叫び

叫び


 俺は基本、どこまでも自己中になれる根暗だ。

 それを突き崩せるのは今のところ年の離れた従弟だけだった。


 湿気が滞っている午後。閉塞感ばかりが募り、体から黴が生えそうだ。


 前触れもなく従弟に突撃された。

 従弟は八歳。だが、言動は四歳前後。障害があるらしいが俺にはただの可愛い子供に見える。


 父親が買い物に出ている間、俺が従弟と遊んでやるのが日課だ。


 隣の台所からは祖母の叱責と、母のか細い「すみません」の声が漏れていた。

 年季の入った家なので、台所の木質床は傷んだ箇所を踏むとキイキイ鳴った。


 その不快な三重奏が薄い戸の向こうから聞こえる度に、従弟が奇声を発した。それを宥めるのが俺の役回りだ。


 俺がすかさず玩具のミニカーを「ぶーん」と畳の端から端まで駆け抜けさせると、従弟の悲鳴は止まった。

 彼は俺からミニカーを奪い取り、にやっとした。




――――――――


 ……いとこがきゃーっと叫ぶ。ちょっと薄れた。


 もう一度、きゃーっ。言葉の判別がつかなくなった。


 きゃーっ。隣室の怒号が一瞬、途切れた。(さすがに耳が痛む)


 おれの耳元で鼓膜が破れんばかりに、きゃーっ。祖母の怒鳴り声が完全に聞こえなかった。(ありがとう)


 いとこは叫び疲れて、ぐいっと首に抱きついた。


 戸がぴしゃりと開いた。祖母が仁王立ちしていた。

 その奥、母はこれからおれたちに降りかかる不幸を傍観する気でいると分かった。


 いとこがきゃっきゃっと笑った。

 おれだけが、いとこはこの不穏さを察知しているんだと気づいた。

 

 祖母の刃物のような怒号がおれたちに振り下ろされた。

 また、いとこがきゃーっと叫んだ。


――――――――




 俺は、ほんの短い小説を新聞に送った。まさか採用されるなど思いもしなかった。


 祖母はにこにこ笑っていた。

 自分の孫の記事が新聞に載った、という事実しか見ておらず、それだけを自慢して回った。ある意味助かった。


 母は、余計なことを書いた俺と、ご近所のお友達に称賛されたと鼻高々に語る祖母を静観していた。

 小説に逃避しただけのくせに周りに評価された俺を、母は蔑んでいるのだろうか。




 本棚から黄ばんだノートを発掘した。

 小説のネタが書き綴られた頁。俺の筆跡だ。


 確かに見覚えのある文章だったが、不可解なのは俺が小説を書き始めてまだ一年足らずなのだ。

 本がこれほど傷んでいるのは日焼けしたのか。


 滅多に本棚から取り出さないのに?


 ……もしや家族の誰かが勝手にノートを広げていたわけでは……。

 ともかく誰にも見つからない場所に隠し直す必要があった。




 学校で担任教師が俺の記事を大量にコピーし、クラスメイトに誇らしげに配った。俺に何の許可も取らずにだ。


 機嫌の良い担任の顔を引っ叩いてやりたかった。


「誇らしいですね」


 あんたのために文章書いてねえよ。中身、読んでないの? 本当にプライベートなこと書いてんだけど。


 会ったことのない不特定多数の人間に知られるのは全然構わなくても、毎日顔を会わせるクラスメイトには知られたくない。


 高校生の交友関係は狭く複雑。担任はそんなことを考慮する人間でなかったらしい。

 これも全て新聞なんてものに出した俺の自業自得だ。


 俺は蒼白になっているであろう顔を伏せた。


 大して親密な友達がいなかったことがさいわいし、クラスメイトからは特に言及されることはなかった。




 学校で配られた新聞の切り抜きを従弟に見せた。


 音量をできる限り絞って、読み上げてやる。母や祖母に聞かせるわけにはいかないので、小さく小さく。


 俺が読む声に合わせて、従弟が「きゃーっ」と喜んだ。

 自分の事だと分かっているのかもしれない。


 きっと赤の他人が聞けば不愉快なんだろう、従弟の叫び声。

 俺にとっては安らぎだった。





 切羽詰まった様子の祖母に、従弟を迎えに行ってくれ、と頼まれた。

 自室で漫画を読んでいた俺は飛び起きた。


 一瞬、面倒だと思ったが、もし線路にふらふらと立ち入っていたらと考えると行くしかなかった。


 見つけたとき従弟は道路を渡れず、横断歩道手前で右往左往していた。

 表情にあからさまな焦りがないので、迷子なのか単に遊んでいるだけなのか分かりづらい。


 中学生だろう子たちが従弟を見て「やば……」と呟いた。

 俺は傷付いたと同時に、胸が晴れた。


 そうだ、この子の面倒を見るのは引くほど大変なんだ。俺は精一杯をやれてる。


 従弟が「きゃーっ」と叫んだ。俺の姿に安心したからだろう。

 抱き着いてきたので抱き締め返してやって、手を繋いだ。


 周囲の人がそそくさと道を開けた。


 家に帰ろうと手を引いたが、従弟は反対方向に歩き出した。

 彼が向かったのは市民図書館だった。


 埃っぽく所々に老朽が見て取れた。

 幼い頃、よく父と訪れた馴染みの図書館だが、こんなに古びていただろうかと束の間首を捻った。


 従弟は無料の水飲み場でガブガブ飲用水を飲み、トイレに入った。

 俺が後をついていこうとすると嫌がった。


 仕方なく入り口で待っていて数分後、従弟はすっきりした顔で出てきた。

 服の裾がはみ出てもいないし、ズボンを濡らしてもいない。


 手はびしょ濡れなのでハンカチを渡してやりながら、「一人でトイレできるのか」と褒めた。

 俺は本当にただ感心しただけだった。


 しかし、従弟ははっと顔を強張らせた。間違えた、と気付いた。


 顔を真っ赤にして従弟が「ぎゃーっ!」と叫んだ。


「ごめん、落ち着いて」


 そう何度も言っても聞く耳なしの様子だ。


 俺は図書館を出るしかなかった。

 園庭に連れて出れば、従弟から容赦ないパンチやキックが繰り出された。


 人前で同年代の子ができて当たり前のことで褒められて相当嫌だっただろうな、と思ったので甘んじて受けた。

 きっと俺が思う以上に恥ずかしい思いをさせてしまったんだ。


「ごめん……」


 繰り返し謝ったものの、取り返しがつかないという罪悪感ばかりが胸を占めていた。


 俺は自分だけがこの子を分かってやれるなど驕っていたつもりはないが、実際にはこの子の内面の成長に思いを馳せることなく発言したのだ。


 癇癪の蹴りが治まってから、俺は芝生に寝転んだ。芝生に雨の匂いが立ち込めていた。


 バッタが俺の手を飛び越える。

 従弟もまたバッタのような感情の読めない目で俺を見ていた。


 従弟が今度は好奇心から顔を蹴ろうとするので、怖い表情を作り「痛いよ」と強く伝えると止めてくれた。


 従弟は暫く俺の周囲を走り回っていて、騒がしい足音を地面から感じた。




 従弟が向きになって怒ったのは、本当は俺に一番に自分の事を分かっていて欲しかったからなのかもしれない。ふと、そう思った。


 それが嬉しくもあり、今だけだとも思った。


 俺に懐いてくれているのは、そもそも狭い世界で生きているからだ。

 きっとすぐ小学校での交流が増えていくだろう。


 今だけだ。俺がこの子に縋っていいのも、今だけだ。



 

 従弟が走り回るのに飽きて、俺の前にどしんと腰を下ろした。


 俺は改めて、こいつは俺に似てプライド高いんだよなあ……と思った。


 はた、と自分の思考の奇妙さが意識に上った。


 この子は俺に似ている。では、この子の親には……。従弟の親の顔が浮かばない。そして、俺の父親の顔も……。


 いや、この子の父親は俺か。

 知恵の輪が解けたような閃きが襲った。




 ――一瞬、世界が何か勘違いをして、つい騙し絵のように未来と過去が混ざってしまったらしかった。


 高校生の俺と、社会人となって家庭を持った俺のいる時代が、数ヶ月間だけ重なっていた。

 俺の祖母だと思っていた人は俺の母で、母だと思っていた人は俺の妻で、従弟は俺の息子だ。


 あのノート。黄色く日に焼けた俺のノートは誰かが盗み読んでいたのではなく、俺自身が何十年も持っていたものだったのだ。


 全ての辻褄が合ってしまえば、ふっと心が翳った。


 これが俺の未来。

 言うなれば、今ここにいる従弟は幻想で、あの救いの叫びは幻聴だった。


 過去と未来が重なっていたこの期間、従弟の父親つまり大人の俺は顔を出さなかった。

 それは容易に推測できた。未来には、母に叱責される妻を見捨て、子育てと家事を放棄するために仕事に邁進する自分がいる、と。


 乾燥わかめのように、感情から水気が抜けて、干からびて、パラパラに砕かれて……。

 叫びを持てずに廃れていく自分が脳裏に映った。


 薄暗い影がこれから先の人生に差していた。

 簡素な電灯がカチカチ瞬くかび臭いトンネルをずっと歩いていかねばならない心地だった。




 不意に、「ばいばい」と何かを悟った従弟が手を振った。

 俺は「またね」と囁くしかなかった。


 従弟がよっぽど俺の間抜け面が面白かったのか「きゃーっ」と叫んだ。





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