浮雲とビー玉
律
第一話 雲もつかめない手
彼の手首は細かった。
運動部に所属していた彼だったが、それは室内で練習が行われるバレー部だったというせいもあってか、全く日焼けしていないので細い上に白かった。
教室の蛍光灯の下では、その白さがさらに際立っていた。
うつくしい、と私は思う。
そして彼がそのうつくしい白い腕にシャーペンを突き刺す様子は、もっとうつくしい。
勢いをつけ、彼は躊躇なくペン先を腕に刺す。
尖った先端は易々と皮膚を破る。
真っ白なキャンバスに赤い絵の具を落としたように、ぷくりとした小さな血のかたまりが彼の腕に点々と模様を作っていく。
私はいつも綺麗なビー玉を手のひらで転がしながら、それを眺めていた。
うつくしいものがこの世に存在している。
それだけで生きる価値はあると思わせてくれる。
誰もいない教室で私たちはいつも目に見えない傷を抱えながら、寂しさを埋めるように一緒にいる。
彼の自傷癖はここ数週間の間、つまり高校に上がってから始まったものらしい。
中学では一言も言葉を交わさなかったが、席は隣だったので、その頃はまだ彼がこのような行為をしていないことは明らかだった。
もしその時彼の腕に傷があり私がそれを見つけていたならば、彼とのこの関係はもっと早く始まっていただろう。無責任で不毛で名前のつけられない、妙に居心地のいい関係。
「夏服になったらこの腕どうしよっかな。」
血だらけになった自分の腕を恍惚と眺めながら彼は言う。
自分でつけた傷の周りの皮膚は赤く変色している。
「包帯とか巻けばいいんじゃない。バレーの練習しすぎとか言ってさ。」
言いながらビー玉を制服のポケットに入れ、彼の傍に寄る。
すっかり傷まみれの腕を見せてもらう。
やっぱり、きれいだ。
「左だけ巻くって変じゃね?ていうかバレーは中学で辞めたし。」
「じゃあ右も巻けばいい。そろそろ帰ろう。見回りの人きそう。」
そう言って私は彼の左腕を軽く叩く。
彼は痛ってぇ、と嬉しそうに笑う。
私もつられてけらけら笑う。
通学鞄を持って席を立つ。
教室の扉を閉め廊下に出ると、外はもう橙色になっていた。
白い浮き雲を、沈みかけの太陽が淡く美しく染めていく。
不意に思いつきで、浮き雲を「憂き雲」と頭で変換してみる。
不安げに漂い、太陽という強大で変えられないモノに染められていくあの雲は、まるで私達みたいだ。
いや違うな、と自嘲する。
どうせ、あんな雲にさえきっと私はなれないのだ。
あの雲は美しいだけで、それだけで価値がある。
私にはない。
ああいう美しいものを掴む握力すらない。
子供の時に持っていたはずの大事なものを、いつしか全て失ってしまった気がする。
ふと尾崎放哉の俳句を思い出す。
「入れものがない両手で受ける」
雲さえ掴めなさそうな私の手は、これからも、何もかも取りこぼしていくばかりなんだろう。
まさに雲をつかむような人生だな、なんて考えて、馬鹿らしくなってくる。
窓から目を離し、一階の下駄箱に向かってゆっくりと歩きだす。
「あー、帰りたくないな。」
歩きながら、私の少し後ろにいる彼が聞こえるか聞こえないかわからないくらい小さな声でつぶやく。
私もだよ。
心の中でつぶやく。
春の夕方の匂いがする。
暖かな風が、開いた廊下の窓から吹き付け私の髪を撫でた。
それだけで、なぜか泣いてしまいそうになる。
彼も、きっと同じだ。
私たちは一緒にいても、孤独には変わりなかった。
自分の抱える問題を、その苦悩を、その痛みを、うまく表現できない。
救いだけが欲しい。
助けの求め方もわからないまま、安易に助けを求めてはいけないような年齢になってしまったな、と思う。
彼と一言も交わさないまま、下駄箱に到着する。
靴を履き、校門を出る。
外での部活を終えた生徒が次々と校舎へ入っていく。
私は彼に
「じゃあ明日また。」
と言い背を向ける。
教室を出るのも、背を向けるのも、いつも私が先だった。
「またな。」
背中で彼の声を聞き、帰り道を歩きだす。
少し歩くと、私は振り返る。
そして反対方向に進んだ彼の背中を確認する。
私より10センチ以上はある背丈も、それなりに広い肩幅も、バレーで鍛えられた腕や足も、なんの役にも立たないのだな、と私は思う。
彼自身にとって何にも。
彼の目に見えない傷も、心の中も、私は何も知らない。
彼も私のことを、何も知らない。
お互いがお互いのことを知ろうとしないのだ。
でも、この関係が心地いいと思う。
無責任で、不毛で、名前のつけられない関係。
自傷癖をするクラスメートとただその行為を見て、会話するだけ。
唯一、笑える時間だった。
この関係を、友情とか恋愛とかそういったものに結びつけるには、
私達はあまりに孤独すぎた。
浮雲とビー玉 律 @kobunasui
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