第11話

深夜の住宅街とはいえ人通りが皆無かというとそんなことはなく、時折背後から皮靴の足音がし、車のライトがあゆむを照らし出した。板橋は道の隅を暗がりに紛れるように音もなく歩いて行く。あゆむは板橋に従って同じく静かに歩く。




 これまでに無断の夜間外出が一度もなかったかというとそういうわけではなかった。今までにも幾度か友達との夜遊びに、彼氏との密会にこっそりと出て行き、ひっそりと戻ったことがある。それらが一度もバレなかったかというと物音に気付いた母親が寝室から出てきてなにやら煙草臭いあゆむを廊下で発見したり、玄関ですでに待ちうけていたりした。当然その度にひどく叱られ、時には父親まで出てきて横っつらに平手打ちをくらったりもした。でも、もう二度と父親は手をあげたりしないだろう。例えあゆむが何をしても、この顔を殴ることはできない。しかしあゆむはそれを決して良しとは思わなかった。




いつか彼らの受けたダメージが癒えれば、かつてのようにあゆむを殴ることができるだろうか。そうだといい。壊れもののように扱うのではなく、もはや壊れたものとしていくらでもぞんざいに扱ってくれればいい。あゆむは今こうしてこっそり家を出ていることはさておいても、両親の気持ちを思ってせつなかった。自分は両親を傷つけてしまったのだ。悪気はないにせよその事実は消えない。




「ねえ、板橋」


「ふん」


「お姉ちゃんも昔こっそり夜中に遊びに行って、見つかって、お母さんと大喧嘩になってさ」


「ふん」


「その頃のお姉ちゃんったら血の気多いっていうか、もー、すごい反抗的だからお母さんに怒鳴り返して大変で、近所迷惑つーか、何の事件ですかってな勢いで警察に通報されそうで、お父さんが止めに入って」


「へえ」


「そしたらお母さんが繰り出したパンチがお父さんに当たって、お父さん鼻血出ちゃって、今度はお父さんが激怒してお母さんとお姉ちゃんが両方怒られて家から閉め出されたのよね」


「れいちゃん怒ると収集つかないとこあったなあ」


「あの人、キレたら物壊すからね」


「知ってる。彼氏と喧嘩してケータイぶっ壊してた」


「マジで」


「彼氏が週末部屋に来てたけど、なんかすごいしょーもないことで喧嘩すんのな」


「へえ」


「カレーの温め方とか、卵焼きに砂糖を入れるとか入れないとか」


「しょーもな」


「あと、猫にばっかりかまって、無視するとか」


「…へえ」


「彼氏がやきもち」


「板橋に?」


「そう。笑っちゃうよな」




 住宅街を抜けて川沿いの公園へ入る。桜並木が今は街燈の灯りも透過させないほど厚く生い茂り、暗闇が濃い。川は干上がり水の匂いはしなかった。




 小さな橋を渡りながらあゆむは自分が姉の思い出を持っているように、板橋にも板橋だけの思い出があるのだということを悟った。暗くて表情が読めなかったけれど、板橋の口吻には姉への愛情があった。




「あそこ」


「え」




 板橋は立ち止まると目的の場所をくいと顎先で示した。よく光る目の先を辿ると、通りの先には権現神社の鳥居があった。




 入り口には大きな楠がそびえ、境内へは石畳が続きその背後には御宮の森と呼ばれる木々の群れがある。縁結びにご利益があるとかなんとか言われているが、あゆむにはこの神社の夏の縁日が子供の頃から慣れ親しんだもので、その縁日もそろそろ近づいているのを思い出した。




 金魚すくいやヨーヨー釣り、かき氷、たこ焼き。花火。夏に相応しいものがすべて揃う懐かしい場所。藤井がいたらきっと一緒に来ようと約束したに違いない夏のイベントのすべて。




「あそこで集まって、おじじさまにいろいろ相談とかすんの」


「猫集会があるのね」


「みんなおじじさまに聞きたいことがあるから」


「……」




 猫たちの相談が何かは知らないが、文左衛門はそれらに適切に応えてやるのだろうか。そして彼らの納得のいく答えを見出してくれるのだろうか。




 あゆむは自分の願いを聞き入れなかった文左衛門に、どんなことをしても必ず質問の答えを出させてやると決意を新たにした。




 誰のどんな難問にも答えを出し、知らぬことは何もないという仙人のような猫長老。生き物の死に時が分かるという神にも等しい力。今こうして猫と言葉が通じる以上は絶対に聞き出してやる。でなければ猫と言葉の通じる意味などないのだ。




 板橋が先に立って参道を突き進む。夜の神社なんて気持ち悪い所に来たくはなかったが、石畳に散る砂埃をざりざりと踏んであゆむも続いて拝殿へと進んで行った。




 境内は暗く、風のない夜だけに空気はしんと静まり返りその蒸し暑さの分だけ重く圧し掛かってくるようだった。あゆむはじっとりと汗をかいていたが、それが暑さのせいなのか緊張によるものかは判別がつかなかった。




「ほら、みんないる」




 板橋があゆむを振り仰いだ。


 あゆむは水銀灯が投げるぽっちりとした光に目をこらした。いると言われてもどこにいるのか分からなかった。板橋が「ほら、あそこだってば」とじれったそうに言う。




「どこよ、見えないよ」


「あの賽銭箱の手前」


「だから、どこ」


「よく見ろよ」




あゆむは眉間に皺を寄せた。次第に暗闇に目が慣れてくると、確かに拝殿の軒先に置かれた煤けた賽銭箱の前、ちょうど影になっているあたりに猫がちんまりと座っており、さらに目を凝らせば軒下にもいくつかの光る目玉がちらちらするのが分かった。




 いる。猫だ。あゆむは迷いなくいきなり彼らに向かって一歩を踏み出した。




 と、途端に集まっていた猫たちが一斉にあゆむと板橋を凝視した。なにか怪談じみた光景だった。数匹に見えた猫も実際近寄って見ると無数に散らばっていて、それが一斉にあゆむを見て、口々に「なによ、なにしに来たのよ」とか「なんで人間が来るんだよ」とざわめきあった。




「こんばんは」




 あゆむは怯む自分を鼓舞して、わざと胸を張り快活に挨拶をした。




 すると軒下で寝そべっていた薄汚れた、鼻のあたりに間抜けな黒いまだら模様のある白黒の猫がいかにも挑戦的な口調で、


「なにしに来たんだよ」


 と、ずいと起き出してきた。




 ほとんど吐き捨てるような調子にあゆむはむっとした。が、鼻クソをくっつけたような柄のその猫が畳みかけるように、


「よそ者が来るところじゃねえだろ」


 と言ったので、初めてその言葉が板橋に向けられていることに気がついた。




 あゆむは何か言い返そうかと思ったけれど、板橋が東京から来たのは事実で「よそ者」であるのに間違いはなく、先住猫たちのルールがあるのならばそれも尊重せねばならないような気がして、板橋にちらと視線を移した。




 板橋は黙って鼻クソ猫を睨んでいた。それはまるで子供が喧嘩する時のような、今にも殴りかかっていきそうな緊張を湛えた沈黙であゆむはどうしていいか分からなかった。




「誰でも来ていい場所じゃないって前にも言ったよなあ。それなのに、なんで来たんだよ。それも人間なんて連れて来て。だからお前は空気読めないってんだよ」


「……知り合いだから連れてきたんだよ」


「知り合い? 誰が、誰の?」


「……」




 鼻クソ猫はいつの間にか軒下を出てこちらへひたひたと歩みを進めてくる。板橋は反射的に戦闘態勢になり、身を低くした。




 まずい。こんなところで猫の喧嘩を見物している場合じゃない。あゆむは二匹の間に割って入ろうとした。すると、例のおっとりまったりした声が、


「あゆむさん、こんなところまで来たのか。あんた本当に執念深い性格じゃのう」


「文左衛門」


 文左衛門は静かに参道の真ん中を歩いてくるところで、彼の出現に不穏な空気を立ち上らせていた猫たちが一斉に飛び出してきた。




 あゆむは驚いて小さな悲鳴をあげた。足元を何匹もの猫が文左衛門に駆け寄って行く。


「おじじさま!」


「おじじさま、お待ちしていました!」


「聞きたいことがあるんです!」




 猫たちは文左衛門を取り囲むと我先にとわいわい言い出し、なるほど文左衛門が猫たちの尊敬を集める特殊な存在であることが披露され、あゆむはその迫力にごくりと唾を呑んだ。




 しかし、それでも鼻クソ猫は忌々しげに板橋とあゆむを交互に睨み、


「お前ら、おじじさまとどういう関係なんだよ」


 と詰め寄った。


「どうって……」


 あゆむは返答に困り、文左衛門を振り返った。文左衛門は賑やかに多種多様な猫たちにまつわりつかれながらゆっくりこちらへやって来る。




「おじじさま、うちのご主人が近頃急に胸を押えて動かなくなったりするんです。痛いらしいんです」


「ふむ、医者には行ったんかの」


「行きたくないって言うんです」


「そりゃいかん。無理にも連れて行かねばならん。介護の人は来とるんかな」


「はあ、時々様子を見に来る人が」


「電話してみなされ。なあに、喋らなくてもいいんじゃ。心配せずともボタンを押すだけで猫でもできる。黙っていれば不審に思って、高齢者のところにはすぐに来る」


「はい!」




 そんな馬鹿な。いや、でも、そうかも。




「おじじさま、この子。この前生まれましたの」


「おお、かわいい顔じゃのう」


「長生きしますか」


「車に気をつけるんじゃな。信号を教えてやらねばのう。夜も車道に出ちゃいかん。そうすれば長生きするさな」


「はい! ありがとうございます!」




 そりゃそうだよ。あゆむは思わず吹き出しそうになったものの、でも、猫たちの訴えにのらりくらりといった調子で答える文左衛門の回答のいちいちがもっともといえばもっともで、彼が適当に相槌を打っているのではないのがなんとなく分かった。




 文左衛門は猫に囲まれたままあゆむの前までやってきた。


「あゆむさん、こんな時間に出かけて叱られやせんかのう」


「こっそり出て来たのよ」


「ふうむ」


「そんなことより、私の質問にも答えてよ」


「あんた、本当に執念深いというか根気強いというか……」


「聞いてくれないと痛い目にあわせるって言ったでしょ」


 あゆむはずいと凄んで文左衛門に手を伸ばそうとした。その瞬間、二人を取り巻く猫たちが、


「お前、ふざけんな!!」


「罰あたり!!」


「なんてこと言うの!!」


と、ものすごい勢いであゆむを罵倒し、そのうちの数匹はあゆむ目がけて飛びかかってきた。




背中や肩に駆けあがられてびっくりしたあゆむは、悲鳴をあげ猫を振り払おうとした。が、彼らの鋭い爪がシャツを突き破ってあゆむの肌をがっちり刺しており、その痛みにあゆみは「痛い痛い!!」と叫びをあげた。




「お前らやめろ!」


 板橋が猫に襲われてもがくあゆむを助けんと躍りかかった。


「離れろ!」


「なんだ、よそ者のくせに! 帰れ帰れ!」


 猫たちが今度は板橋に怒鳴る。ふうふう、しゃあしゃあ、猫たちの鋭い威嚇の声が響き渡る。どの猫も全身の毛を逆立て、尻尾をそそり立て怒りを露わにしている。




「これこれ、やめなさい」




 あゆむが痛さと怖さで石畳に膝をつくと、文左衛門が全員を見渡して言った。


「争いは好かないよ」


「でもおじじさま……。こんな無礼をお許しになるなんて……」


「無礼かどうかは儂が決めることじゃよ。儂はなんとも思うとらん」




 あゆむに噛みついていた猫が後ろ脚であゆむを蹴りつつ、地面に飛び降りた。シャツには血が滲み、爪の貫通した箇所は点々と穴が開いていた。




「あゆむさん、大丈夫かいのう……」


「いたたたた……」


「その傷、消毒せんといかん」


「……」


「猫の口の中には黴菌がいて、放っておくと大変な感染症を起こすこともあるんじゃよ」


「詳しいのね」


「テレビで見たんじゃ」


「……ああ」




 板橋が足元で心配そうにあゆむを見つめている。




 あゆむは猫たちの敵意剥き出しの視線からかばうように、板橋を抱き上げた。


「ここに来ると危険じゃよ」


「……」


「いくらあんたが猫と言葉が通じるといっても、誰もがそれを受け入れるわけじゃない」


「……」


「猫同士だって、みんながみんな仲間というわけでもなし」


「……」




 文左衛門は板橋にも諭しているようだった。それはここへあゆむを連れてきた板橋の責任を問うかのようでもあり、板橋は黙っておとなしく文左衛門の言葉を聞いていた。




 猫同士がみんな仲間というわけではないというのは特に板橋が東京から来た事を指しているのだろう。同じ町内で生まれ育っても縄張り争いがあるのだから、よそ土地から来たのなら尚のこと。板橋が猫たちに疎まれているのも仕方がない。しかし、それを押してもあゆむをここへ連れて来てくれたことに、あゆむは底知れぬ感動を覚えていた。




 猫たちが言うように、あゆむは完全アウェーの招かれざる客なのだ。彼らが神聖視する集会の場にあつかましく押しかけてきたのだから反感を買うのも当然だし、無礼というなら、あゆむこそが猫たちに対して無礼を働いたことになる。文左衛門を脅したことよりも、あゆむは彼らに対する礼を欠いたことを反省しなければならなかった。




 言葉が通じることをただ便利なだけにしか考えておらず、所詮畜生と侮った結果がこれだ。彼らには彼らの世界。彼らのルール。彼らの正義。物を尋ねるのにあゆむは自分が人間であるという理由だけで傲慢な態度に出ていたと思うと、板橋を抱きしめ、その柔らかな毛皮を撫でつつしゅんと沈み、


「ごめんなさい」


 と小さく呟いた。




 その言葉に文左衛門はおや?と目を見張った。


「急にお邪魔してごめんなさい。来るべきではないのは分かってる。それは本当に悪いと思ってる。でも私も真剣なのよ。お願い、分かって」


 あゆむは周囲の猫たちを見まわし、


「別にこの人をいじめたり、傷つけたりするつもりはないの。ただ、どうしても聞きたいことがあるのよ」


 猫の目が暗闇に光りながらあゆむを見つめている。その光のひとつひとつに意思があると思うと、あゆむはわずかに背筋がひんやりした。




 猫たちは文左衛門が制止したせいもあってか、黙ってあゆむの言葉を聞いていた。いいも悪いも言うことはなく、ただ黙って。それは最高権力者であり、長老であり、神様みたいな文左衛門の出方を見守っているらしく、緊張の糸が張り巡らされてそれぞれを数珠つなぎに繋ぎとめているようなものだった。




「……あゆむさん、儂は確かに人の死ぬ時期が分かる」


「……」


「でもそれは儂自身が分かるわけではないんじゃよ」


「死神ね?」


「そうじゃ。儂には死神が見えるんじゃよ……」


「会わせて」


「あゆむさん……」


「死神は死ぬ人のところに来るんでしょう? 会わせて。話しをさせて」


「……」


「お願い。このお願い聞いてくれたら、なんでもする」




 根負けとでもいうのか、文左衛門は天を仰いでふうと大きく息を吐いた。


 相変わらず風の死んだ境内は御宮の森の緑がむうっとした匂いを放ち、猫臭さと毛皮の暑苦しさに一層体感温度が上昇するようだった。




「……ついてきなされ」




 文左衛門はそう言うと、歩いて来た参道をまたゆっくりと元へ戻り始めた。




 文左衛門に会う為に集まって来ていた猫たちもそろそろと道を開ける。


「なにしとるんじゃ、来なされ」


 あゆむは板橋を地面におろすと、文左衛門に従って小走りに駆けだした。が、すぐに立ち止まって境内の猫たちを振り返ると、無言で頭を下げた。猫たちは一様に面食らったような顔をしたが、何も言わず、さりとて頭を下げ返すこともなくあゆむの礼を受けた。




 そうしなければならないと思ったのではなかった。人間同士ならば当然のことをあゆむは自然に行っただけだった。もうあゆむにとって猫は猫ではなくなりつつあった。




足音もなく文左衛門は歩いて行く。淀みなく、まっすぐに。あゆむはそのまま文左衛門を追って夜の神社を後にした。

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