井の背中からは真剣を手にしているような殺気があった。




 それは見ていて背筋がぞうっとするような、冷ややかで、静かな青い炎のようだった。




 試合開始の声と同時に素早く打ちこむ、その足運び。飛び退き、振りかざし、また打ち込み。彼らの発する声と竹刀のぶつかり合う音にあゆむは鳥肌がたった。




 まるで命のやりとりをするような集中力。あそこにいるのはあゆむの藤井ではない。あの手はあゆむに繋がれた優しい手ではない。気がつくとあゆむは息を殺し手に汗を握っていた。まだ知らない顔がこの他にどれだけあるのだろう。




 鮮やかな快進撃。響き渡る竹刀の音。面、一本。旗があがった。あゆむは咄嗟に立ちあがった。




 あゆむはもっと藤井に近づきたいと思った。あの防具の下に隠されている彼自身に触れたいと、心から思った。




 ああ、そういえばあの時、藤井に想いを寄せる女の子たちも応援に来ていたっけ。藤井が勝ち進んでいく様子がどれだけ誇らしく、また、愛しかったことか。そして他の誰でもない自分が藤井に選ばれた女の子だということがどんなに嬉しかっただろう。




 あの時、嫉妬と羨望の視線を感じていた。でも、今はそれらすべてが憎悪となっているのをあゆむは知っていた。けれど彼女らも「どうにか」できるならどうにかしたいと思っているだろう。その点においてだけはあゆむは彼女たちと共有できるものがあると思った。




 教壇で先生が腕時計を見る。あゆむはその動作にペンを置いた。終わりだ。カリキュラムの終了が告げられるとプリントを提出し、速やかに学校を出て病院へ向かうバスへ乗った。




ちょうど昼食時で空腹だったけれど、近くのファストフードですます気はしなかった。夏休みのファストフード店がどれだけ混み合っているか想像できたし、踏み込めば好奇の視線に晒されるのは分かりきっていた。




 鞄に入れていたペットボトルのミネラルウォーターを飲み、窓の外を眺める。ああ、また、この海沿いの道。あゆむはこの道が好きだった。藤井と何度も歩いた道だ。




 あゆむは緊張していた。病院に行けばそこには藤井がいる。意識のないままに。そして、もしかしたらその隣りには死神がいるかもしれない。




 そうでなくても病院という場所は死に溢れている。まさに隣り合わせ。今のあゆむには死神の姿が見える。あの公務員みたいな七三分けに眼鏡の男に会えるかもしれない。




 人間が踏み込んでいい領域ではないと、死神は言った。仮にも「神」と名がつくものの領域なればこそ、たしかに人間はその采配に任せるしかないのかもしれない。人間の無力さだけがあゆむに圧し掛かる。




 病院は午後の予約の診察で、待合のベンチはだるそうに腰かける人で埋まっていた。




 ちらと中庭を見やると相変わらずわざとらしい棕櫚の木が暑苦しい日射しに葉を広げている。




 あゆむは受付をすますと外科の待ち合いロビーへまっすぐに歩いて行った。そこには処置を待つ人、診察を待つ人、検査待ちの人とさまざまで、それぞれに包帯をしていたり松葉杖をついていたりといった怪我を負っていたが、顔面にガーゼを貼り付けているのはあゆむ一人だった。




 怪我と同時に制服姿も目立つ原因なのか、誰もが一様にあゆむに視線を投げた。あゆむは今ではすっかり顔なじみになってしまった看護師に会釈する。藤井は地下のICUにいる。あゆむは空いたベンチに腰を下ろすと、そっと睫毛を伏せた。




「あ、鈴木だ」




 不意に名前が呼ばれた。反射的に顔を声の方に向けるとそこには同じ学校の生徒が五人ほど立っていた。




 彼らの姿を認めた瞬間、あゆむはぎくりとした。名前こそ知らないが、彼らが藤井と同じ剣道部であることだけは、知っていた。女の子の姿があるのは誰かのカノジョなのか、それともマネージャーかなにかだろうか。




 思わずあゆむは彼らから顔をそむけた。なぜ、ここに。まさか見舞いではあるまい。藤井に面会できるのは家族だけだ。それも決まった時間、ほんの一時間だけ。あゆむでさえも一度も顔を見ていない。




 そういえば最後に藤井を見たのはあの事故だった。前を向いてペダルを踏む藤井の顔は無論見えなかったのだから、最後に見たのは乗る前、だ。あの時藤井は笑っていた。すごく楽しそうに。




「なにやってんの、鈴木」




 彼らはこちらへやって来ると、あゆむの前に立ちはだかるように並んだ。


「なんで、制服?」


 あゆむは俯いたまま、小さな声で答えた。


「補習あったから」


「ああ、そっか。期末受けてないんだっけ」


「……」


「俺ら、部活で怪我してさあ」


「……」


「鈴木は?」


「検診」


「ふーん」




 ひどくそっけない受け答えだった。でも、あゆむは彼らが決して自分を快く思っていないことを感じていた。それは悪意より、敵意のようなもので、言葉から、吐息から滲み出るような感情であり、彼らの健康で強靭な肉体から靄のように溢れて向かってくるものだった。




「怪我、どうよ」


「どうって、別に……。変わりないけど」


「ふーん。鈴木さあ、藤井に面会とかしてんの?」


「……してない」


「なんで」


「なんでって……」




 知っているくせに、わざと言っているのだ。彼らは何があゆむを傷つけるかを的確に知っている。そして実際あゆむは言葉を失い、黙って膝の上で指を組み、祈るような気持ちでこのせつない地獄をやり過ごそうとしていた。




 彼らはあゆむに怒りをぶつけたいのだ。藤井が多くの友達に慕われていたのは知っている。彼らも事故の責任があゆむにあるとは思わないまでも、あゆむ一人が助かっていることに理不尽な気持ちになっているのだ。それこそあゆむが今こうして生きていることが罪であるかのように。彼らの気持ちも分らないではないが、あゆむは身の縮むような思いだった。




「それにしてもさ、お前よく助かったよな。ラッキーだったな」


「……」


「その顔の怪我、ひどいらしいけど」


「……うん……」


「そういう意味ではラッキーでもないか」




 横に立っていた女の子が口を開いた。


「やめなさいよ、そんな言い方」




 あゆむははっとして彼女の顔を見た。しかし、彼女が決してあゆむを庇ったのではないことは瞬時に分かった。彼女の目があゆむを見ながら笑っていた。まるでおかしな冗談を聞いたかのように。




「自分だけ助かったんだから、ラッキーじゃないよね」


「……」


「でも、藤井くんはもっと可哀想だわ」


「……」


「カノジョの顔に傷ができたんだから。ねえ、それ、痛むの?」




 余計なお世話だ。この傷に関心があるのなら今すぐ見せてやってもいい。この恐ろしい傷跡を。見ても尚、あゆむが生きていることに憤りを感じていられるのならば。




 彼らには想像力が足りないのだ。それは平和で安穏な暮らしがほとんど約束されているからだとも言える。よほどのことがなければ彼らは普通に学校生活を送り卒業し、進学し、就職して、結婚してまっとうな人生を歩くだけだろう。即ち、人を傷つけることも自分の身にふりかかる災厄についても、考えもしないで。それを無知と言えばそうなのだけれど、今のあゆむには半ば羨ましいことに思えた。




 これといった事件も起きないで、ただ平坦な生活が続くと信じていられるのが羨ましい。当たり前の幸福が奇跡であるなんて考えないですむのだから。だから人を傷つけても平気でいられるのだ。自分達は誰からも傷つけられないですむと思っているから。




 反撃したらどんなに気持ちがいいだろう。声を荒げて、頬のガーゼをひきむしり、彼らに喰ってかかったらどんなにすっきりすることか。なんなら泣きじゃくってもいい。大袈裟に声をあげて、彼らに殴りかかってもいい。自分が生きていることがそんなにいけないのか、あんた達の言葉で傷つかないとでも思っているのか、私が藤井をどれだけ好きかあんた達は知っているのか。そうしたら彼らはどんな顔をするだろうか。




 できるはずもないそんな想像があゆむはおかしくなって、唇の端で微かに笑った。




 それは皮肉っぽい微笑だった。彼らの無知と無神経を嘲るような薄ら笑いでもあり、いくら考えたところで実行することなどできない自分の気弱さへの笑いでもあった。




 しかし彼らはそれを見過ごさなかった。途端、むっとした表情で、


「なに笑ってんだよ」


 と、あゆむの肩を突き押した。




 あゆむの身体はいくらか傾いだが、それによって初めてはっきりと顔をあげ、彼らの顔をまっすぐに見上げた。




 その時あゆむはどんな顔をしていたのだろう。ポケットに手を突っ込み、眉を吊り上げて詰め寄ろうとしていた少年があゆむの視線にぶつかった瞬間ぎょっとしたように怯んだ。




 あゆむはゆっくり立ち上がった。彼らは一歩、後退りする。


「部活、戻らなくていいの?」


「えっ」


「もう部活終わりなの?」


「……戻るけど……」


「そう。練習頑張ってね」


「……」




 思いがけない言葉に、彼らは唖然としているようだった。あゆむはことさらに彼らに微笑んで見せる。彼らの焦りと戸惑いがじんじんと伝わってくる。




「鈴木さん。鈴木あゆむさん」


 あゆむの名前が廊下のスピーカーから濁った音で呼ばれた。


「じゃあね」


「……」




 あゆむは彼らの前をすんなりと通り過ぎた。いや、通り過ぎて、もう一度振り向いて言った。


「怪我、お大事に」


 すたすたと廊下を進んでいく背中に彼らの視線が集まるのが分かる。今更なんと思われようと、なんと言われようと構いはしない。あゆむの背中はぴんと伸びていた。

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