Vector to the Heavens
棗颯介
Vector to the Heavens
「———どうして」
「どうして、置いていくんだ」
「どうして、一人ぼっちにするんだよ」
「お姉ちゃん……っ!」
雨。雨が降っている。とめどなく。
あれはいつだったろう。空から降りしきるその雫は、まるで天へと続く梯子のようで。でもお姉ちゃんは、『梯子よりも階段の方がいいよ』と言った。
どうして、とオレが尋ねると、お姉ちゃんはいつも通りの笑みを浮かべて答えた。
「だって、梯子は手が滑ると危ないでしょ?」
よく分からないけど、お姉ちゃんがそう言うのならそうかもしれないと、オレは思った。
***
「
学校で給食を食べ終わった後の昼休み。クラスメイトの
「なに、藤村」
「えっと、特に用事はないんだけどね」
「用事がないなら無理に話しかけなくていいよ」
「でも……」
そう口ごもる藤村を見て、オレは人目を憚らず盛大に溜息をついた。先生も本当に余計な世話を焼いてくれたもんだ。
オレのお姉ちゃんが“いなくなった”のは、今からざっと三週間前のことだった。それを知ってか気にしてか、オレに元気がないと思い込んだ担任が面倒を見るようにと頼んだのが、同じクラスの藤村だったんだ。それ以来何かにつけてオレの後をついて回っているんだけど。
———どう考えても人選間違えてるだろ、先生。
元々藤村はクラスでは控えめで、時々同じクラスの女子から悪戯をされたり陰で邪険にされているような奴だった。当然友達も少ないし、もちろんオレと藤村は特別仲が良いわけでもない。
クラスで弱い立場にいる藤村なら、オレの気持ちに寄り添えるとでも思ったのかな。
「じゃあ、オレ行くところあるから」
「あっ、待って凪くん!」
後ろから藤村が駆け足で追ってくる音が聞こえるが、オレは無視して廊下に出て、そのままいつも通り図書室に向かう。
今のオレには、やらなくちゃいけないことがあるんだ。
「…………」
「…………」
図書室は私語厳禁。まだやんちゃな下級生ならともかく、オレや藤村のような六年生なら特に理由もなければ図書室で大きな声を出したりするようなこともない。だから健気に後をついてきた藤村も、今はオレの向かいの席で黙りこくっているわけなんだけど。
———視線が気になる。
藤村は本棚から持ってきた本に見向きもせず、ずっとオレを見つめている。何か言わなければならないことがあるけどどう伝えればいいのか分からない、伝えたくてもここは図書室だから声を出すわけにもいかない、どうしよう。とでも言いたげな不安と焦りの色が藤村の顔に滲み出ていた。
———あぁ、クソ。気が散って仕方ない。
オレは読んでいた本を閉じると、貸出カードにタイトルを書いて受付にいる図書委員にハンコを押してもらった。そもそも短い休み時間に図書室で調べ物をするのは非効率だろう。家に持って帰ってじっくり読めばいい。
そのまま借りた本を小脇に抱えて図書室を出た。廊下へ一歩足を踏み出したところで、出たばかりの図書室をもう一度振り返る。
「…………はぁ」
この数日ですっかり見慣れた茶色いツインテールを確認し、本日二度目の盛大な溜息をつく。今度の溜息は、さっき教室で吐いたときよりもさらに大きいボリュームになった。わざとらしいくらいに。
「藤村」
「な、なに、凪くん?」
「さっきも言ったけど、別に無理してオレの後追ったりしなくていいから」
「で、でも私、先生から凪くんのこと……」
「オレはもうすっかり元気になりましたって、今度先生に言えばいいよ。藤村だって毎日オレについて回るの面倒くさいだろ?」
「べ、別に私そんなこと———」
悪い奴ではないのだが、イマイチ歯切れのよくない物言いをする藤村との会話に徐々に嫌気が差してきて、オレは彼女の返答を最後まで聞き終えることなく廊下を歩き出した。
少し遅れて、藤村がオレの後を追って小走りで駆け寄ってくる音が聞こえる。その足音には申し訳なさすら感じられた。
「な、凪くんっ」
「んー?」
「凪くん、地理、好きなの?」
「なんで?」
「借りてたその本、地理の本でしょ?」
「あー、まぁ、うん」
なんというか、人付き合いの苦手な藤村なりに頑張って話しかけていることがなんとなく伝わってきた。
でもその次に彼女が口にした質問は、今のオレには絶対に聞いてはいけない質問だった。
「どこか、行きたいところとか、あるの?」
藤村にそう聞かれて、オレは廊下のど真ん中に立ち止まる。ちょうど廊下の向かいから、どこかのクラスの給食当番が使い終わった食器を乗せた荷台を運んでくるところだったけれど、オレはそれすら無視した。
「お前に———」
関係ないだろ。
口汚く、怒気を込めてそう言い放つつもりだった。そう言ってやろうとして後ろを歩いていた藤村を振り返った時、オレはその言葉を咄嗟に口の中に押し留めてしまう。
別に普段と違う何かがあったわけでもない。そこにはいつも通り不安げに、自信なさげにオレを見るツインテールのクラスメイトの姿があっただけだ。藤村のその表情がいつも通りだったから、オレは言えなかった。不器用で覇気もなければ悪気もない女の子に強い言葉を使えるほど冷たいヤツには、オレはなれなかった。
代わりに出てきたのは、今のオレが探し求めているモノの所在。
「———聞きたいことがあるんだけど」
「うん、なに?」
「……【天国】って、どこにあると思う?」
「…………空?」
藤村は一瞬キョトンとした無垢な顔を見せた後、やや遅れてそう言った。
▼▼▼
『お父さん、お母さん、凪』
『私は、みんなと家族でいられて幸せでした』
『でも、ごめんなさい』
『私、やっぱり天国に行こうと思います』
『そうすればきっと、もう寂しくなくなると思うから』
『ごめんなさい』
『本当にごめんなさい』
『先に行って、待ってます』
お姉ちゃんが【天国】に行った日は、雨だった。
その日もオレは小学校から帰ってすぐに家を出て、買ってもらったばかりの携帯ゲーム機を持ってクラスメイトの家に遊びに行っていた。いつも通り友達同士でゲームを楽しんで、お腹が空いた頃に家に帰るとお父さんが仕事から帰ってきていて、お母さんとお姉ちゃんが美味しい夕飯を用意して待ってくれている。そんないつも通りの家族がオレを待ってくれていると思っていたんだ。
でも、その日は違っていた。
待っていたのは暖かい夕食なんかじゃなくて、死人みたいに顔を真っ青にしたお母さんと、血相を変えていろんなところに電話をかけているお父さんの姿。そしていつもならいるはずのもう一人の家族の姿がそこにはなかった。
そこからのことは、あまり覚えていない。
雨が降りしきる夜の町を必死で走り回ったことは、今も朧気ながらに覚えてはいる。
しばらく経った頃に、お父さんとお母さんにある場所へ連れていかれた。町の一角にあった、何もない空き地。強いて言えば、オレの背丈とそう変わらないくらいの高さまで生い茂る雑草がその場所にあった。
二人はその空き地の入り口(塀も柵もなかったから入り口と呼べるものがあったとは言えないが)に見るからに値が張りそうな花束を置いて、肩を震わせて泣いていた。
そんな二人を見て、オレは思った。
———お父さんとお母さんは、どうしてお姉ちゃんを探しに行かないんだろう。
———お姉ちゃんがいなくなって泣いているんだったら、探しに行けばいいのに。
———お姉ちゃんは【天国】っていう所に行ったって、二人は言っていた。
———二人が行かないなら、オレがお姉ちゃんを探しに行ってやる。
▲▲▲
あくる日の放課後、オレはいつも通り家にランドセルを置くと踵を返して外に出た。小学校の入学祝いにお父さんから買ってもらった愛車の自転車に跨り、普段通っている学校とは真逆の方向にペダルを漕いだ。普段先生たちからは、学校の校区外だから子供だけで勝手に行かないようにと言いつけられている場所に。
待ち合わせ場所に到着すると、そこには既に目当てのツインテールがあった。
「あ、凪くん」
「悪い、藤村。待った?」
「ううん、私も今来たとこだから大丈夫だよ」
「自転車で来たのか?」
「ううん、路面電車」
「そりゃ賢明だ」
小学生のオレたちの小遣い事情なんてどこの家庭もだいたい同じだろう。
だから、わざわざオレの都合のために余計な出費をさせてしまったことが、少し申し訳なかった。
「帰り、オレの自転車乗っていく?二人乗りで」
「えっ、な、凪くんと、ふ、二人乗りっ!?」
復路の移動手段について提案してみると、藤村はあからさまに動揺した。心なしか片方しか見えない頬を赤らめているようにも見える。
「というか藤村、その頬っぺた、まだ良くならないの?」
「えっ……?あ、う、うん、ごめんね」
「いやどうして謝るのさ」
「だ、だって……」
どこかで怪我でもしたのか、数日前から藤村は小さな頬がすっぽり隠れるくらいのガーゼを顔の右側に貼っていた。
「家で火傷でもしたの?」
「え……?」
「ん?」
藤村の口から洩れたその言葉は、先程まで口にしていたのとは明らかに意味が異なるものだった。
明確な、疑問。
何を疑問に思っているのか分からず、オレも曖昧に疑問の意を示すしかなかった。質問に質問で返すのは礼儀に反するって、いつだったかお姉ちゃんが言っていた気がするけど、この場合は藤村が何に疑問を抱いているのかが分からないんだから許してほしい。
「あぁ、うん、そうなんだ」
「そっか、お大事に」
結局藤村が何を疑問に思ったのか、その正体が分からないままにオレ達は目的の場所に向かった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
“調べものをするんだったら、学校の図書室よりももっと良いところがあるよ”。
藤村にそう言われてオレ達がやって来たのは、町にある大きな図書館だった。元々藤村は読書好きで、夏休みになると毎年ここの図書館に通って朝から晩まで読書に耽っているらしい。だから、つい最近まで友達とゲームやチャンバラばかりしていたオレとは違ってちゃんと貸出カードも持っていた。
確かに、藤村のその提案はもっともだった。学校の図書室の十倍以上の面積はあろうかという図書館には、比べるのもおこがましいくらいの本の山が、情報の海があった。
———ここでなら、【天国】がどこにあるか分かるかもしれない。
オレがお姉ちゃんのいる【天国】を探していることについて、どうして藤村波音という、大して仲の良くない女子に話してしまったのかは今になっても謎だ。
単に一人で調べるのは効率が悪いと思ったのか、あるいは普段教室の隅で人目を気にして萎縮している少女に同情してしまったのか、健気にいつもオレについて回る彼女に気を許してしまったのか。
よくは覚えていないけれど、結果として藤村はオレに協力してくれるようになったんだから、今はそれでいい。
オレは地理の本棚から世界各国の国や地域を掲載した辞書のように分厚い史料を取り出して、精査するように一枚一枚ページをめくる。【天国】の「て」の字も見逃すまいと。
向かいの席に座っている藤村はというと、どういうわけか大辞泉を読んでいた。
———大辞泉に、【天国】がどこにあるかなんて書いてあるのか?
「……なぁ、藤村」
オレは周りに迷惑にならない程度の声で藤村に声をかけた。
「なに?」
「藤村って、勉強は得意な方だっけ?」
「えっと……凪くんほどじゃないかな」
「……そっか」
それだけ言ってオレは再び自分の本に視線を戻す。
自分で言うのもなんだが、オレはこれでも学年で上から数えた方が早いくらい成績が良かった。はっきり言って天才だと思ってる。だからオレには、頭が良くないヤツの思考とか考え方がうまくイメージできないんだが———。
———まぁ、藤村なりに頑張ってくれてるんだし、あまり気を悪くするようなことは言えないか。
結局その日も、【天国】の場所は分からずじまいだった。
***
それは藤村と一緒に秘密の図書館通いをするようになって、しばらく経った頃のことだった。
その日は図書館通いを始めてから最初の雨の日で、愛車である自転車で図書館で行くわけにもいかず、かといって休みにするのもどこか後味が悪くて、オレは藤村に倣ってなけなしの小遣いを使って路面電車で図書館に来ていた。
その帰り道。往路が電車だったのなら復路も当然電車になる。必然的にオレと藤村は同じ電車に揺られて家路についていた。
「ねぇ、凪くん」
隣の席に座っていた藤村が、徐に話しかけてきた。
「なに?」
「私、凪くんの役に立ててる……?」
「え?」
成果が出ているかどうかと言われれば、未だに【天国】の場所はわかっていないわけで。でも藤村がいなければ、今こうしてオレは図書館に通って毎日調べものに耽ることができてもいなかったわけで。
役に立っているかどうかと言われれば———。
「あぁ、藤村はすごく役に立ってくれてるよ」
「そっか……すごく、嬉しい」
そう言って藤村は嬉しさ半分、照れ半分といった顔をして俯いた。
その仕草を見て、オレは自分の心臓の鼓動がにわかに早まるのを感じた。
———奥手で自己主張が苦手で不器用なヤツだと思っていたけど、可愛いところもあるんだな。
———そういえば。
「なぁ藤村。オレも一つ聞いていい?」
「うん、なに?」
「どうしてこんなに親切にしてくれるんだ?オレ達そこまで仲が良かったわけじゃないのに」
「えっ、それは、その……凪くんのこと…………」
最後の部分は小蝿の羽音よりもか細くて、何を言っているのかこの至近距離でも聞き取れなかった。
「え?なんて?」
「うぅ……」
藤村は何も言えないまま顔をさらに俯けた。俯きすぎてこのまま頭が一回転しそうなほどに。
やれやれと苦笑しながら、何気なく背後の車窓から広がる雨の町に視線を移す。
何の変哲もない、大雨でもなければ小雨でもない、この十二年間で何度となく見てきた極々普通の雨。
まるで———。
———まるで空に続く梯子みたいだね。
———梯子よりも階段の方がいいかな~、私は。
———どうして?
———だって、梯子は手が滑ると危ないでしょ?
そう、お姉ちゃんと話したのはいつだっただろうか。
「空に続く階段、か」
***
ある日の夜。夕食を終えて自室で【天国】について調べていると、お父さんとお母さんに居間に呼び出された。
「何か用?オレ忙しいんだけど」
正直、お姉ちゃんを探しに行こうとしないお父さんとお母さんに、オレは少なからず失望していた。表立ってそう言うことはなかったけれど、一緒にいて未だに良い気分にはならない。
「凪、一つだけ、お前にはっきり言っておきたいことがある」
「何、お父さん」
「お姉ちゃんはな、もういないんだ」
「は?」
この期に及んで何を言っているんだろう。お姉ちゃんがいなくなったのは俺だって分かってるのに。
「何言ってるの、お父さん。お姉ちゃんは、そりゃ、いないけど」
「凪。凪は、お姉ちゃんがどうなったか、覚えてないのよね?」
お母さんが癇に障るくらい優しい声でそう言った。
「覚えて、って、お姉ちゃんは」
「お姉ちゃんは、死んだの」
お母さんがそう言った瞬間、自分の中の何かが、プツン、と切れる音が聞こえた気がした。
「凪。お前が最近クラスメイトの波音ちゃんと【天国】がどこにあるか調べてるって、先生から聞いたんだ」
「あ……」
「そんなの調べたって意味がないのよ。【天国】はね、この世界のどこにもないの。【天国】は、死んだ人が行くところなんだから」
「っ……」
「お前は、学校でお姉ちゃんが死んだことを友達に指摘されるたびに喧嘩沙汰を起こしてるんだ。お前は覚えていないかもしれないけどな。先生方も、事情が事情だからって今のところ大目に見てくれているが、ずっとこんなことを続けていてもお前のためにならない」
「あ、ぁ………」
「だから、だからね、凪。辛いけど、お姉ちゃんはもう死んだって認め———」
「ああぁぁあぁぁぁぁぁぁああぁぁぁっっっ!!!!!!」
そこからのことは、あまり覚えていない。
辛うじて覚えているのは、オレの身体を必死に押さえつけようとするお父さんの怒号と、お母さんの悲痛な声。
気付くとオレは、雨が降りしきる夜の町をあてもなく彷徨っていた。髪はぐっしょりと濡れて、歩くたびに前髪の毛先から雨水が滴り落ちる感覚だけがある。時折水たまりに足を突っ込んで撥ねた水がズボンにかかるが、そもそも傘もさしてないんだから関係なかった。
———“お姉ちゃんは、死んだの”。
———“【天国】は、死んだ人が行くところなんだから”。
「…………うそだ」
———うそだ。嘘だ。ウソだ、嘘だ。ウソだ嘘だうそだうそだウソだウソだうそだうそだうそダうそだ嘘ダうそだうそだウソだウソだウソだうそだうそだうそダうそだうそだウソダウソダうそだ嘘だうそだうそだうそだうそだ嘘だ嘘ダウソだうそだ嘘だうそだ。
「っ、うそだぁあああぁあぁあぁぁぁぁアァぁあぁあぁああァぁぁっッ!!!」
頭にいつまでも残り続ける先程の母さんの言葉を振り払うように、オレは一人雨の中で叫んだ。
でも、どれだけ叫んでも、どれだけ雨に打たれても、その言葉は決してオレの中から消えてくれなくて。
ふと何気なく視線を足元から周囲の景観に向けると、ちょうどあの空き地の前に自分はいた。いつだったかお父さんとお母さんが置いていった花束は、まだそこにあった。すっかり枯れてしまっている上にこの雨でぐっしょりだから見る影もないけど。
雨の中、街灯で僅かに見える雑草まみれの空き地。そこに目を向けた瞬間、そこにお姉ちゃんの姿が見えた気がした。
▼▼▼
「お姉ちゃんッ!!」
町中走り回って荒くなった呼吸を整える間もなく、オレはお姉ちゃんの名を呼んだ。
オレの背丈くらいある雑草が生い茂っている空き地だったけど、お姉ちゃんがそれよりも背が高かったのは不幸中の幸いだった。おかげでお姉ちゃんを見つけることができた。
雨脚は強くなっていたけれど、オレの声はなんとかお姉ちゃんに届いたらしくて、お姉ちゃんはゆっくりとオレの方を向いた。
「お姉ちゃん、何やってるの!父さんと母さんも心配してるよ、一緒に帰ろう?」
「凪……」
オレがお姉ちゃんに近づこうと空き地に一歩踏み出した瞬間。
「———ごめんね」
お姉ちゃんはそう言って、笑った。
その笑顔は、今までオレに向けてくれていた笑顔の中でも、一番綺麗な表情だったと思う。
直後、お姉ちゃんの身体は崩れ落ち、雑草の中に隠れてしまった。
▲▲▲
「うっ、うぅぅ………っ」
お姉ちゃんが【天国】に行った場所。
お姉ちゃんが“死んだ”場所。
あの日、お姉ちゃんが立っていた場所には、もうお姉ちゃんの跡は欠片も残っていなかった。
「ごめん……ごめんね、お姉ちゃん………っ」
オレは、お姉ちゃんを救えなかった。助けることができなかった。その現実から目を背けて、お姉ちゃんはどこかに行ってしまっただけだと思い込んだ。自分の心を守るために。
「お、れは……っ、オレは………ッ」
自分が情けなかった。苦しかった。自分を呪った。
どうして、お姉ちゃんの苦しみに気付いてあげられなかったんだろう。
あの日、もう少しだけ、あと十秒でも早くお姉ちゃんを見つけられていたら。
そんな後悔ばかりが自分の中に渦巻いていた。
「———凪くん」
「……?」
雨の降る中、オレは確かに、オレの名を呼ぶ誰かの声を聞いた。
★★★
私が初めて他人から頼られたのは、今から五年前。
相手はママ。
内容は———。
「波音、ママと二人で、パパを殺すの」
まだ小さかった私には、“殺す”っていう言葉の意味がよく分からなかった。でも、ママから初めて頼りにされたことが私は嬉しくて嬉しくて。
だから、ママの言うとおりにした。
夜、眠っていたパパの手と足を、ママが慎重にガムテープで縛りつけて。私は、ママがホームセンターっていう所で買ってきた電動ノコギリの刃をパパの首元に添えた。
ママの合図で、私は言われた通りに電動ノコギリのスイッチを入れて、一思いにパパの首を切断した。
「っ!?ぐアァァああぁぁぁァァァぁあああァァァアアァァァァあぁぁぁあああぁぁぁぁァァァぁああァァァァアアァァぁあぁあぁぁあぁ嗚呼あぁっっつつっッ!!!!!」
痛みで目が覚めたパパがその時に叫んだ断末魔を、今も私は覚えている。
「波音。ママの次のお願い。パパを、食べて?」
食べていいの、と私は一度だけママに確認してみた。
「うん、食べていいの。このままじゃ、お部屋が汚くなっちゃうから」
いつも部屋を少し汚しただけでパパから殴られていた私は、ママのその言葉で恐怖に駆られた。もうパパは、首を真っ二つにされて死んじゃっていたのに。
ママに言われるがままに電動ノコギリでパパの身体を細切れにした。所々骨が固くて手間取るところもあったけれど、そこはママが手伝ってくれた。千切れたばかりのパパの頭も頑張って輪切りにして、もうパパの姿を留めていなかったその肉を、ママは一つ一つフライパンで焼いてステーキにしていく。思えば、ママと一緒に料理をしたのもそれが初めてだったかも。
ちなみに部屋に飛び散っていたパパの血は、後でママと一緒に洗剤と雑巾を使って綺麗に掃除した。
「どう、波音?お肉美味しい?」
ママにそう聞かれた私は、美味しい、と答えた。何しろ私が肉を食べさせてもらったのはそれが初めての経験だったから。初めて口にした肉は神の味がした。正確にはパパの味なんだけど。
そうして何日かかけて、私はパパの肉を少しずつ処理していった。ママから“料理”の仕方を教わった私は、慣れないなりに自分でもパパの肉をフライパンで焼いて、留守番の日も食べ続けた。あんなに毎日お腹いっぱいになるまでご飯を食べさせてもらえたのは初めてだった。美味しかった。幸せだった。満ち足りていた。パパがいなくなって、私とママが殴られないようになったこと。ママが、初めて私を頼ってくれたこと。
その時までは、幸せだったのに。
「波音、“パパは私が殺しました”って、おまわりさんに言ってくれる?」
ある日ママがそう言ったとき、私はどうしようもなく、失望した。裏切られたと本能的に理解できた。
だから、ママも“食べる”ことにした。
やり方は全部ママが教えてくれた通り。眠っていたママの手足を、起こさないようにガムテープで縛り上げて、電動ノコギリで首をちょん切ってやった。
「はっ、ああぁあァァァアアァァァァァあああぁああぁアアァァぁぁあああああァァァぁぁぁァァァぁああァぁぁぁああぁぁァァァっっッっ!!!」
———って、ママが叫んでいた気がするけど、私はママのその最後の言葉に負けないくらい大きな声で、笑った。嗤った。哂った。
「くはっ、あはッ、アハハハハハハハはハハハハハハハハハハははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっはははははははははははははっはははははっはははははっははっッっ!!!!!!」
パパと同じようにママも“料理”して、ママの肉を食べたときに気付いた。パパが美味しかったのは、初めて食べた肉だったからじゃない。憎い人を食べ殺してやったから美味しかったんだ。
パパとママの肉を食べきった後、残った骨は粉々にすりつぶして流しに捨てた。部屋に飛び散っていたママの血は、パパのときと同じように洗剤と雑巾を使って綺麗にする。その作業が終わる頃には、私は家に一人きりだった。
しばらく経ってから、家におまわりさんと、それまで会ったことのないおじいちゃんとおばあちゃんがやってきた。
「パパとママはどこに行ったの?」
皆にそう聞かれたけれど、私は知らない、としか答えなかった。
パパとママは“ゆくえふめい”っていうことになったらしい。というか、今もそう。私はおじいちゃんとおばあちゃんの家に預けられることになった。それから五年間、ずっと二人と一緒に暮らしている。二人は孫の私によくしてくれる。だから二人を食べるのはやめておいた。
でも私は、五年が経った今でも、あの時に食べたパパとママの味が忘れられなかった。おじいちゃんとおばあちゃんに普通の肉を使った料理を作ってもらったときも美味しいと感じたし、学校で皆と食べる給食だってあの頃私がママに出してもらっていたものとは比べ物にならないくらい美味しい。
でも、やっぱり違った。あの時以上に美味しいとは思えなかった。
そんなとき、私はある男の子に恋をした。
***
「藤村、なにしてるの?」
ある日の午後の教室。移動教室の授業で他のクラスメイト達が音楽室に向かっている時間。教室中を慌ただしく探し回っていた私に声をかける男の子がいた。クラスメイトの
「お、音楽の教科書、無くしちゃって…………」
無くしたんじゃなくて、隠されたっていうことは私にも分かっていた。私は大人しい性格だったせいで、昔からよく他の女の子にからかわれたり、今みたいにモノを隠されることが多かったから。
教室の時計を見れば、あと三分もしないうちに次の授業が始まる時間だった。音楽の先生は厳しいから遅刻すればどんな小言を言われるか分からない。残り三分に差し迫った恐怖に私が目に涙を浮かべていると、凪くんが言った。
「じゃあ、オレの教科書貸してやるよ」
そう言って凪くんは、机の引き出しから彼の音楽の教科書を取り出してこっちに寄越した。押し付けるようにして一方的に私に教科書を渡して、彼は廊下へ出ていく。
「え、待って、よくないよ。だってそしたら凪くんが……」
「今日の給食、牛乳じゃなくて豆乳が出たろ?おかげでお腹が痛くてさ、午後は保健室で大人しくしてる予定。だから使っていいよ」
凪くんはそう言って僅かに口角を上げると、お腹が痛いなんて言ってるくせにやけに堂々とした歩き方で保健室に行った。
「ありがとう……」
もう誰もいない教室で私が漏らした感謝の言葉は、誰の耳にも届かなかった。
***
それは凪くんのお姉さんが亡くなって、私が先生から凪くんをよろしくって言われてから数日後のこと。
「……【天国】って、どこにあると思う?」
「…………空?」
天国がどこにあるかと聞かれれば、大多数は、少なくとも真っ当に生きてきた健全な子供なら『空』と回答すると思う。私だってそうだった。昔からテレビとか漫画じゃ、天国は空に浮かんだ雲の上にあるところみたいに表現されてたし、詳しくはないけど昔話とか神話でも同じように描写されるものだと思う。
「空?どうして?」
だから、凪くんにそう尋ねられた時、私はありのまま思ったことを告げた。
「だって、天国は空の上にあるものみたいにテレビとか本じゃ言われてると思うよ?天国には死んだ人が頭の上に光る輪っかを乗せてて、背中には白い羽根があるみたいな」
「———死んだ人?」
「えっ、うん。だって、天国って死んだ人が行くところじゃ———」
「———めろ」
「え?凪くん、何か言った?」
「やめろ!!!」
凪くんは普段のちょっと口が悪いけど穏やかな態度を一変させて、廊下中に響き渡るくらいの声で叫んだ。
その声に私はびっくりしちゃって、凪くんの次の行動に備えることが全くと言っていいほどできなかった。
パシィン。
小気味いい、何かを叩く音が周囲に響いた。その音が発せられたのが自分の顔だと気づいた時には、強烈な痛みが右の頬から私の神経に伝わっていた。
「な———」
凪くん、何するの。
そう口にしようとしたけど、またしても私は凪くんの次の行動に出遅れてしまう。
「きゃっ!?」
凪くんが、私の身体を廊下の床に押し倒して、私に馬乗りになった。体形は私とそんなに変わらないはずだけど、全体重を乗せられているのだから当然重い。だから私はまったくもって身動きが取れなかった。
パシィン。
凪くんがもう一度、私の右頬を手で叩き付けた。一応女の子なのに、何のためらいも容赦もなく。
「———るさいんだよ」
「えっ………?」
「五月蠅いんだよ!!!!」
パシィン。パシィン。パシィン。
抵抗することもできないままに、私は何度も何度も凪くんに右頬を叩かれた。
———どうして?凪くん。
———どうして、泣いているの?
私を見下ろす凪くんの両目からは、大量の涙が流れていた。
泣きたいのは私なのに。痛いのは私なのに。辛いのは私なのに。
どうして、凪くんが泣いているんだろう。
そして、何度も何度も頬を叩かれる中で、私の中に眠っていた遠い記憶が呼び覚まされる。今はもういない、私が食べてしまったパパの姿。毎日のように私とママに暴力を振るっていたパパの拳と、打ちつけられる痛みの味。
———あぁ、なんだか、懐かしいな。
好きな男の子に一方的に暴力を振るわれているというのに、私は思考すら曖昧になった頭でぼんやりとそんなことを思っていた。
他の生徒も沢山行き交う廊下だったことが幸いしたのか、凪くんはすぐに駆け付けた先生に取り押さえられて、どこかに連れていかれた。私もすぐに担任の先生に保健室に連れていかれて、真っ赤に腫れあがった右頬には大きなガーゼが張り付けられる。
後日、凪くんはこの時のことを何も覚えていなかった。
***
凪くんと町の図書館で【天国】の調べものをするようになった。
凪くんは学校の図書室で調べていた頃と変わらずに地理の本とか世界地図とにらめっこしているけど、あんまりにも熱心に調べている凪くんを見ていると、もしかしたら世界には本当に【天国】っていう場所が存在するんじゃないかという気さえしてくる。
でも、そんなものはこの地球のどこにも存在しない。
だって私は、パパとママを【天国】に送ってやったことがあるんだから。分かりすぎるほど分かりきっている。
【てん-ごく《天国》】
①神や天使などがいる天上の理想世界。キリスト教では、神から永遠の祝福を受ける場所。
②そこで暮らすものにとって、理想的な世界。何にも煩わされない快適な環境。楽園。
辞書にだってこう書いてあるんだから。
私はこの行為の意味をどこか空しく思いながら、辞書を本棚に戻した。
***
「私、凪くんの役に立ててる……?」
「え?」
そんなことを凪くんに聞いてしまったのは、とっくに私の中では結論も答えも出ているはずの、しかし凪くんが頑なに目を背け続ける【天国】を探す今の行為が、あまりに無意味に思えていたから。
無意味な今の行為に意味を与えたくて、私はそう尋ねた。せめて好きな人が私を必要に思ってくれているなら、この毎日にも意味はあると思った。
「あぁ、藤村はすごく役に立ってくれてるよ」
「そっか……すごく、嬉しい」
だから、凪くんにそう言ってもらえて嬉しかった。
「なぁ藤村。オレも一つ聞いていい?」
「うん、なに?」
凪くんが改まって私に何かを聞いてくるなんて珍しくて、私は少しだけ身構えた。
「どうしてこんなに親切にしてくれるんだ?オレ達そこまで仲が良かったわけじゃないのに」
「えっ、それは、その……凪くんのこと…………」
好きだから。その気持ちに嘘はない。私は凪くんが好き。
でも一方で、別の感情が私の中にあった。
「———食べたいから」
思わず発したその言葉はあまりに小さくて、隣にいるはずの凪くんにも聞こえなかったみたい。
でも、誰の耳に届かなくても声に乗せて言葉にするというプロセスを経たことで、私は自分の気持ちを決定的なまでに理解してしまう。
———あぁ、そっか。私。
———凪くんのこと、食べたいんだ。
パパとママのことは、今も嫌いだ。憎かったから、二人を食べたときは美味しかった。
凪くんのことは、好き。前に殴られたりもしたし、その瞬間だけはさすがに好きにはなれなかったけど、今も好きだ。パパとママとは違う。なのに、同じように食べたいって思う。
———オレはお姉ちゃんがいる【天国】に行きたいんだ。
凪くんがいつも口癖みたいに言っていたその言葉。現実から目を背けている凪くんに自覚はないみたいだけど、それは“死にたい”って言ってるのと同じ意味だった。
———自分のすぐそばに、死にたいと言っている人がいる。
———死ぬことに変わりがないなら、私が食べたって同じじゃないの?
———好きな人の肉はどんな味なんだろう。
電車の外で降り続ける雨の音も耳に届かないくらいに、私は好きな人の隣でずっとそんなことを考えていた。
★★★
雨の降る中、傘もささずにそこに立っていたのは藤村だった。
「ふじ、むら……?」
どうしてここに、というオレの疑問に答えるように、藤村は言った。
「凪くんのご両親から、私の家に連絡があったの。凪くんがどこかに行ってしまったから、もし家に来たら知らせてくださいって。笑っちゃうよね。凪くんは私の家、一度も来たことないのに」
藤村は靴と、くるぶしまで伸びている女の子らしい可愛い靴下が泥水で汚れることも厭わず、こちらにゆっくりと歩み寄ってくる。
その手に、見慣れない工具らしきものを持って。
「ねぇ、凪くん」
「え……?」
「【天国】、どこにあるか分かった?」
そう口にした藤村の言葉には、どこか愉悦を感じさせる感情が込められていた。
あぁ、愉快だろう。自分はずっと、【天国】はこの世界のどこかに実在するって信じ続けていたんだから。そんな場所が存在しないことは幼稚園児でも知っている。その幼稚園児だってここまで頑なに自分の考えを守り通したりしないだろう。
そんなヤツを藤村は今までずっと間近で見続けてきたんだから。
「……あぁ、分かったよ」
今のオレは、【天国】がどこにあるか、もう知っている。
お姉ちゃんがどこに行ってしまったのか、分かっている。
お姉ちゃんがどうなってしまったのか、覚えている。
「藤村が言った通り、【天国】は空の上にあるらしい」
「うん、そうだよ」
「俺のお姉ちゃんは、空の上に行っちゃったらしい」
「うん、そうだよ」
「お姉ちゃんは、死んだんだ。オレはお姉ちゃんを助けられなかった。お姉ちゃんの苦しみに気付いてあげられなかった。お姉ちゃんを見つけ出したのに、目の前までたどり着いたのに、止められなかった」
「うん、そうだよ」
オレの答えを、藤村は優しく頷いて肯定してくれた。
「百点満点?」
肩をすくめて、おどけたようにして聞いてみた。
「うん、百点。でもね、質問はもう一つあるよ」
「うん、なに?」
どうしてだろう、藤村がこれから何を尋ねるのか、オレはなんとなく予感できた。
藤村が、手を伸ばせば届く距離まで来て、立ち止まった。夜の闇とこの空き地の背の高い雑草に隠れて見えづらかったけど、この距離ならさすがにお互いの顔がはっきりと見える。
藤村は、泣いていた。
泣きながら、笑っていた。
「凪くんは、お姉ちゃんのところに逝きたい?」
その手にあったノコギリのような工具を両手で持って、藤村はそう言った。
オレは、自分でもびっくりするくらい落ち着いて、かつ間を置かずに答えを出した。
「———逝きたい」
「———百五十点だよぉ……うっ、うぅぅうぅ………」
藤村は大粒の涙を零しながら、手に持っていたノコギリの電源を入れた。
「私ね、凪くんのことが大好きだったんだよ」
「うん、そっか」
「意味がなくても凪くんと一緒にいられて、すごく幸せだったの」
「うん、そっか」
「でも、凪くんのこと、食べちゃいたい。凪くんの顔も手足も内臓も脳ミソも、全部全部全部全部食べて食べきって味わい尽くしたい」
「うん、そっか」
比喩なのか本音なのか分からないその言葉を、オレはすべて受け入れた。
藤村は、ノコギリの切っ先をオレの首元に突きつけて言った。
「ねぇ、凪くん………?」
「ん?」
「一つだけ、お願いしてもいーい?」
「うん、いいよ」
「私のこと、下の名前で呼んで?私ばっかり“凪くん”って呼ぶの、おかしいから」
そういえば、ずっとそうだった。他の友達からも“凪”と呼ばれていたから気にも留めていなかったけど。
何も言わずに、殴られてもずっとオレの傍にいてくれた藤村に対する最後の礼になるのなら、そうしよう。
「———波音」
「うん」
「ごめん。ありがとう」
「なぎ、くん……っ、大好きだよ」
その言葉を合図にするかのように、波音はノコギリを大きく振りかぶった。
お姉ちゃんのいる【天国】に続く階段を昇っている間、最後までオレの耳に届いていたのは波音の泣き叫ぶような笑い声だった。
Vector to the Heavens 棗颯介 @rainaon
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