トモコのクリニック日記

水原麻以

トモコのクリニック日記

トモコのクリニック日記


 女のカラダってつくづく不便だ。

 こんなことを口にするとすぐ女性蔑視だ男女差別だと言葉の魔女狩りが騒ぎ出す。うっかり実感を訴えることもできやしない。本当にギスギスして窮屈な世の中になったものだ。街を歩けば至る所で防犯カメラが目を光らせてるし、雑踏の中で携帯を構える無礼者もいる。段差のある場所では後方を警戒しなくちゃいけない。

 そういった愚痴を呟こうツィートものならどこからかハイエナが嗅ぎ付けてたちまち炎上する。

 高度情報社会が行き過ぎた監視社会を作り上げた。それはますます厳しくなることはあっても緩むことはないだろう。

 トモコはスマホを見つめてため息をついた。枯葉が一枚残らず落ちた街路樹。やせ細った指が鈍色の空に助けを求めている。曇天は今にも泣き出しそうで、なんだかこっちまで滅入ってしまう。どこからか「夕焼け小焼け」のメロディーが流れてきた。拡声器が児童に帰宅を促している。それが停滞しているトモコの時間を後押した。スマートフォンを眺めて逡巡している間に日は傾き、ビルの窓明かりが透過光のように眩しい。トモコの背後にバスが停まった。わらわらと学生が降りてくる。すし詰め状態の車両は行列を吸い上げて走り去った。次の便を待っている客が「そこ、空いてますか?」と遠慮がちに訊いてきた。乗客でもないのにベンチを占領していたのだ、

「何やってるんだ。わたし」

 トモコは重い腰をあげた。夕暮れの街はオレンジ色に染まり、夜の顔に脱皮していく。先を急ぐ人々の足取りはどどれもしっかりしている。目的地が決まっているのだろう。それに比べて、トモコは川の流れに取り残された石のようだった。通行の妨げにならない場所で検索アプリを立ち上げた。そして、いくつか候補を閲覧したあと、ようやく希望にかなう結果を得られた。ホームページに書かれた電話番号をクリックして無料通話アプリを立ち上げる。

 38回呼び出し音が鳴った後に、やる気のない応答があった。

「……あの。予約していないんですけど……ええ、初診です」

 電話口の女はぶっきらぼうに言い捨てた。「かなり待ってもらっても、診察お断りするかもしれないんですよねぇ。うちの先生、働き方改革何とか協議会の……」

 そこまで言われてトモコはムカッと来た。しかし、病状は深刻だ。せめて問診票だけでも書かせてもらえないかと食い下がった。

「え~と、今の混雑状況ですと……診療時間ぎりぎりになりますねぇ。困るですよねぇ。あたしだって帰りたいし」

 受付嬢は仕事の愚痴をトモコに転嫁して電話を切った。

「なーにが早めに予約して下さいよ~だ。ブァーーカ!」

 トモコはフグのように口をすぼめて悪態をついた。と、何とも言えない痛みが襲ってきた。

「いたたた、背中が痛い~」

 耐えきれずその場にしゃがみこんでしまう。

「——ッ!」

 しばらく声にならない呻きをあげる。よろよろと歩き、通行の妨げにならないように街路樹の花壇に腰をおろす。

 高校生の集団が騒ぎながらすぐ目の前を通り過ぎるが、トモコにまったく気づいていない。

 その間にも脇腹から背中にかけて重い痛みが走る。スマートフォンを花壇の縁において一本指で操作する。

 スマホアプリでタクシーを呼ぼうとした。

 《恐れ入りますが駐停車禁止区域につき配車できません》

 取り付く島もない冷血残酷なエラーメッセージに見切りをつけて、トモコはよろよろと立ち上がった。

 もう一度、タクシーアプリを開く。地図上の◎から病院まで直線距離で数百メートルはある。トモコにとってはアンドロメダ銀河よりも遠い世界だ。それでも行かねばならない。柵を杖にして歯を食いしばって立ち上がった。

 数歩歩いては休み、また歩き出す。悠久の時をかけるわけにはいかない。診察時間は刻一刻と迫っている。

 気の遠くなるような苦労を重ねて、トモコはウロロジークリニックの扉に触れた。

 自動ドアが開くなり、転がるようにして入る。受付で不機嫌そうなアラフォーBBAが面白そうに見ている。

 名前を告げると、ケラケラと聞こえるように笑われた。しかし、苦痛がすべてのインプットに勝っており、腹立ちや侮蔑感といった随意的な感情はすべてキャンセルされる。

 こういう時は正面の課題に一点集中するのが一番だ。頭から余計な邪推や懸念を一掃し、目標達成に専念する。

 記載欄に口外するのも憚られるような項目があり、それがトモコの心をえぐった。そこに腰痛が覆いかぶさる。

 なんとか記入し終えて、待合室で順番を待った。本当は今すぐにでも長椅子で横になりたいのだが、満室だ。

 泌尿器科ウトロスクリニックの患者は男女半々だ。しかし医師は主に男性なのでかなり気を遣う。

 ようやく名前をよばれ、診察室に入る。いやらしい視線がジロリとトモコのスカートを撫でた。

 特にトモコにとって内診は心理的抵抗が大きかった。できることなら避けたい。

 それで苦心惨憺して「内診なし」の病院をネット検索した。

 気の遠くなるような検診を繰り返して精密検査に移った。言われるままにスカートを脱いで一分丈スパッツ姿になりベッドに寝そべる。

 それにしても医学の発達はすごい。内視鏡を使わなくてもエコーで全部わかる。

 超音波がトモコのデリケートな部分をくまなく走査した。

 途中で医者が大きな影が見えますねぇ、三センチくらいありますよ、というので「いや、それは筋腫です。ただちに健康被害はないのでスルーしてください」とトモコは断った。

 そして、診断結果が出た。

 吊り目の三白眼医師が言う。

「あんたね。腎盂腎炎の一歩手前だよ」ということだった。

「腎盂腎炎?」

「最近、女性に増えているんだよ」と言って、トモコの生脚に目をやる。

「はにゃ?!」

 まじまじと凝視されるとブラックホールに隠れたくなる。

「あんた、アラサーになったんだから、アラサーなりの食生活しなきゃだめだよ。いつまでも若くないんだからさ」

 医師は血液検査の結果を示しビシビシと指摘した。LDH、γーGTPなど異常値が散見される。

「えーっ!」

 トモコは外食漬けの生活を反省させられた。

「それとあんた、冷やしすぎだよ」

 医師は脚を温めるように指導した。

「えーっ、わたし、過敏症で化繊にかぶれるんですぅ」

 トモコは泣きっ面に蜂だ。皮膚科でパンツルックは控えるように言われている。

 ステロイドの塗り薬を使いすぎると副作用が怖い。

「綿のストッキングなんてないですし……」

 トモコが窮状を訴えると医師はさじを投げた。

「じゃあ、食事に気をつけるしかないね」

 診察室を出てトモコは処置室に連れていかれた。小一時間ほど点滴を受けると腰の痛みが軽くなった。

 頭の中で医者の言葉がぐるぐる回転する。しばらく食事制限で様子を見て、また痛くなったら来なさい。

「え~熟コロッケバーガー食べたかったのに~~」

 トモコはがっくりとうなだれた。

そして、虚空に自身の未来像を浮かべながらつぶやいた。

「私からあなたへ。よく考えよう…体は大事だよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トモコのクリニック日記 水原麻以 @maimizuhara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ