第10話

家に帰ると母親は留守で、エアコンの消された室内はむっと熱気がこもっていた。


 あゆむは一度大きく窓を開け空気を入れ替えた。


「板橋」


 そこが冷たくて気持ちいいのか、板橋は台所の床にだらしなく伸びきって寝ていて、あゆむが呼ぶと無精たらしく尻尾だけぱたぱたと動かして返事をした。


「お母さんは」


「買い物」


 冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで一息に飲む。板橋は一向に動く様子がない。




 以前の板橋はこんなにも無防備ではなかった。人の気配に敏感で、熟睡していようとも即座に飛び起き臨戦態勢をとった。人のそばで寝ていられるような猫ではなかったのに、今はどうだ。言葉が通じるとこんなにも心許せるものなのだろうか。




 あゆむは板橋がこのうちに来た時の、野良猫のように敏捷で警戒心の強かった頃を思い出していた。あの頃板橋は絶対に誰にも心許さぬ顔をしていた。なにが彼をそうさせていたのだろう。警戒心が本能なら、今の板橋からは本能は欠如していることになる。




 コップを流しに置くとあゆむは窓を閉め、エアコンのリモコンを手にした。


「ねえ」


「ふん」


「文左衛門に会ったよ」


「えっ」


「会いに行ってきた」


「……何しに会いに行ったわけ?」


「なにって……」




 エアコンの吹き出し口から冷たい風がひゅうと流れ出す。板橋がむくりと起き上がった。


「聞きたいことがあったからよ」


「聞きたいことって?」


「あんた、知ってるでしょ」


「……彼氏のこと?」


「……そうよ」




 板橋は大きな口を開けてあくびをし、前脚を舐めて顔を洗った。そういう動作が猫らしく、あゆむはふっと小さく笑った。




「聞いてどうすんの」


「それ、文左衛門にも言われた」


「彼氏、死ぬの?」


「分かんない」


「知りたい?」


「あんたにも分かるの?」


「分かるわけないだろ」


「だよね」


「……もし死んだらどうする?」


「……藤井がいなくても生きていける自信がない」




 あゆむはそう口にするとしゃがみこんで板橋を抱き上げようとした。




 すると板橋はさも不愉快そうにふんと鼻を鳴らしてあゆむの手を逃れた。人間のように感情を露わにして態度を変える板橋にあゆむもまた驚きと軽いショックを感じて、出した手をひっこめた。




 板橋は怒っていた。以前は感じたこともない板橋の感情というものをまざまざと見せつけられて、と同時にその激しい感情の潮流の気迫に気圧されるようで、あゆむは戸惑っていた。




「そんなわけないだろ」


「……」


「人間一人いなくなったところで、それがどんなに大事な人でも、腹は減るし眠くもなるし、結局は今までと変わらずに生きて行くに決まってるじゃん」


「なんでそんなこと言うのよ」


「お前がなんも分かってないから」


「じゃあ、あんたには何が分かるのよ」




 板橋の言うことも正論に思えたあゆむは、怒りと悲しみのないまぜになった気持ちで、それでも自分が人間であるという誇りにかけて板橋を睨んだ。




 あゆむは気持ちが通じると思えてもやはり自分と板橋は対等ではないと心の底では思っていた。いや、思わざるえないのだ。彼が猫であり、自分が人間であるということも一つの理由だが、それよりも、頑なな態度を誇示しなければ自身を保つことができない。あゆむは自分の不甲斐なさを自分よりも下と思える存在によって正当化しようとしていた。




 板橋はむっとした顔で同じくあゆむを睨みかえしていたけれど、その動物らしい聡い聴覚でぱっと玄関へ続く廊下へ顔を向けた。




 そのわずか数秒後に玄関で物音がし、ドアの開く音が聞こえた。次いで、母の呑気らしい声。ただいま。あゆむ帰ってるの。今日も暑いわねえ。ごはん食べたの。あゆむ、いるの。




 母が部屋に入って来る。ああ、暑い。あゆむ、麦茶ちょうだい。母は買い物袋をテーブルに置きながら汗を拭っている。




 板橋はにゃあんと小さく鳴いて母の足元へ駆けて行くと、悲しいような、蔑むような、または憐れむような目であゆむを一瞥した。




母が「あら、板橋どうしたの」とひょいと抱き上げる。板橋は黙って母に抱かれている。あら、あなたお昼寝しないの。どうしたの。




 あゆむは板橋が母に媚びているように思えて忌々しく、ぷいと台所を後にした。


 自分の部屋に引き揚げたあゆむは、なぜ板橋があんなことを言うのだろうと考えていた。確かに自分達はもともと仲が良かったわけではない。でも、どうして言葉が通じるようになった今あんな意地悪なことをわざわざ言わなければいけないのだ。あゆむには板橋の気持ちがまるで理解できなかった。




 母にだけは心許して甘える板橋も、あゆむに辛辣な板橋もいずれも同じ板橋だが、あゆむの目にはまるで別な生き物に見える。




 所詮は畜生ということなのか。あゆむはふとそんなことを思う。自分なら、こんな風にわざわざ人を傷つけるようなことは言わないだろう。それは自分が人間で、相手に対する配慮ができるということだ。動物にはそれはできないのだろうか。一度は優しく通じ合ったと思っただけにあゆむは物悲しく、ベッドに寝転ぶと嵐が過ぎるのを待つかのように、じっと息をこらしていた。





 夏休みに入ってから一度も友達の誰からもメールや電話がないことはあゆむに死を連想させた。




 健やかな彼女たちと関わることが面倒に思ったのも事実だけれど、こんなにも簡単に忘れ去られてしまうのだなと思うとあゆむは自分の存在の軽さを考えずにはおけなかった。




 忘れられるというのはある種の死なのだ。もう彼女たちの中に自分はいない。


 それでは藤井はどうだろう。彼を省みる友人たちはどのぐらいいるだろうか。意識のない藤井には誰も会うことができない。しかし、噂されているだろう。彼の生命の行方について。そういった意味では藤井はまだ生きているし、その存在は鮮やかだ。




 あゆむは知っている。藤井の友人たちの間で自分が生き残っていることが取り沙汰され、時として残酷な言葉で糾弾され、同時に憐れまれていることを。その瞬間あゆむの存在も色濃くなる。今やあゆむは藤井の死線によってのみ、生きることを許されているようなものだ。




 文左衛門と藤井が同じ町内に住まうのは偶然なのだが、それではあの「なんでも知っている」という仙人みたいな猫は藤井のことも知っているだろうか。少なくとも飼い主の「服部さん」は知っているかもしれない。




 あゆむは昼間に自分が行った不法侵入を思い返し、なんだかおかしくなって一人笑った。




 もしもあの時家に戻って来た「服部さん」があゆむを発見したらどうなっていただろう。しかもそれが不幸な事故で未だ意識不明の「藤井さんの末っ子」のカノジョだと知ったらなんと思うだろう。……頭がおかしくなったと思うのだろうな。あゆむはもう一度自嘲的に笑った。




 あゆむはその夜もう一度文左衛門のところに行くつもりだった。こうしている間にも無益に時間が過ぎ去って行くのを黙って見ていることはできない。


 それに。それに、夜が長すぎる。静けさがあゆむを絶望へ誘う。暗闇があゆむに見せる終焉のイメージ。それらの苦痛に一人で耐えるよりは、あゆむは何度だってあの猫にかけあうつもりだった。




 時計の針が午前零時をまわったところで、あゆむは階下のソファで寝ている板橋を起しに行った。




 あゆむが近づくと板橋ははたと目を覚まし、一瞥をくれ、


「……どこ行くの」


 と尋ねた。




 あゆむは夕食後に自室に引き揚げてからパジャマ姿だったのを、ジーンズに着替えていた。


 父親も母親も夜が早い性質なのですでに寝ている。リビングはしんと静まり返っている。


 あゆむは小声で、言った。


「文左衛門のところに行ってくる」


「……今から?」


「うん」


「……」


「一緒に行ってほしいの」


「……」


「あんた達って夜行性でしょ。出かけてるかもしれないし、板橋がいないと探せないよ」


「他の猫に聞けばいいじゃん」


「そんな都合よく猫と遭遇できるか分かんないし、他の猫なんて探してる時間ないよ。それに、いちいち事情を説明しなきゃいけないじゃないの」


「それもそうか……」


「お願い、付いて行って。一緒に文左衛門探してよ」


「……こんな時間に出かけたらお母さんに怒られるよ」


「あんた、しょっちゅう出かけてるじゃないの」


「こっちじゃなくて、そっちが」


「……だから早く。早く行ってバレないうちに帰ってこないとまずい」


「……分かったよ」




 板橋はしょうがないといった体でひょいとソファを飛び降りると、前脚で顔をごしごしこすった。その仕草が眠気を祓おうとする人間のようだった




「心配しなくてもすぐ会えるよ。居場所は分かってるから」




 こんな時間の無断外出を両親が許すはずないのは分かっていた。知れればどんなに叱られるか、考えなくても分かる。しかし今はそんなことどうでもよかった。


「早く、行くよ」


 板橋があゆむをせかす。あゆむは物音を立てないよう慎重に家を出て、板橋について歩き始めた。

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