第12話
連れて行かれたのはあゆむの家の近くの一軒の家だった。芝生の植えられた広い庭を取り囲むレンガ塀。洋館じみた古いお屋敷で、子供たちが独立してしまった後を老夫婦が静かに暮らしているのはあゆむも知っていた。
「ほれ、あゆむさん。そこの塀の角から登って中に入れるじゃろう」
「そんな泥棒じゃあるまいし」
「うちには勝手に入って来たくせに何をいまさら」
「あれはあんたを訪ねて行ったのよ」
「一歩中へ入れば不法侵入は成立しとる」
「見つかったら警察行きだよ」
「そんな心配いらん。ほら早く」
言っている間にも文左衛門は年寄りくさい口調からは思いがけない身軽さで塀の上へと駆け上がった。
「大丈夫、見張ってるから」
戸惑うあゆむに板橋は言うと、曲がり角の方へ走って行ききょろきょろと辺りをうかがった。そして誰もいないのを確認すると、
「いいよ。早く登って」
「……う、うん……」
いちかばちか。こうなったら運を天に任せるよりほかない。自分が死ななかったことの奇跡によって運というものを使い果たしていないことを祈るのみだ。あゆむは古いレンガの脆く崩れた箇所に足をかけて塀をよじ登り、庭へと飛び降りた。
屋敷内に灯りはなかったが、テラスに敷き詰めたテラコッタのタイルの端に常夜灯がぽつんと灯っていて、微かに庭先を照らしていた。
二階の窓へ這い上がるつるバラが沢山の花をつけている。ちょうどタイルの途切れるあたりに木製のロッキングチェアが置かれ、小さなテーブルには紅茶茶碗がそのままにされていた。
「静かに、音を立てないようにな」
「うん」
文左衛門はテラスの扉へと歩いて行く。あゆむは芝生に膝をつき、身を低くしながらそれに続く。こんな事態にいながら草いきれがひどく懐かしいもののように感じられるのは、今を盛りに伸びてゆく植物の生命力のせいだと思う。あゆむの匍匐前進に驚いたバッタが目の前を飛んでいく。今家の人に見つかって警察を呼ばれたらなんと言い訳しよう。昆虫採集に忍び込んだとでも言おうか。緊張のあまり息が苦しい。
「こんばんは」
文左衛門はテラスの扉に嵌められたガラスの一枚を覗きこみながら、家の中へ声をかけた。
この家にも猫がいるのだろうか。あゆむはタイルの上でうずくまってじっと文左衛門を見守っていた。
「こんばんは」
文左衛門がもう一度声をかけた。すると二階の窓が開き、ベランダの手すりから身を乗り出して一人の男が現れた。
「こんばんは。久しぶりじゃないですか」
あゆむは心臓が口から出そうなほど驚いて、慌てて飛び上がり、脚は反射的に逃げようとレンガ塀へと走り出していた。
しかし、文左衛門が、
「これこれこれ。待ちなさい」
とそれを制止しようと走ってきて、塀に登ろうとするあゆむの前に立ちはだかった。
「人が……! 人が!」
あゆむは動転し、喘ぐように文左衛門に小さく叫んだ。
そんなあゆむを落ち着かせるように、文左衛門はことさらおっとりと、
「あゆむさんは執念深いが、ちょっと慌て者じゃなあ。まあ、よく見れば分かるから。あれは、人間じゃあない」
「だって……!」
言っている間に、今度はすうっと音もなくテラスのガラス扉が開き、さっき二階から顔を出した男が庭へと出てきて、あゆむに目を留め言った。
「おや……。君はこの前事故にあった……ええと、名前はなんだったかな……」
男は眉間に皺を寄せ、人差指を振っている。あゆむはレンガ塀の前に植えられているオリーブの木にすがるように半身を隠しつつ、まだ動悸を鎮めることができずにいた。
「あゆむさん、大丈夫かいの」
「あ、そうそう。スズキアユムさん、一七歳」
男は思案に束ねられていた眉間の皺も、しかめた顔もすんなりほどいて納得したように口元を緩めた。
この暑いのに黒いスーツをきちんと着てネクタイを結び、眼鏡をかけている。見た目は若いサラリーマンといったところだろうか。でもどんなに見つめても文左衛門のいうような「人間じゃない」ところは見当たらない。
いや違う。人間では、ない。でなければなぜあゆむの名前を知り、事故のことを知っているというのだ。
あゆむは見つめるほどに何かを思い出しそうなじれったいような感覚に襲われた。懐かしいような、またはいつか見た映画のタイトルが喉元まで出かかってどうしても言葉にならないような、遠い噂のような、知っているような知らないような。
あゆむは声をひそめながら尋ねた。
「あの、前にどこかでお会いしましたか?」
「ええ、会いましたよ。事故の時に」
「……じゃあ、あなたが……」
死神なんですね。言いかけて、あゆむは口をつぐんだ。というのも男が二階のベランダを見上げ、静かにと指を唇の前に立てたので、あゆむも文左衛門も思わず彼の視線を追いかけた。
「仕事です」
男は一言そう言うとおもむろにスーツの内ポケットに手を差し入れて黒革の手帳を取り出した。
それからページを捲り腕時計を見て、胸に差したボールペンで何事か書き込む。文左衛門は黙ってその様子を見守っている。あゆむだけが緊張の嵐の中で心臓を早鐘のように打ち続け、所在なく彼らの様子を窺うだけだった。
耳元を蚊が掠め飛び、あゆむは手で空気ごと蚊をなぎはらう動作をし、腕にとまった一匹をばちっと叩きつぶした。
「ここのご主人が、今、お亡くなりになったんじゃよ」
文左衛門が囁いた。
「え」
あゆむは緊張こそすれ不思議と怖いとは思わなかった。ただ静かで風のない夜のネバついた空気に汗をかいているだけで、その汗は冷汗でもなければ鳥肌も立たず、夏の夜の中にぽつりといるだけだった。
しかし、それでも、次の瞬間テラスのガラス扉が再び開いて中から麻のジャケットを着た老人が出てきた瞬間、今度こそ塀によじ登ろうと足をかけた。
「ちがうちがう。あゆむさん。また慌てる。いいから落ち着いてなされ」
文左衛門がまたあゆむを制止した。
「だって……」
「逃げることはないから」
老人には見覚えがあった。あの麻のジャケット。どんなに暑い日でも糊の効いたジャケットを着て、杖をつきながら歩く姿をよく見かけた。冬は洒落たコートに帽子をかぶり、同じく身嗜みのいい上品な奥さんと一緒に出かけるのが映画のワンシーンのようで、見るともなく視線を吸い寄せられるような人だった。
無論、人となりまで知るわけではないのだけれど、いかにも紳士然とした様子があゆむはなんとなく好きだった。そうか、死んだのか。
老人は庭で息をひそめながら様子を見守っているあゆむと年老いた猫など眼中にないらしく、ロッキングチェアに腰を下ろすと大きく息をついて宙を仰いだ。
スーツの男はその老人の前に立つと丁寧に一礼をした。その姿が何かに似ているなと思ったら、去年、大叔母が亡くなった時に見た葬儀屋の人のようだった。
「おつかれさまでした」
スーツの男が言った。
「僕は斎藤といいます」
「……」
「僕の仕事はこれからあなたを別な場所へ正しく連れて行くことです」
「……」
あゆむが文左衛門に小声で「別な場所ってどこ?」と尋ねると、文左衛門も「あの世じゃないのかね」と小声で答えた。
死神の仕事というのはこんなにも役所の窓口のように淡々としていて、こんなにも事務的なものなのか。あゆむは脚にとまった蚊をまたばちっと叩き潰した。
「その前に確認することがあります」
老人は黙っていた。
あゆむは不意に息苦しくなった。あの人は自分が死んだことを知っているのだろうか。たった今死んだところでもう自分の死を受け入れて、ここではないどこかへ行く準備ができているのだろうか。
もしもこれが自分だったら。あの時、瀕死の目にあって死ななかったのは文左衛門が言うような寿命じゃなかったからだとして、では死んでいたら、あんな唐突な人生の幕切れに納得することなんてできるだろうか。無理だ。無理に決まっている。
スーツの男は手帳を開き、ペンを片手に口を開いた。
「磯崎雄一郎さん。享年八十五歳。死因は心不全」
「……心不全。癌じゃないのか」
「いえ、もちろん原因は末期の食道癌ですが、年齢的にももう外科手術はもちろん抗がん治療もできず自宅療養ということにですね……。それで、決定打は最終的には臓器不全ということに」
「まあ、そんなに苦しまなかったのが幸いだったな」
「最後は奥様の判断でかなりのモルヒネ投与を」
「そうか。そうだったな。うん」
「ご納得いただけたようですね」
「斎藤くんと言ったかな」
「はい」
「この年になればだいたい覚悟はできているもんだよ。自分が末期癌だってことも知っていたわけだし」
「そうですか。それでは、確認したいのですが」
「ああ」
「心残りなことや心配なことがあれば承っておきます。できる範囲でこちらで善処しますので」
「……」
「急には思いつきませんか?」
「……」
「これは、こちらにあまり心を残さない為の手続きです。心残りがあればあるほど、あなたを正しくお連れすることができないのです。迷いがあるなら出来る限り今の時点で取り除いておきたいのです。これは事故防止の為と思って頂ければ結構です」
なんて会話なんだろう。あゆむは軽い眩暈を覚えると同時に胸の中にふつふつと憤りが沸いてくるのを感じた。そりゃあ年寄りは自分の死期を悟っていても不思議じゃないかもしれないけれど、なぜそんなにも淡々としてられるのだ。あのスーツの男もどうかしてる。心残りや心配なんて、ないわけないだろう。だいたい善処ってなんだ。なにをどうしてくれるというのだ。マニュアルに乗っ取っただけみたいなやり方まで役所然としていて腹立たしい。
あゆむはイライラと足元の草をぶっちぎっては、すでに蚊に喰われてしまった足首をがりがりと掻きむしった。
「家内は私が死ぬと分かっていたわけだが……」
「はい」
「だからといって悲しくないわけでもないだろう」
「そうでしょう」
「あれが、あまり悲しまずにすむようにしてやってほしい。そんなことは無理かな」
「……できるだけ配慮します。例えば……、お子さんたちが同居してくれるとか。弔問客が毎日来るとか、遺品の片づけが大変だとか」
「ああ、ヒマだとボケるからな。一人の時間は短い方がいい」
男は手帳に何か書き込んでからスーツの内ポケットに収めてから、静かに右手を老人の顔の前にかざした。
「それでは目を閉じてください」
その時、老人が瞼を伏せるまでのほんのわずかな時間。一秒もなかったが、あゆむの視線は老人と確かにぶつかった。老人の目は静かに澄んでいた。確かにそこにはあゆむの姿が映っていたはずなのに、まるで意に介さず、ただ鏡のように透明な池の面のようだった。
それからあっと思った次の瞬間には、デッキチェアの老人はスーツの男のかざした手に黒い渦となって砕けるように消え失せてしまった。
あゆむは思わず声をあげた。老人はなんの痕跡も残さず完全に消滅し、ついさっきまでそこにいたというのに気配すらなく、スーツの男がこちらを振り返っているだけだった。
あゆむは老人が後に残す自分の妻のことを気にかけたことがせつなかった。彼は一体どこへ消えてしまったのだろう。あゆむはその時初めて「怖い」と思った。死神が、死が怖い、と。人はあんな風に死神によって消滅するのか。木端微塵に砕け散り、塵のような消え方をするのか。死神は老人を「連れて行く」と言ったが、どこへ連れて行ったのだろう。消えてしまった魂はどうなってしまったのだろう。
「ところで、一体、なんの用だったんですか」
スーツの男が口を開いた。
男を見つめながら唇を噛んでいるあゆむを、文左衛門がとんとんと柔らかな肉球のついた手で叩いた。
「聞きたいことがあるんじゃろう?」
文左衛門はあゆむの気持ちを察するかのように優しく言った。
「聞きたいこと? なんですか?」
スーツの男が草を踏みながらまっすぐこちらへやって来る。あゆむは立ち上がると、動悸を鎮めようと深く息を吸った。
「前に会ったって言いましたよね」
「ええ。あなたが事故にあった時に。この近辺は僕の管轄なので」
「あなた、死神ですよね」
「……まあ、そういうことになりますね。斎藤です」
「斎藤さん……」
「それにしても不思議なことです」
「え?」
斎藤と名乗る死神は人差指で自分の眉間を押えるようにし、難しい表情で続けた。
「あなた、どうして猫と話しができるんですか。事故の後遺症でしょうか」
「そんなことこっちが聞きたいわよ!」
あゆむは斎藤の呑気な言い方にかっとなって思わず大きな声を出した。
「しっ! 声が大きいっ」
文左衛門が慌ててあゆむを制した。
斎藤は見ているこちらが熱中症で倒れそうなスーツ姿に汗ひとつかかず、じいっとあゆむの顔を凝視した。
「……ふむ」
「なによ……。聞こえるんだからしょうがないでしょ。猫の言葉が、分かるんだからしょうがないじゃないの。私、なんにもしてないわよ」
「頭の打ちどころが悪かったんでしょうか」
「知らないわよっ」
「声が大きいっ」
文左衛門がまたしても焦って口をはさむ。
「まあ、そのうちね。聞こえなくなりますよ。たぶん」
「……あんたのせいじゃないの」
「と言いますと?」
「死神なんかに遭遇したせいで、ワケ分かんない能力ができちゃったんじゃないの」
「そんな力、私にありませんよ。だいたいあなたね、ちょっと死にかけたぐらいでいちいちそんなことになってたら、世の中不思議な人間だらけですよ」
「……ちょっとってなによ……ちょっと死にかけたって、こっちは大ごとだったんだから」
「あゆむさん、落ち着いて話しなされ」
ここで落ち着いていられるぐらいなら、誰も苦労はしない。こっちはまだたったの十七歳で、さっきの八十五の老人みたいに達観なんてしていないのだ。
「猫と話しができるのは、まあ、いいわ。それよりも、あなた」
「斎藤です」
「……斎藤さんの仕事は、その、死神として死んだ人を迎えに来ることなのよね」
「まあ、そういうことです」
「私のところにも来たのよね」
「死にかけでしたからね」
「なんで死ななかったの?」
「……若いのにそんなこと考えてるんですか。別にいいじゃないですか。死ななかったんだから。そんなこと考えなくてもいいでしょう」
「若いとか、そんなこと関係ないわよ」
「医学ですよ、医学。医学が発達してるんです。だから、死ななかったんですよ」
「寿命じゃなくて?」
背の高い斎藤はまるで役所に非常識なクレームをつけに乗り込んできて窓口で大騒ぎする女を見るような、困惑まじりの苦笑いを浮かべて、
「だから、医学だと言ってるでしょう。そりゃあ、寿命というものもありますよ。でもね、それだって変化するんです」
「だって文左衛門は初めからみんな寿命は決まってるって言ったわよ」
「ですから、決まってても変わることはあるんですよ。あなた達の好きな言葉でいうなら運命というやつです」
「バカにしてんの?」
あゆむは斎藤を睨んだ。
運命なんて言葉に翻弄されているからこんなことになったのだ。ただ襲いかかる波を待ち受けて、その流れに流されるだけが運命ならば、こちらから挑みかかることだってできるはずだ。
そんな風に思うのはあゆむの若さ故だが、同時に無知であることの証明でもあった。若い頃は誰だってそんな風に運命を自分の力で切り拓いていけるものと信じている。しかし、傍らで聞いていた文左衛門は思う。一体、誰にそんなことが可能だったのだろうか、と。
文左衛門は老齢な猫で、これまで多くの人間を見てきた。でも、寿命に立ち向かって死を回避した者はまだ一人もいない。
それでも文左衛門は、この必死な、泣きそうな顔で迫って来る小娘を嗤う気持ちにはなれなかった。彼は、こんな懸命さをかつてどこかで見たような気がしていた。
「じゃ、あなたの姿が見えるのはどうして? それも後遺症? それとも、実は私の死期が迫ってる?」
「あなたじゃなくて、斎藤です。別に特別なことじゃないですよ。あなたみたいに死にかけたことのある人は誰だって私の姿見えますよ。ただ見る機会がないだけ。私がいつどこにいるか分かっていれば、見えますから。だから私はこうして誰に見られてもおかしくないように目立たない格好をしてるんです」
「……」
「動物はね、また別ですよ。特別なカンとか、あるんですよ。猫は夜目も効くし」
「だから文左衛門はあなた……斎藤さんがどこにいるか分かるのね」
「そういうことです。彼は特別です」
斎藤は腕に嵌めた時計に目を落とした。
「ああ、もう、こんな時間じゃないですか」
「ちょっと待って。まだ肝心なこと聞いてない」
「なんですか、一体。こっちも忙しいんですから」
「あの事故の時」
「はい」
あゆむはごくりと唾を呑み、慎重に言葉を継いだ。
「もう一人、いたでしょう。死にかけた人」
「……」
「あの人は?」
「……」
「死ぬの?」
何度口にしてもこの言葉は胸に突き刺さる。あゆむはすでに涙目になっていた。知りたい気持ちと知りたくない気持ちが再びあゆむを揺さぶる。
「どうかのう……ちょっと教えてくれると助かるんじゃがのう……」
いよいよ哀れに思ったのか、文左衛門が横から口をはさんだ。
「なに言ってるんですか」
斎藤は驚きの声をあげた。そして憤慨したように、
「だいたい、知ってどうするっていうんですか。あなたねえ、人間の生き死になんていうのは本来は人間が勝手に決めていいものじゃあないんですよ。生活水準の向上、外敵もなく、医学が発達し、人間はずいぶん自分達の生命を守れるようになってきた。それは、いいですよ。ええ。あなた達の努力の賜物と言うこともできるでしょう。けど、私の仕事の領分に入って来るのはお門違いもいいとこです。知的好奇心といえば聞こえはいいかもしれないけど、知らなくていいこと、触れなくていいこと、開けなくていいドアは絶対にあるんです」
「大事なことなのよ」
「そんなこと私には関係ありません」
斎藤はぴしゃりと言い捨てた。
「あの少年があなたの何であっても、彼の生命についてどうこうする権限はありません。そして、あなたがその行方を知る必要もありません。それは人間の関知することではないからです」
あゆむはすでに踵を返して家の中へ入って行こうとする斎藤の背に飛びつくと、スーツの上着を掴んで叫んだ。
「お願い、殺さないで!」
遠くで、どこかのうちの飼い犬があゆむの声を聞きつけたのか甲高い鳴き声をあげている。
あゆむは必死だった。斎藤を逃がすまいとがっちりと彼の腰にしがみつき、顔を背中に押しつけてくぐもった声で訴えた。
「連れて行かないで。決まってても変わることってあるんでしょう。なんでもするから、殺さないで」
斎藤は黙ったまま動かなかった。背中であゆむがぐずぐずと泣いて、鼻水をこすりつけ、ひたすら「お願い」を繰り返している間中、髪の毛一筋ほども動きはしなかった。
と、その時、見張りをしていた板橋が塀の上に姿を見せ、あゆむ達に向かって大きな声で叫んだ。
「人が来るよ! もう行かないと!」
はっとして文左衛門が二階の窓を見上げると、暗かった部屋に灯りが灯っていた。恐らく老人の死に家族が気がついたのだろう。
この時あゆむにはそうとは感じられなかったが、あたりの空気がざわざわと動き始めるのを板橋も文左衛門もはっきりと読み取っていて、
「あゆむさん、ここにいてはいかん」
「あゆむ、早く!」
と二匹はあゆむをせかした。
斎藤は腰に巻きついていたあゆむの腕をゆっくりとはずすと、静かに向き直り、細い肩をぽんとひとつ叩いた。
「捕まっても知りませんよ」
「あゆむ!」
板橋がもう一度怒鳴った。
斎藤は文左衛門に会釈をすると、もう、今度はあゆむにも感じられるほどにざわめき始めた室内へゆっくりと戻って行った。
救急車のサイレン。人々の嘆き。あゆむは庭を駆け抜け、一気に塀をよじ登って二匹の猫と共に暗がりの歩道へ飛び降りた。
開けなくていいドアと斎藤は言った。あゆむは家のすぐそばまで逃げてくると息を切らしながらよろめき、壁に体をもたれさせた。
体中が痛かった。緊張と緩和。そして折れた肋骨の鈍い痛み。頭重感とこめかみを流れる汗。
ぜいぜいと荒い呼吸に目を閉じていると、板橋が心配そうに足元に身を寄せて、
「大丈夫?」
とあゆむを気遣った。
開けなくていいドアなら、もうとっくに開けてしまった。あゆむは板橋に頷いて返しながら、たった今逃げてきた道を振り返った。
「あれっ……、文左衛門は?」
「あ、いない」
「……」
開けなくていいドア。あゆむはもう一度強く思った。開けてしまったドアを閉める術など知らない。知るわけがない。
道の向こうに二つ、きらりと光るものが見えた。あゆむはその瞬きに片手をあげてから、板橋と一緒にそっと家の中へと入って行った。
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