迷迭香

灰崎千尋

ユリエ

 その女を初めて見た時、そのあまりにも凡庸な姿に驚いて、私は言葉を失ってしまった。


「初めまして。何てお呼びしたら良いかしら?」


 そう言う声すらも、耳に染みることなく掻き消えていく。

 中肉中背、目鼻立ちは悪くないが良くもない。胸や尻、手足にも特筆すべきところはない。肩ほどまで伸びた髪の色艶いろつやも人並みである。強いて言うならば、モスグリーンの地味なワンピースがやけにしっくりと似合っていた。バーカウンターに座っている姿は決して主役には成り得ず、背景でしかない。

 こんな女の為に、我が親友の前途は閉ざされたと言うのか。


「……ササキだ」


 私は苦々しくも偽名を名乗った。それがこの場での規則ルールだと言うのだから仕方無い。


「よろしくね、ササキさん。あたくしのことは、お好きな名前でお呼びになって」


 その人懐こそうな笑顔が、しゃくさわった。




 此処は所謂いわゆるミツ倶楽部クラブと呼ばれる怪しげな社交場であった。何処にも住所を公開しておらず、会員の紹介が無ければ入ることはできない。本名などプライバシーに関わるものを言ったり尋ねたりすること、揉め事は御法度ごはっと。見聞きしたことは他言無用。なんとも卦体けたいな場所である。

 そんな処であるから、辿り着くまでにも散々苦労をした。親友の部屋をさがしし、燐寸マッチ箱に書かれた店から彼の足取りをさかのぼり、お天道様の下を歩けぬようなやからにも金を渡し、ようやくこの女を見つけたのだ。この、有り触れた女を。


「ねぇ貴方、あたくしに会いに来てくださったんですって?」


 女は大して魅力的でもない瞳で上目遣いに言った。


「そうだ。篠原という男と恋仲だったろう」


 私が親友の名を出すと、女はしいっと人差し指を自らの唇に当てた。


「駄目よ、ササキさん。それってその人の本名でしょう」

「じゃあどう呼べと言うのだ。うむ……そうだ、ふた月前まで付き合っていたはずだ」

「フフ、あたくし誰とも付き合ったりなんかしなくてよ」

「なんだと、そうやって私の友をないがしろにしたのか!」


 思わず声を荒らげた私に、フロアの連中の視線が集まる。それに対して「何でもないのだ」と言う風に、目の前の女が愛想の良い笑顔を振りまいた。


「ねぇほら、追い出されたくなかったら、もっと楽しいお話をしましょう。いま此処に居るのは、貴方とあたくしなのだから」


 ヒソヒソと女が囁く。


「しかしだな、私はこの話をする為にわざわざ此処まで……」


 篠原は私にとって無二の友であった。共に医大へ通う学生であり、奴の方が私よりも成績は優れていた。それがふた月ほど前から何やら勉学は上の空で、教授に叱責される始末。おかしく思って話を聞けば、或る女に夢中なのだと言う。私は馬鹿らしくなり「程々ほどほどにしておけ」とだけ言っておいたのだが、来るはずの授業でしばらく姿を見ない。連絡してみたが応答しない。心配になり家に行ってみれば、鍵もかけないまま「ミヤコ、ミヤコ」と、譫言うわごとを言うばかりの廃人になっていたのだ。

 その「ミヤコ」が、この女であるはずなのだが。


「嗚呼、思い出したわ。貴方のお友達ってもしかして、あたくしをミヤコって呼んでいたかた?」

「おい、本名は駄目なはずじゃ」

「だってミヤコだって、あたくしの本名なんかじゃないんだもの」


 女はクスクスと可笑おかしそうに体を震わせた。


「言ったでしょう、『お好きな名前でお呼びになって』って。でもおかしいわ、その方の為にどうして貴方が此処へ来たの?」

「……私の友を駄目にした責任を取らせる為だ」

「責任? どんな? 確かに貴方のお友達とは遊んだことがあるけれど、『ずっとそばに居てあげる』なんて、あたくし絶対に言わないもの」

「あれは優秀で、気持ちの良い人間だった。並の色恋であんな風になる訳はないのだ。余程非道ひどいことをしたのだろう」

「そうだとして、お友達自身があたくしに責任を取らせたいっておっしゃったの? 違うでしょう。それってつまり──」


 女の平凡な手が、テーブルの上に握った私のこぶしの上に重なった。


「貴方があたくしに会いたかったのよ」


 そう言うと、女は獲物を見定めるかのように目を細めた。女のまとう空気が急になまめかしさを帯び、甘い匂いすら漂ってくる気がした。背筋がぞくりとして、これ以上この女に関わってはならないと、頭の奥で警鐘が鳴る。何故。何を恐れるというのか。


「だからあたくし、貴方に見えるところで尾ひれをひらひら振って差し上げたの。貴方があたくしのところへ来られるように」


 何故。私はこの手を振り払うことができないのか。


「あたくしはね、人の心の内の内、底の底にこびりついて離れない、そんなものが好きで仕方がないの。その為ならあたくし、何にだって成れるわ」

「……なに、何を、言っている」


 私の絞り出した声は、女を余計に楽しませただけであった。女の両手が伸びてきて私の頬を包み込む。接吻せっぷん間際まぎわのように。


「貴方の奥底を、あたくしに見せて」




 情けないことに、私の記憶はそこで一度途切れてしまった。気づけば秘密倶楽部の入った雑居ビルの前に立ち尽くしていたのである。念のため財布を見ると、酒二杯分ほどの金が無くなっているので、勘定は済ませたのであろう。

 こんな街の真ん中で、私は狐にでも化かされたのであろうか。あの女の言葉は覚えているのに、ついさっき見たはずの顔も思い出せない。何一つ印象に残っていないのだ。本当に、何一つ。

 かく、ひどく疲れていた。私はひとまず考えるのをやめ、帰路に就いたのであった。






 明くる日、私はぼんやりと授業に出席し、ぼんやりと下宿へ戻った。同じく近所に下宿していた篠原は、休学して実家へ戻されてしまった。また置いて行かれたな、などと悲観的ペシミスティックな考えが頭をもたげてくるのを振り払い、玄関の戸を開けた。


「ご機嫌よう。……いいえ、お帰りなさい、と言うべきかしら」


 誰もいないはずの部屋に、見知らぬ女が一糸纏わぬ姿で立っていた。


「だ、誰だ! お前はいったい、誰なのだ!」

「嫌ね、わかっている癖に」


 見覚えのない女には違いなかった。けれど本能的な部分で私はわかってしまっていた。彼女は昨日会った女であると。

 しかし理性は必死に否定する。


「お前が、こんな姿のはずはない……」

「仕様のない人ね。じゃあ聞くけれど、貴方、あたくしの目が一重だったか二重だったか、髪の色が黒だったか茶色だったか、ちゃあんと覚えていて? 覚えていないのなら、やっぱりこれがあたくしなのよ」

「詭弁だ。そんなものは」

「それではいけない? ほら、この手を見て」


 そう、何よりもその手が問題なのだ。すらりと伸びた腕の先、きゅっとくびれたように薄い手首。青い静脈が幾本か透ける白い甲。それでいてふっくらと肉感のある手のひら。五指ごしの形の完璧さと言ったら無い。中指を頂点としたそれぞれの長さ、親指と小指の対比、控えめに寄り添う薬指。

 それは私にとって、あまりにも理想的な手であった。


「あたくし、貴方を気に入ったわ。だから今は、『貴方の為のあたくし』なのよ。さぁ貴方は、あたくしを何て呼ぶの?」


 私は彼女の、彼女の手の魅力に抗えなかった。今すぐにも縋りつきたい衝動を抑えながら、私は震える声で彼女を呼んだ。


「……百合絵ゆりえ


 百合絵はほっそりとした両手を合わせて、嬉しそうに微笑んだ。


「素敵。綺麗な名前ね」

「白百合の花は、女の手が手招きする姿に似ている」

「フフ、詩人なのね貴方。じゃあ貴方のことは何て呼んだらいいの?」

「……京介、と」

「京介さん、ユリエはここよ。ユリエの手は、貴方の為にあるのよ」


 百合絵が細腕を私の方へ差し出した。私はよろよろと彼女の前に膝を着いて、その手に額を擦り付けた。温かく、柔らかい。脈動している。この手には血が通っている。百合絵の両の手の甲に、私は接吻した。


「舐めても、良いだろうか」


 私の消え入るような声の問いに、百合絵は「いいわ」と優しく答えた。


「今は貴方の為のユリエだもの。いちいち断らなくったって良いのよ。何だってしたらいいわ」


 それを聞いた私は、まず右手の親指を吸った。舌先に触る肌はなめらかで、それが少しずつ私の唾液に濡れていく。指先から少しずつ口へ含んでいくと、肉厚な指の腹がゆっくりと歯の裏を撫ぜた。私はズズ、ズズ、と水音をさせながらそれをまた吸う。終わりに指先を唇でみ、次は人差し指。親指に比べて細くともしっかりと筋肉の張りのある人差し指。私が舌を絡めると、弄ぶようにくるくると口内を逃げ回る。口の外へ出ようとするのを、甘噛みして引き留める。指の皮がふやけぬ程度に舐めあげて、ようやくこれを開放する。一番長い中指に、何度も唇を落としながらねぶる。しかしもはや辛抱堪らずしゃぶり付く。指の付け根まで飲み込んでしまえば、指先が喉奥をトンと軽く突く。口の端からだらしなく唾液を垂らしながら、私は喘ぐ。爪の先が上顎を執拗に撫ぜるうち、私は達してしまった。


「京介さん、貴方って本当に面白い」


 白い肌をほんのりと火照らせた百合絵が、熱っぽく言った。




 それから私と百合絵は、何度となくまじわった。百合絵の最も素晴らしいところは手なのだが、伏し目がちで涼やかな目や、上等な白磁の器のようにつるりと丸い乳房や、何もかもをとろかす甘い声など、魅力を挙げれば切りがなかった。百合絵の女陰と、手の中と、どちらへ吐き出した精が多いのだか、私にはわからない。「その可愛い指を折っても良いか」と尋ねても、「血の出るほど歯を立てても良いか」と尋ねても、百合絵は「いいわ」と答えた。私が懇願すれば、百合絵はその手で私をち、しごき、撫で、犯し、締め付けた。

 私と百合絵は、一緒に出掛けることもあった。白いブラウスに空色のスカートだとか、薄桃色の小紋こもんだとか、着飾った百合絵も良いものだった。


「本当のことを言うと、私は医者になりたくなどないんだ」


 或る晩、人気ひとけのない公園のベンチに座り、私は百合絵の肩を抱きながら呟いた。


「父が医者だからという、ありきたりな理由さ。内科の開業医なんざ、誰が継いだって同じものを。それに医学部には、篠原が居た」


 何故だかこの夜の私は、全てを打ち明ける気分であった。頭上に広がる星空がそうさせたのかも知れない。隣の百合絵が静かに、何かを待っているように見えたからかも知れない。あるいは、どちらも。


「私にとって真に友人と呼べるのは篠原だけだったけれども、やつには他に沢山居た。あれは医師を本気で目指す男だった。そうしていつも私より少し上の成績を取った。それをおごらぬ人物だった……いつか、何でも良い、篠原を打ちのめしてやりたかった。しかしそれをやり遂げたのは、私でなくミヤコという女だった」

「だからあたくしに会いに来てくれたのね」


 百合絵は嬉しそうに言った。私は懺悔するように、彼女の白い手を取って口付けした。


「責任を取らせようと思ったのも本心さ。篠原は実際、大事な親友だったのだからね」

「大丈夫、ちゃあんと分かっているわ……ねぇ京介さん、貴方、医学よりもやりたいことがあったのでしょう」

「ああ、英文学。しかしとても食っていけないと止められてね」


 私がそう言うと、百合絵はベンチからパッと立ち上がり、花壇の花を一つ手折たおった。


「‘これがまんねんろう、あたしを忘れないように――ね、お願ひ、いつまでも――お次が、三色すみれ、ものを思へといふ意味。’」


 百合絵に差し出された小さな花の名を、私は知らない。けれど彼女の科白せりふには覚えがあった。


「驚いたな、オフィーリアか」

「そう、シェイクスピア。それともディケンズなんかの方がお好き?」

「いや、好きだよ『ハムレット』は。ただ百合絵とこんな話ができるとは思わなかったものだから」

「だってあたくしは、貴方の心を映しているのだもの」


 百合絵はそう言って、私の手を握った。互いの指を絡め合う。側面を擦り、水かきを撫でる。まるで鏡に向かい合っているように、私たちは呼応する。

 と突然、百合絵は高らかに笑いだした。それは狂ったオフィーリアにも、マクベスの魔女にも見えた。


「ユリエは京介さんの為に在るのだけれど、決して貴方のものにはならないの。その代わり、貴方の心の内の内、底の底に、あたくしを刻みつけてあげるの」

「急に、何を」


 私は長らく忘れていた不安という気持ちを思い出した。途轍もなく嫌な予感がした。

 百合絵は動揺する私の頬を、空いている方の手で包み込む。


「この手を、ユリエを、ずっとずうっと愛していてね」






 出会った時と同じように、百合絵は唐突に居なくなった。私は公園のベンチに、たった一人で座っていた。


「百合絵」


 名を呼んでも、彼女は応えない。最早もはやこの世の何処にも百合絵が居ないのを、私は悟った。けれども私の膝の上には、百合絵の摘み取った名も知らぬ花が横たわっている。


「百合絵!」


 私の心にはもう、百合絵が深く根を張ってしまった。彼女を知る前の私には戻れない。

 女を見る度に、人の手を見る度に、白百合を見る度に、性交する度に、シェイクスピアを読む度に、鏡を見る度に……私は百合絵を想うのであろう。


「百合絵、百合絵……」


 私はみっともなく百合絵の名を呼ぶ。百合絵が最後に触れた頬に自らの手を遣る。私の不格好な手に、ただ涙が伝うだけであった。

 

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