マイ・ギフト(2)

「――何かもう、発想がいかれてるんだよね」

 やや遠回しに「抱かせてほしい」と願った時、心底呆れた顔をしてこう返したシィラが、何だか嬉しかった。どんな言葉でも、どんな態度でも、シィラが私だけに向けているものだと思うと、どうしようもなく胸が高鳴る。この人が好きで堪らないと、改めて実感した。

「別にいいけどさ」

「え、まじで」

 正直、承諾されると思っていなかった。拒絶されるだろうと思っていたから、此処から少し食い下がって「キスだけ」とかハードルを少しずつ下げていって、最終的には抱き締めるとか手を繋ぐだけでも出来たらラッキーだと思っていたのに。まさか全部を許してくれるってこと? 歓喜すると同時にめちゃくちゃに興奮している私を、どうか気付かないでいてほしい。

 欲は、惹かれた最初の頃からあった。遠くから眺めているだけのくせに、ふとした時に分かる身体のラインにいちいちドキドキしていたし、シィラが操縦席の後ろを薄着でうろうろしてるのを見付ける度に「誰の目があるか分からないでしょ!」なんて呟き、まさにその『目』である自分を高い棚の上に放り投げてじっくり眺めたこともある。

 学生の時分、言い寄ってきた男や女に触られたり触ったりもしたけれど、結局大した興味は湧かず、私の欲はシィラにしか向くことは無かった。

「痣、痛くはないの? 触って平気?」

「何ともない。見た目だけ」

 シィラの言葉にほっと息を吐きながら、痣の浮かぶ肌を撫でる。見た目なんてどうでもいい。シィラが痛かったり苦しかったりしないなら、それでいいと思った。シィラはこれが私に移ることを懸念していたみたいだけど、むしろ移してほしいなと思いながら執拗に触れる。だっておそろいの痣があったら、死ぬとき、嬉しいかもしれない。

「ねえ、シィラ」

「うん?」

 呼び掛けたら確かに返る声が嬉しい。身を寄せ合っているから、すぐ傍から、何なら耳元でシィラの声が聞こえる。身体中を満たすような幸福感に少しだけ震えた。

 行為を進めながら、沢山話をした。今じゃなくていいような話。何でもない話。私が話し掛けたら、シィラは不思議そうにしながらもちゃんと応えてくれて、そういうところも好きだなって、何年もこの人を想っていたのに新しい好きなところを発見する。

「物足りなかったり、する?」

「……何が?」

 私の言葉に問い返しつつ、シィラは手の平で自分の額を撫でていた。浮かぶ汗がくすぐったいのだろう。彼女の手を退けて、代わりに拭った。今までほとんど話す機会も無く、好奇心で抱きたいと迫った人間にしては気安い行為だったが、シィラは特に不快そうな顔をしなかった。まるで受け入れるみたいに、私の背に手を回してくれる。こんな行為の中、一つ一つの触れ合いなど今更と思っているだけかもしれないけれど。

「シィラ、女と寝るの初めてかなって。男とは、違うでしょ」

「ああ」

 私の質問を理解した様子で返した相槌は、すぐに途切れる。私が手を止めないせいだ。でも別に意図して言葉を止めさせたわけじゃなかった。触っていたくて、どうにも気が逸ってしまう。今度こそちゃんとシィラが言葉を続けられるようにと手を止めると、整えるみたいにシィラが大きく呼吸した。

「優しいから、気持ちいいよ」

 頭の奥がぐらりと揺れた。シィラはきっと、その言葉の破壊力を何も知らない。あくまでも淡々と、事実を述べるみたいにそう言った。

「男は何か、自分のことに夢中になってる感じだったかな」

「ハハ! それはちょっと私も、覚えあるなぁ」

 笑ったお陰で正気を保てた。男が皆そうってわけじゃないのは分かっているけれど、『興味本位』で触れたがるような男は大体がそうだろう。女を愛したいわけではなくて、ただ、女の身体でセックスしてみたいだけ。途中からは女の反応なんて見ちゃいない。「何か盛り上がってんなぁ」と、相手が満足するまでを眺めた覚えが私もある。シィラも似たようなものだったらしい。その頬に一つ、口付けを落とす。

「今が良いなら、嬉しいよ」

 つまらないとか、物足りないと思わせる時間でないだけでも充分だと思ったのに。気持ちいいとまで言ってもらえたら、嬉しいなんて言葉じゃ本当は少しも足りないのだけど。私が触れる度に震える吐息とか、漏れる声が、その言葉を貰う前と全然違うものに変わる。ぞくぞくと背中から痺れるみたいな感覚が湧き上がった。

「シィラ」

「ん」

「名前さ、呼んでよ」

「……ゼナ?」

 すんなりと応じて私の名前を呼んでくれる。可愛い。嬉しい。シィラが、その声で、私の名前を呼んでくれてる。感情が昂って手が震えてしまいそうだ。この幸福を受け止めて噛みしめながらも、やや誤魔化すように私は口を動かす。

「してる時、名前呼ばれるの気持ちい」

「よく分かんないけど」

「えー」

 全く理解できないと言わんばかりに私の腕の中で首を傾けているシィラに、不満を訴えるような返事をしつつも笑ってしまう。何だかそういうところ、シィラらしいなと思った。だけど呼ばれたいのも本心なので、「そんなこと言わないで」と、もっと名前を呼んでくれるようにねだってみる。シィラは理解できない顔をしつつも、煩わしい顔じゃなかった。

「何しに呼べばいいの」

「目的は無くていいよ、適当に」

「適当って。……気持ちいい時とか?」

「それ最高じゃん。採用」

 最高すぎるでしょ。本当に理解できていないの? もしかして実は全て理解の上で私を弄んでいるのでは? そう思いたくもなるくらい、私にすら思い付かないほどの嬉しい提案だった。一秒後までは。

「逆に全く呼べなくなったりして」

「ちょっと? 傷付くんだけど」

 一気に項垂れてシィラの肩に頭を埋める。そりゃ確かにさ、気持ち良かったら呼んでくれるってことは、イコール気持ち良くならなかったら呼ばれないってことだけどさ。さっきは気持ちいいって言ってくれてたのに酷いよ。口元を一文字に引き締める私に、シィラが微かに肩を揺らして、くつくつと笑っていた。笑う顔もあんまり見ないから、嬉しいけど。

 気を取り直してシィラの身体に触れ、キスを落とす。背中に回っていたシィラの腕にちょっと力が籠って、可愛い声が漏れ始める。シィラが身体を捩って、シーツが引き攣れる。そんな一つ一つが私の身体の奥に熱を持たせ、話から私の気が逸れた瞬間だった。

「ゼナ」

 ついさっき、求めて呼んでくれたのとは全く違う、甘い声。震える吐息に紛れて、シィラが私を呼んだ。顔を上げたら、シィラは目尻を下げてちょっとだけ意地悪な顔で笑った。私も笑い返したけど、ちょっと情けない顔だったと思う。

「……たまんないな」

 頭の奥から沸騰しそう。また深くシィラに覆い被さって、首筋に噛み付くようなキスをした。

「シィラ」

 好きだよ。大好き。可愛い。欲しい。全部ほしい。

 今にも口から零れて出てしまいそうだった。呼ぶだけで、全部の感情が乗ってしまっている気がした。だけどシィラは何も言わないで、私が触れるほど、名前を呼ぶほど、またさっきみたいな声で私を呼び返してくれた。背に回した腕の力を強めて私を抱き返してくれた。

 夢みたいな、時間だった。

 陳腐な言葉だと思うけど、そうとしか言えない。

 色んな欲を押し付けた気がする。身体だけじゃなくって、話をしてもらえることも、名前を呼んでくれることも。今までは遠くから見ていただけで、それで満足だって言い聞かせて押し込め続けた欲。それを今更になってぶつけてしまった。シィラは、受け止めてくれた。何も知らないままで。

 私は何度も何度も触って求めて、シィラがうとうとし始めたところで、ようやく手を止めた。元々、疲れていた人だ。あんな行為のついでにもう少し深く、長く眠ってくれたらいい。そう思いながら私はシィラにお礼と別れを簡単に告げて、自分の機体に、そして配属エリア帰った。

「あー、……幸せ」

 記憶を頭の中で反芻しながら、自分の機内で一人呟く。数日間こんなことを繰り返していた。

 私の人生は、彼女と出会ってからずっと、全部が、シィラだった。

 ゆっくりと操縦桿に身体を預ける。もう、起こすことは出来ないだろう。身体中の筋肉が力を失くしていくのが分かる。それでも私は顔を外に向けて、シィラを眺め続けた。ギフトはまだ、使えるらしい。

 隣でシィラが手を握ってくれているわけでもないし、愛し愛されたわけでもない。ただ一方的な思いで、私だけが愛していた。なのに人生が途絶える瀬戸際でも、私の目にはあなたが見える。

 この目が『ギフト』と呼ばれた意味を、今、最も強く感じている。

 瞬きをする度に、視界が少しずつ、白んでいく。死ぬ時は、黒い宇宙に落ちていくような闇を味わうのかなと、漠然とそんなイメージを抱いていたけれど、実際の死はもっと明るかった。光に包まれるみたいに白くなって、白の中に、シィラが溶けて、見えなくなった。

 生体反応が無くなったことを本部へと知らせる音が、耳の奥に響く。どうしてそれを私の耳が捉えることが出来たのかは、よく、分からない。


 白、それ以外何も無い空間で、私は一人座り込んでいた。此処が何処かは分からないのに、ずっと前から知っているような、妙な感覚だった。此処は所謂『死後の世界』なのだろう。いや、中間地点なのかな。何となく、私は此処からまた違う場所へ行かなきゃいけないと分かっていて、それでも、動かずに座り込んでいた。お腹は減らない。喉も渇かない。特に眠くもない。だから此処で、気が済むまで、何年も何十年も座っていられる。まだ此処から動きたくないって、そう思っていた。

「……何してんの、ゼナ」

「え?」

 影が無い世界だったから、私のすぐ傍に人が立ったことに気付かなかった。視線を動かして初めて、自分と同じブーツを履く人の脚を見付け、慌てて顔を上げる。声を聞いて「もしかして」と思っても、「まさか」と思う気持ちの方がずっと大きくて、その姿をこの目で確かめても、信じられなかった。

「う、嘘、シィラ!? は、早くない!?」

 私は慌てて立ち上がる。勢いに驚いたのか、私を見下ろしていたシィラはちょっとだけ仰け反っていた。それでも表情は大きく変わらない。何処からどう見ても私の知るシィラの姿で、信じられない気持ちは、強まるばかりだ。

「いや、でも、時間軸はどうなってるんだろ、違うのかな」

 実際は私が此処で感じていた時間の経過よりずっと早い速度で過ぎていて、既に『何年』とか『何十年』とか経ったのだろうか。まるで独り言みたいに呟くけれど、シィラは少し視線を落として、低い声で答える。

「そんなこと私も知らないけど。あんたが死んだって連絡が入ったのは、昨日だよ」

 答えるシィラが不機嫌に見えたことに、私は意識が行かなかった。此処にシィラが居るってことは、シィラも死んだってことになる。私が衰弱死して、翌日にシィラが死んだ? 私の驚きを理解しているのだろうに、シィラは私から視線を外して、何も言ってくれない。

「どうして? シィラはまだ、衰弱なんて、全然」

 彼女の身体は直接触れたんだから、間違いない。まだまだしっかり筋肉が付いていて、痩せ細ったりはしていなかった。痣はあったけど、衰弱には程遠い。それとも衰弱とは別に、やっぱりあの痣は別の形でシィラを蝕んでいたんだろうか。そんなことを考えていたのに、シィラの返答はそれを否定した。

「別に。敵にぶつかったんだよ。痣は無くなってるけど……私の顔、焼けたりしてる?」

「してない、綺麗なままだよ、でも」

「ならよかった」

 何でもないことのようにシィラが言うけれど、私はとても信じられない。シィラの高い能力は機銃の扱いだけじゃない。運転技術も含め、宇宙警備に関する全ての成績がダントツの一番だった彼女が、そんな事故で亡くなってしまうなんてとてもじゃないけれど信じることが出来ない。呆然と見つめていれば、シィラはようやく顔を上げて、私をじっと見つめ返す。それから、微かに目尻を緩めた。

「あんたに置いて行かれるの、嫌なんだよね」

「え?」

 その言葉の意味を考えるよりも先に、シィラは歩みを進めた。そして私の前を通り過ぎていく。

「だから丁度いいや。先に行くわ」

「は? ……え!? ちょっ、待って」

 私が此処でずっと『行かなければ』と思っていた方向へと、シィラは迷わずに進んでいく。私を、追い抜くようにして。背中を追って私も慌てて足を進めたのに、どうしてか、追い付くことが出来ない。世界は白くて、歩いても歩いても、前に進めているのかよく分からない。ただ、追い掛ける背中が近付かないことだけが分かった。シィラが歩いて行く。此処にある白よりももっと眩しい光の方へ。一瞬だけ、シィラは私を振り返った。

「後から来て、また見付けなよ。目、良いんでしょ」

「待ってシィラ、どういう――」

 あまりにも眩しくて、表情が見えなかった。見えなかったのに、シィラは笑っていた気がした。引き止めようとして手を伸ばしながら、眩しさに目を瞑る。精一杯に伸ばした手はただ、空を切った。


「……あ?」

 ピピピ、ピピピ、と短い間隔で電子音が鳴り続けている。私の手は見慣れた天井へと伸ばされているが、何をしようとしたのか、まるで思い出せない。しばらくしてから、鳴り続けているのが目覚ましのアラームだと気付き、慌てて枕元へと手を伸ばした。

「あれ……? 何の夢、見てたんだっけ」

 妙な倦怠感を覚えながら身体を起こす。カーテンの隙間から入り込む朝日に、夢で見た何かを思い出しそうになるけれど、霧散していった。

「ちょっと、そろそろ起きなさい、今日は入学式でしょう?」

 二度寝しそうになったところで部屋の扉が開かれて、母が面倒臭そうに声を掛けてきた。あー、そうだ、そうそう、今日は高校の入学式。初日から遅刻するなんて笑えない。「分かってるー」と返し、一瞬忘れていたことは言わずに身体を起こした。早く朝食と身支度を済ませなければ。脚に巻き付いているシーツを引き剥がして、私はベッドから下りた。

 起き抜けだけ少し慌ててしまったが、大きな寝坊も無く起きることが出来たから、途中からゆっくりと支度を進めた。そして仕上げに、初めての制服に丁寧に袖を通す。ベージュのブレザーはちょっと上品すぎて私には似合わない気がするものの、落ち着いたデザインは可愛いから気に入っている。ブレザーの中に巻き込まれた長い髪を、まとめて引き抜いたら、一瞬だけふわりと宙に浮かんだ。まるで無重力の中に浮かせたような光景に、何か既視感を覚える。けれどその正体を掴むことはやはり出来ず、時計を見上げた私は鞄を持って慌てて家を出た。

 入学式で見付けた姿に、その理由の全てを思い出すなんて、この時は、何も知らないでいた。

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